近頃は私は寺には殆ど行かなくなった。以前は熱心に寺に通っては読経をしていたものだが。理由は仏教の世界というものは基本的に人工的に構築されたものだということが分かったからである。一部に真理も含まれているが多くは人工的な教義で塗り固められたものであり、こう言うと不遜に思われるかもしれないが真理の探究において仏教に心惹かれるものが無くなってしまったのである。今では歴史的遺産として寺院や仏像を鑑賞したり日本人の思想的背景としての仏教という見方をするようになった。そういう意味においては他の宗教も似たり寄ったりであろう。
あまり寺に行かなくなったもう一つの理由として寺が依頼心の強い霊が集まる場所になっているように感じるからである。依頼心が強い霊とは成熟していないということであり、つまりは地縛霊(未成仏霊)ということである。寺の山門を中に入った所とか本尊が祀られていて信者が熱心に拝むような場所にはそういう霊がいるようである。「お大師様どうか助けてください。観音様、私の願いを聞いてください」というふうに祈る時、人の心はその対象に対して依存しているのである。私は近年、祈りとは誰かに対する依存ではなく、神(自然の摂理)に波長を合わせて自分をより高め、魂を強化するためのものであると解釈するようになった。何故なら我々一人ひとりに神が内在しているからである。その内在する神(神性)を見出して育てていくことがこの世に生まれてきた目的ではないだろうか。それが時空を超えて続く人の道であり、神(創造主)の意思だと思う。そして全てのことは他の誰かのせいではなく自己責任なのである。
弘法大師も自分の中に仏(神)がいることを様々な手法や言葉で表現しているようだが、どちらかと言えば一般の信者の間ではお大師様、お大師様と盲目的信仰の対象になってしまっているようだ。真言密教の修行の目的というのも自分の中に宿る仏を発掘することであり、きらびやかな法具や作法は付録であり心に仏を観想し、印を結んでマントラを唱えれば仏の境地に至るというのも方便の一つに過ぎないのである。実際には人間というのは幾多の人生経験を積んで自分の霊性を高めるしかなく、人はその為にこの世に生まれてくるのであり、それは今生だけではなく永遠に続く進化の道なのである。呪文や特定の修法によって悟りの境地に至れるというのは幻想であり、人間も自然界も無限の叡智(神)によって計画された進化のルールの枠の中にあり、そのルール(法則)を飛び越えて何事も為し得ないのである。人間の霊性の進化というものは遅々としたものであり、階段を一歩一歩踏みしめながら登っていくしかないのである。
盲目的に仏教(他の宗教でも同じ)を信仰していた人が他界すると仏教(その他宗教)依存の状態から暫くは抜け出せない状態が生まれるのではないだろうか。生前から真理と宗教というものを正しく位置付けていればそういう状態にはならないだろう。熱心な宗教の信者ほど生前に積み上げた宗教的な固定観念がスムースな霊界への移動の妨げになることは十分に考えられる。昔ある住職が死後、人の霊は寺に集まって住むことになっているという話をしていたが、そういう事を本気で信じ込んでいると地縛状態を作ってしまうのである。キリスト教のある宗派は死後に天使ガブリエルのラッパが聞こえるまで墓で待機しなさいということを教えていたらしいがとんでもないことであり、霊的真理を知らないということは悲しいことである。
寺院などに住んでいる霊の話になるが私自身霊的に敏感な体質なのでそういう霊(地縛霊)のエネルギーを感じやすいのだが、彼らが居そうな所に近づくと大抵は胸が重苦しくなってくるのでわかる。胸の重苦しさを通じて感じるのは悲しみの念である。彼らはこの世で体験した悲しみから死後も抜け出せないのかもしれない。陰鬱な感じのする寺や庵などは地縛霊が集まる場所になっていることがあるようだ。またそういう霊は信者の唱えるお経を聞くことが好きなようで、その意味においては読経が彼らに慰めを与えていることは考えられる。実際には読経を聞いているのは高級霊ではなく彼らではないかと思う。地縛状態に陥っている霊が真実に目覚めるためには読経だけでは十分でなく霊的真理を語って聞かせることが最も効果があると思う。いずれにせよ彼らも時が来れば霊界からの指導によって自分にふさわしい所に落ち着くのである。そういうことは霊界主導で行われるので視野の限局された我々地上の者が出来ることは限られるだろう。
巡礼などで片っ端から札所を巡るというような事をしていると何処かでそういう場所に出くわすことになるだろう。霊的に鈍感な人ならばそういう霊の影響を受けることはないと思うが、敏感な人がそういう場所で熱心に読経をしたり瞑想などをするのは考えものである。双方に親和性がある場合は憑依を受けることになりかねないので注意が必要である。
清浄な気分に浸れる場所に行きたいならば神社のほうが良い。神社は大抵良い土地に建っていてそこに行くだけで気分が晴れるからである。神社はシンプルで余計な飾り物も少なく樹齢何百年という巨木もあり自然の霊気を味わうことが出来る。
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