今までに私は数多くの葬儀に出たが生前に付き合いの無かった人の場合はその人の気配を感じたりすることはない。向こうも赤の他人に何かを伝えたいとは思わないだろう。それはこの世の人間同士でも同じであり面識も無い人といきなり意思の交流が始まることはない。親族や友人、また何かの縁のある人で、当人の思いが伝わってくる場合、葬儀が大規模になり大勢の参列者が来ていると当人は当惑気味で恐縮していることが多い様である。こんなに大勢の人が来てくれて申し訳ないと思っているようである。当人が眠っている場合もあるようだが(お通夜の時は無反応のことが多い)殆どは葬儀の場に来てその様子を見ているようである。
こう言うと多くの人は異議を唱えるかもしれないが生命の抜けた遺体は抜け殻に過ぎないのである。死に化粧をする職人をテーマにした映画があるらしいが、もし霊視が出来る人なら遺体とは別にその場にいる本人を感知する事が出来るだろう。遺族や列席者はひたすら遺体を本人と思って神経を集中しているが実際は本人はすぐ傍に立っていてそれを不思議な気持ちで眺めているのである。それほど死というものの実体がまだ霊的に理解されていないのである。若くして亡くなったりすると遺族が悲しむのは分かるが本当は悲しいのは遺族だけで、本人は当初悲しいと感じたとしてもやがては地上よりもはるかに幸せな環境にいることを理解するようになるのである。こう言うと語弊があるかもしれないが、その人の行く末を悲しむというのは霊的真理を知らないということになる。悲しいという事の実態はもう他界した人に会えないという自分の身の上を悲しんでいるのではないだろうか。
生き別れになったと思っていた家族には必ず再会することになるのである。そしてそれから過ごす時間のほうがこの世で一緒にいた時よりもはるかに長い。もしお互いに愛が無ければあちらの世で再会することはないかもしれないが、そういう場合はどちらかが先に亡くなったとしてもそれほど悲しいとは感じないだろう。深い悲しみの感情というものは多くが肉体的なものから来るようであり、意識が肉体を離れるとそういう感情は薄れてくるのである。瞑想などでそういう肉体を越えた意識の状態を体験するとそれが分かるようになる。またそういう意識の状態になれば他界した人とある程度交流出来るようになるが、これは訓練と生まれつきの体質によるところが大きいようである。
死後間もない人の心は生前と少しも変わることはないし、彼らを取り巻く環境も生前と少しも変わらない。少なくとも彼らには自分が現在いる環境が生前と変化したとは感じられないのである。家も家族もペットも周りの様子も何一つ変わらないのである。しかし愛しい家族は彼がいくら話しかけても体を触っても反応がないので変な事になっていると感じているらしい。唯、彼が愛した動物(犬など)は何かを感じ取ってくれている。彼は既に肉体を離れて波長の違う世界にいるために普通の人間には彼(死者)の存在が見えず聞こえずということになっているのである。人が様々な周波数の電波や自然界のものが出すエネルギーを感知できないのと同じである。
霊界通信によればあちらの世界には地上世界の家族と連絡を取るための施設があるらしい。その建物に入ると内部は幾つかの部屋に分かれていて、それぞれに通信を手助けしてくれるエージェントがついているのだそうだ。彼らはあらかじめ地上の霊的感覚の敏感な人間をピックアップしていて霊界と地上を結ぶネットワークを作っているらしく、この人(他界した人物)からの連絡ならこの人間(地上で霊感のある者)に通信するという通信網が出来ているらしい。他界後間もない頃は自分が元気でいる事やあちらの世界の様子を知らせたくてこの世と連絡を取りたいと思う人が一杯いるらしいが、地上の世界の人があまりにも鈍感なのでどうしたらいいかわからない。そこでそういう施設を利用するらしいが最初は思うように行かないが習熟すれば上手くなるということだ。
人は死後の世界についての知識が全くない場合、最初は精神的な混乱が起きるらしい。前もって死後はどうなるのかという知識があると無いでは大変な差があるという。私事になるが17年前に父の余命がいくばくも無いことが分かって私が入院先の父に薦めた本は「死んだらどうなる」であった。般若心経と他に何か本が読みたいという要望に応えて般若心経の解説書とともにその本を渡したのである。
一般常識からみれば嘘をついてでもまだ生きられるから元気を出してと言うところだろう。状況にもよるが先が見えているのに空元気を煽るようなことを言うよりも真実を伝えてあげたほうが、やがて来る死後の世界に備えるためにも意味があるのではないだろうか。もちろんそれは当人の精神状態や理解力を考えて判断する必要があると思う。そういう本を読んだ当人がその時はこんな事は信じられないと感じたとしてもそれは心のどこかに残っているはずで、それは実際にそういう場面に遭遇した時に役に立つのである。我々は必ずその場面に遭遇するのだから。
最後に葬式仏教を利用して私腹を肥やしているような偽仏教者の話になるが、どのような宗教人にもそれなりの使命がありそれは一般の人間よりも重いものである。彼らの使命とは神の摂理を地上に具現することであり、本分に反する生き方をすれば厳しい咎めを受けることになるのである。仏(神)に仕え衆生を導かねばならない仏教者が物欲に囚われ利己的な生き方をすることは仏を裏切ることであり、心の奥底ではそうと知りながらもそういう生き方を続けるならばそれは偽善であり一層罪は重くなるのである。何事も動機というものが霊的に大きな意味を持ち、無知から起こす過ちとそれを知りながら起こす過ちとでは格段の差があり、知っているという事でさらなる責任が生じてくるのである。宗教者が道を外れた事をするというのは実に恐ろしい事なのである。
その応報が返って来るのは生きている間かもしれないし死後になるかもしれない。実はそれは生きている間にあったほうがいいのである。そこから反省して少しでも自分のカルマを精算できる機会があるからである。それにも気付かず尚も反省がなければその精算は死後に持ち越されることになる。そこでは一段と厳しい状況に直面することになるが、それは全て自分が蒔いた種であり自分で刈り取るしかない。全ては法則によって正確に公正に処理されることになるのである。
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