随筆集

2010-05-24 Monday
葬式仏教 その2
 
真言宗の主要経典である理趣経は完全に漢読みであり他のお経に比べて一段と意味がわかり難くまた長い。人間の欲望の本質は全て清浄であり、悪いものではなく煩悩即菩提であると説く。まず性的欲望のことから始まり男女の様々な性的営みを具体的に取り上げて賛美している。それらはすべて清らかなものであり菩薩の境地であるという節が何回も繰り返される。具体例を挙げると“妙適清浄句是菩薩位”というくだりがあるが、これは性的恍惚状態も菩薩の境地なりという意味である。“びょうてきせいせいくしほさい”と読むが聞いている人には何のことだかわからない。そして“セイセイ”という文句がくどい位繰り返される。“セイセイ”とは清浄ということでありそれがこの経の個性を際立たせている。
 
密教には本能的欲望さえも悟りのエネルギーに転換していくという発想があるようだが、この理趣経は主に金剛頂経を思想的源流としていて、性行為自体が神聖なものでありそれを通じて悟りを得ようという極端な行をやっていたインドの特殊なヨーガの一派の思想的影響を受けているという話を聞いた事がある。性的な話から始まり人間一般の煩悩的欲求にも言及しそれらの根底には菩薩の心、つまり仏性が潜んでいて表面は汚れているように見えても本質は清浄であるという話が展開されていくのである。最後には、常にこのお経を読み、身に付けるようにすれば、どれほど悪業を積んだとしても救われるというようなことが書かれてある。空海が唐より持ち帰り最澄がそれを貸してくれと頼んだが断わられたというエピソードはよく知られている。私は子供の頃から葬儀でよくこのお経を聞いたので理趣経の響きを聞くと葬式や墓場を連想したものであるが、この経は独特な響きを持ち、唱えているとあたかも天上界で大日如来が他の仏様に囲まれて説法をしている光景が連想されてくるような幻想的で妖しげなエネルギーがあるのは確かである。
 
密教自身がそうであるように特に理趣経は仏教思想の中では特殊で奇形的なものであり解釈を間違えると危ういことになりそうである。事実ある宗派では誤って解釈しているとかいないとか。だが真言宗ではそれが必ず葬儀の場で唱えられる。列席者はそのお経がまさか性行為のことを礼賛しているとは露知らない。もちろん死者にとっても意味などわかるわけがないだろう。しかしこの国には、未だにわからないお経のほうが有難いのだと考えている人たちが結構いるのである。お経は眠気を誘うものだが読経の間に居眠りをしている参列者がどこの葬儀に行っても必ずいるものである。内容のわかる話なら一応聞こうという気になるが、意味のわからないことを長々と聞かされると眠くならないほうがおかしい。世界でも意味のわからない祈りの言葉を繰り返しているのは日本くらいのものであろう。
 
訳のわからぬ経を唱えて宗教的儀式を延々と続けるよりも静かなクラシックの音楽でも流して親族の旅立つ人に対するメッセージを朗読するようにしたほうが遺族も故人も余程感慨に浸ることができるし霊的にも意味があるだろう。家族間の心の交流こそが最も大切なものであり、葬儀の大半を赤の他人による読経や葬儀社の形式的な儀式に費やす事によって家族同士の魂のふれあいの時間は奪われてしまうのである。あちらに旅立とうとする人は愛しい家族を一人一人抱擁して別れの挨拶をしているのである。
 
それは本当に貴重な時間であり、その触れ合いというものは現実的で、意味の解らない言葉や儀式が魂に感動を与えたりすることは顕幽両界を通じて有り得ないのである。あちらの世界にいる人たちも我々と殆ど変わらぬ人間的感情を維持しているのであり、彼らからの我々への働きかけも訳のわからない言葉を使ったりしているわけではない。唯それが殆どの人には感知できないために人間は想像の産物を色々作り上げて来たのである。そういうものが古くから宗教的世界観として表現されてきたのであろう。阿弥陀の来迎図など仏様の一団が雲に乗って死者を迎えに来る絵図はよく知られたものであろう。死者の横で僧侶が拝んでいてあたかも僧侶が仏様との橋渡しをしているかに見えるものである。しかし事実はそういう絵画に描かれたものとは違い、実在で身近なものである。宗教的発想の延長線上に霊界があるのではないのである。
 
もしも彼らの唱えるお経が真理に通じ人を悟りに導く力があるものならばそれを毎日唱えている僧侶という人種(殆ど拝むことをしない僧侶もいる)はさぞかし悟りを得た人なのであろう。それは彼らの日頃の行いを見れば誰でもわかる事である。行いこそはその人間の本質を素直に表現するものだからである。その判断は読者の皆様にお任せするとしよう。私の見るところ、ごく一部の人を除いて僧侶は霊のことがわからないようである。葬儀の席に置いて目の前に故人が立っているのに気が付かないのである。霊を扱う人が霊のことがわからなくてどうするのだろうか。儀式の中で導師は亡くなった人に引導を渡すことになっているらしいが彼らは一体誰に対して引導を渡しているのだろうか?しかし逆に霊のことがわかると今のように漫然と形式的な儀式を繰り返す事は出来なくなるだろう。
 
突然死などで死を自覚できない者にそれを自覚させるという意味においては葬式というセレモニーは意味があるだろう。宗教的儀式は霊的に見れば葬儀という場の舞台装置の一つであり、縁ある人間同士の魂のふれあいこそが何より大切ではないだろうか。
 
2年前の義父の葬儀は家族葬であり、その場にいない孫達のメッセージが朗読されて非常に感動的であった。本当は葬儀というものは形式にこだわる必要はないのである。葬儀社のパッケージ葬儀というものに完全に組み込まれているので親族はそれに振り回されるだけになってしまう。経験した事の無い大きな出来事に気が動転している上に時間の制約がある。また葬儀に関する知識も無いので考える間もなく葬儀社や寺の言うとおりにするしかなくなってしまうのである。特に田舎では人々が迷信に縛られているために尚の事振り回されてしまうのである。
 

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Last updated: 2012/3/17