随筆集

2009-09-17 Thursday
時間と体験
 
最近年のせいか自分が生まれてから今までにしてきたことが一つの大きな集合体のように感じられることがある。そこには今までの体験から得た苦しかった事、悲しかった事、嬉しかった事など、あらゆるものが集合して混ざり合い、一つに溶け合って今の自分の背後にあるような感触である。又は自分が今までに積み上げてきたものの上に立っていると表現してもいいかもしれない。
 
そして各々の出来事の時間的な前後関係も曖昧になりつつあり、時間というものは意味が無いように感じられてくるのである。生後、様々な事を体験して来たが、“体験”が重要な事であり時間の事はもはや意味を成さなくなり風化していくように感じられる。ある事を体験する、その体験というものがなければ時間というものは極めて認識しずらく、時間は相対的なものかもしれないと思うようになった。そして次第に現在と過去の境界が無くなり、何処まで行っても今があるだけという感触がすることがある。うっかり誰にでもこういう話をすると認知症を疑われかねないので注意が必要ではある。時間の認識は認知症チェックの重要項目の1つだからである。
 
そうなると我々が日常考えている時間というものは本当は無いと言ってもいいのかもしれない。我々の意識は肉体に封じ込まれ、この地球の引力圏に引き付けられているので地球の自転や公転の周期と共に過ごす他はなく、時間といえば今認識している時間しか理解できないのは当然のことだろう。しかし意識が肉体の束縛から自由になると、また違った時間、宇宙時間とでもいうべきものを認識するのだろうと思う。
 
私たちはこの地上の生活で体験した集大成を持ってあちらの世界に行きそれを基盤として向こうでの新たな生活が始まるのではないかと思う。この世で体験したことのないものはあちらの世界に行ったとしても最初は認識出来ないのではないだろうか。例えば南国のリゾートの貿易風、空気の臭いなど味わった事がなければあちらでも認識出来ず、それは存在しないということになろうか。芸術家は死後も芸術の世界に行き、学者は学問の世界に、宗教人は宗教の世界に収まり、争いに明け暮れた者はやはり争いの世界に身を置くのだろう。
 
つまり自分の思念に応じた世界が見え、死後は先ずはそこに行くのだろう。酒好きの者はやはり酒の席に惹かれるのだろう。実はこの間、酒好きな友人が飲み過ぎが祟って亡くなった。死後2ヶ月以上経った頃、私の夢の中にこの友人が現われたのである。夢の中で彼は私と同じ電車に乗り合わせていて「昨夜も遅くまで飲んでいて家に帰っていない、風呂にも入っていない」と深酒した様子で私に言う。姿は見えないが彼本人であることがはっきりわかるのである。それを言葉で表わすのは難しいがとにかく彼なのである。夢を見たのは友人達が集まって“彼を偲ぶ会”(私は欠席)が催された数時間後であった。彼が亡くなった翌日、家の仏壇の前で彼のことを考えていると「おーい、一緒に飲もうぜ」というサインを一度だけ感じたがそれっきりであった。学生時代に色々行動を共にしたがそれ以後は接点がなかった。昔の友人達が集まって飲みながら彼のことを追悼していたことが彼を呼び寄せ、仲間に入って一緒に飲んでいたのだろう。
 
この世では偏りの無いバランスの取れた生活をして、特殊な使命を持つ人は例外として一般の人は個性を保ちながらも出来るだけ色々な事を過度に執着することなく体験するのがいいように思える。所謂仏教でいう“中庸”である。またこの世での体験に乏しいとそれに相応して死後自分が展開できる世界は狭いものになるのではないかと思う。体験したことのないものを認識することは難しいだろう。いずれにせよこの世での体験というのは建物で言えば土台であり、魂の成長の為の基礎工事なのではないかと思う。そこに大きな意味があるのかもしれないと思う今日この頃である。
 
 
 
 

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Last updated: 2012/3/17