誰しも他人の事は(特に欠点が)よく見えるが自分自身のことはわからない。灯台下暗しとは実によく出来た言葉である。私事になるがインスピレーションを受けるようになった当初は何ともいえない感動を覚えたものである。しかしそういう事が続くとそのうちにそれが当たり前になってしまい、最初の頃の感動を何時の間にか忘れてしまうのである。いわゆるマンネリ化というやつである。人には常に新しい刺激を求める本能が植え付けられているのだろう。
ともあれ啓示などを受けるようになると人の事が少し見えるようになるのは確かである。そうなると人のことを見て自分がわかる範囲で何とかアドバイスしてあげたいと思うようになるのである。この人はこの点に気づいていないからそれを教えてあげたら当人の為になるだろうと思ってしまうのである。しかしそういう時は自分の心のどこかに傲慢さというものが潜んでいるものである。
事実頼まれもしないのにそういう事をした時期もあった。しかしそういうことは本人にその時期が来ない限り意味が無い。抜き差しならない事情のある場合は別として、逆に相手から疎まれる事になりかねない。安易にその人を分析してアドバイスなどをするものではない。もしその人間がアドバイスを必要とするならば自然に連れて来られるのである。法則によって、守護霊の導きによって連れて来られるのである。連れて来られた時はすでに多くの事は処理されており私達は最後の付け足しをする程度であろう。
私が今までにこの世を去った人(若死にして惜しまれているような人)の意思を遺族に伝えることになったケースが何例かあるがそれなりに役に立ったようである。私が故人から受け取ったものと遺族が生前その人から聞かされていた話の内容がほぼ一致しているところを見ると、確かに亡くなった人がメッセージを私に依頼してきたようである。偶然その人の墓の前を通りかかると彼(彼女)の意思が伝わってくることがある。すると不思議なことにその場にその人を失い悲しみに打ちひしがれている遺族が現われるのである。そこで私はその場で故人の意思を伝えるというわけである。殆どの場合、遺族はその内容に共感を持ってくれ、それは彼らを立ち直らせる一助になったのではないかと思う(私が勝手に思っているだけかもしれないが)。そういうことは絶妙のタイミングで起きるところを見ると誰かが意図的に導いているとしか言いようが無い。
この世を旅立った人の場合はそういう意味でむしろやり易い。ところがこの世に生きている人間同士というのが厄介なのである。頼まれもしないのにそういうことをすると余計なお節介になってしまうのである。人間は分かる時が来なければ分からないという啓示をこの間までトップページに載せていたが正にその通り。
人間はせっかちで直ぐに結果を求めたがるものだがあちらの世界ではそれなりの計画があるようである。それは私達より霊的に進化した人たちによって法則に沿って遥かに高い視点から進められているのであろう。そういうことは容易に窺い知れるものではなく、カウンセラーなど地上の人間が請け負うのはその一端でしかないのである。カウンセリングに来た時はすでにその人は理解出来ていてそれを再確認するようなものであろう。
今では私は余程の事情がない限り、相手のことが色々見えたとしても何も言わないようにしている。他人の事をあれこれ評価する資格は誰にも無いのである。それより自分の心を見るほうが大切でありこれは本当に難しい。歩き遍路、これは素の自分を見るにはいい方法だと思う。社会的地位や財産から一度離れて裸の自分と対話できるからである。一人で山道を進み山の気を吸い、海辺を歩いて海の気を吸いながら、ひたすら歩き続けていると今までの自分の中に埋もれていた宝物に気付くのではないだろうか。
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