随筆集

2010-06-02 Wednesday
葬式仏教 その4
 
総じて寺は檀家からは葬儀や法要で半自動的に金が入ってくるので経済面だけから言えば檀家に対して特に良好な関係を築く必要がない。寺に対して良い感情を持っていなくても家の誰かが死ねば葬儀をせざるを得ず陰で文句を言いながらも寺に金を納めることになるからである。近頃は寺院経営にも変革の波が押し寄せてきているらしいが、総じて寺の住職は高級車を乗り回し裕福な暮らしをしているようである。
 
葬儀や法要に出向けば相手は内心不満があっても一応丁重な扱いをしてくる。その席でいっぱしの法話でもすればいかにも自分が偉くなったかのように思えてくる。葬儀が終われば遺族に見送られてタクシーに乗り込み悠然とその場を去る。そして喪主からはその日のうちに布施料が届けられる。もちろん源泉徴収などされることはない。そういう状況に浸り続けているとそれが当たり前の事になり、知らないうちに特権階級者意識が生まれてくるのである。これは僧侶に限らず先生などと呼ばれている人種は気をつけなければいけないことである。
 
例外もあるだろうが、寺は大体が地域のことに無関心であり地域清掃などの奉仕やその他の行事には知らぬ顔を決め込む。地域の役員が寺の生活廃水の水路の工事をしているのに誰一人として手伝いをよこさないような寺もある。反面、寺は遠隔地の大口の寄付をしてくれる信者団体に対しては自ら挨拶に赴き、よい関係を維持しようと努めるのである。少数派だが中には良心的で檀家を大切にする寺もあるようだ。そういう気遣いのできる寺というのは住職の妻が檀家との交際を上手にこなしているようである。寺の評判というのも住職の妻の手腕によるところが大きいようである。
 
ここに取り上げた例はかなり極端なケースかもしれないが、どうしても寺院経営にばかり熱心で仏教者としての本分を忘れているような寺が目立ってしまうのである。寺の良い評判というのは日本中どこに行っても少ないようである。大衆はきちんと寺の姿勢を見ているのである。住職の心の中も見抜かれているのであり、自分が裸の王様になっていても気がつかない人間もいるようである。
 
ちなみに島のある寺が落慶法要をするのに真言宗の総本山である高野山から館長を招待したという。島から高野山往復のハイヤー代とそれとは別に謝礼を100万円渡したということである。また外部から高野山の寺のあと取りになるには億の金が必要になるという話である。一般社会から隔絶された閉鎖社会の異常さを象徴するような話である。相撲界の問題が世間を騒がせているが僧侶の世界も同様である。閉鎖社会というものは一般社会の常識が通用しないところであり、内部の人間はその状況に麻痺してしまい異常を異常と感じなくなってしまうのである。一部には真摯に真理を追究し利他の心で生きている僧侶もいると思うがそういう人間はごく少数派であり高潔な生き方を真っ当しようと思えばアウトサイダー的にならざるを得ず、食うこともままならなくなるのではないだろうか。今の仏教界の中身はごく一部を除いて人を真理に導くどころか物欲と権力欲で腐敗し切っているのである。そういうところには真理の光は避けて通るのである。
 
寺が檀家に高慢な態度を取るようになり仏道を外れた事をするようになったのは檀家制度のもとにそういう構図が出来ている事も大きいと思う。しかし宗教人として人々に施しをすることもなく、葬式に来て宗教的儀式をして金を取るというだけならば、仏教を金儲けの手段にしていると言われても仕方がないと思う。もし寺のやる事は葬儀社とどう違うのかと聞かれたら彼らは何と答えるだろう?大日如来の元へ故人を引き渡すための導きをしたとでも答えるのだろうか。
 
一方また檀家のほうにも責任があるのではないだろうか。一応檀家は皆宗派の信者ということになっているが私の住む地域において仏教というものをきちんと理解している人は皆無である。現在の日本では仏教は宗教と言うよりも一つの文化、生活習慣として捉えられているのではないだろうか。釈迦によって説かれた一つの思想を仏教と呼んでいるが、現在日本では様々な宗派が入り乱れていて自分の家は真言、あるいは浄土宗だが何がどうなのか、どう違うのか訳がわからないというのが一般の人達の認識だろう。そもそも真剣にそれを探求してみようなどと考える人間は稀なる存在であろう。仏教というものを誰にも分かり易くシンプルにする努力をしないと今後ますます仏教離れが進んで行くことだろう。少なくとも今、仏教から感じられるのはその鋳型だけであり、そこからは生きた霊力(生命力)が伝わって来ない。
 
人々は葬儀や法要の席で数珠と経本を持ちお経を唱えればそれで仏教を実践していると思い(その中身ではなく形骸化したものを仏教と思い込んでいる)、また四国遍路や西国巡礼をすればそれで事足れりと考える人が多いようである。またお経が読めて巡礼などに熱心な人を仏教に通じているかのように考える人が多いが、それもまた認識不足である。数々の仏教的行事の意味などに疑問を持つこともなく、その意味はわからないが先祖代々してきたことを一応継承していかないと先祖の祟りがあるとか、家に不幸が起きるなどと考える人間がまだまだ多いのである。要するに迷信や風習が彼らの宗教的規範になっているのである。
 
そういうことは本当は仏教とは関係がなく迷信に過ぎないのですよと言ってもそういう人には理解できないのである。もし一般大衆が仏教を正しく認識するようになれば寺は今までのような態度を改めざるを得なくなるだろう。檀家の仏教への無知というものが今のような寺のありかたを作ることに貢献して来たのである。檀家制度に見られる今の問題の根源は宗教者側の不誠実と檀家の仏教への認識不足にあるのではないだろうか。
 

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Last updated: 2012/3/17