2日ほど前に、この間あちらに旅立ったばかりの叔父の家に行ってみた。祭壇の置かれている部屋に入っただけで彼がそこにいるのが感じられた。祭壇の前で妻と一緒に祈りと御詠歌を届けたがそこには力強い壮年時代の彼のエネルギーが満ち溢れ、ある種の威厳すら感じられるほどであった。ここ数年来肉体的衰えが目立ち体重も半減していた彼だったが目の前にいるのは往年のかくしゃくとした姿であった。私の場合は目を半眼もしくは閉じると視野の左、上部にそういうものが現れる。誰もが普通に肉眼で感じ取るものとは違うが適切にそれを表現する言葉に苦労する。夢の中の映像のようなものを見ると言えばいいだろうか。夢で映像として見るものは五感の目で見ているのではないが、それと同じ原理、感覚が働いているのだろうと思う。
私は子供の頃から時々説教されていたので思わず説教されるのかと思ったが「身体に気をつけて頑張れよ」という励ましの言葉(インスピレーション)をもらったのである。彼は妻の御詠歌を前から聞きたがっていたのでとても喜んでいたようだ。その途中で私の父も現れたところを見るとどうやら2人は度々あちらで会っていてその時も一緒にいたのだろう。彼らはお互い教育者同士、積もる話もあることだろう。我々はその日は兄嫁からの依頼で行ったのだが、あちらの世界から働きかけがあったのかもしれない。その場はお互いの出会いの場所になったのだろう。
この例のように亡くなって間もない人の場合は、波動が地上世界の人間と極めて近いのでその人物の気配はわかりやすい。家族は霊感のあまりない人でも感じるのではないだろうか。死後何年も経てば次第に波長を合わせるのが難しくなる。2年前に旅立った義父の場合も最初の頃は家に入っただけでそこにいると感じられたが今ではその気配は希薄になってきた。人にもよると思うが大抵死後は暫くの間家にいて家族とともに過ごすことが多いのではないだろうか。家の中に何か問題があったりするとそれは彼らを心配させることになるし、悪口などを言っていると筒抜けになるので注意したほうがいいだろう。
そのうちに彼らは自分の道を進むようになってくるので家からは遠ざかっていくが、常に家族の事は見守って手の届くところにいるから霊的にみればむしろ身近になっているのである。そして数年、もしくは数十年すれば必ず再会することになるのだから永遠の別れだなどと考える必要はないのである。
テーマである葬儀の話に戻るが、都会では今までのような葬儀のあり方に疑問を持つ人が増えてきて独自の葬儀をするケースが多くなっているが田舎では選択の余地が無いので葬儀社や寺の言いなりになってしまう。檀家制度は江戸幕府がキリシタンを取り締まるために寺請制度を制定したことから始まったものらしいが、その頃から本格的に寺が葬儀に関与しはじめたらしい。いわゆる葬式仏教はそのころから定着しはじめ今まで300年にわたって続いてきたらしい。そのおかげで檀那寺は当然の如く檀家の葬儀や法事に介入してくる。
次のような話は気が重くなるしこの場で誰かを批判したりするのはこのページ本来の目的ではないが事実は事実として認識する必要があると思う。これからの葬儀のあり方の方向性を探る意味において判断材料の一つとして取り上げたい。葬儀は寺院経営において絶対に欠かせぬ収入源である。地域や宗派によって違いがあるが我々の地域では葬儀の読経料を引導布施と称し1カ寺(檀那寺のみの場合)で20万円、2ケ寺で37万円(何故か檀那寺が30万円取る)戒名料が院号なしで20万円、院号付きが30万円、4字院号が50万円となっている。そしてその上にお膳料が上乗せされる。法事の場合は5万円である。葬儀の日には僧侶の送り迎えにタクシーを差し向け、彼らを送迎する。寺はお通夜や枕経にも一切顔を出すことはしない。
多少のばらつきはあるにせよ一度葬儀をすると家族は寺に対して60万円ほどの布施料を払わねばならない。寺はわずか1時間ほどの宗教行事をして60万円程の収入となるのである。60万円といえば普通のサラリーマンの2,3ヶ月分の給料に相当する額である。。そして49日、一周忌、三周忌と法事が執り行われる毎に5万円プラスお膳料を寺に対して布施料として用意しなければならなくなるのである。本来布施とは、何かをしてもらった方の感謝の気持ちを表すものでありそれは布施をするほうが決めることである。しかし寺は檀家に相談することなく一方的にその額を決めて布施料を請求してくる。それどころか足りないと催促してくるのである。
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