私は仏教から入り四国を遍路したり西国を巡礼したり、普段の生活においても夕方の散歩の時に山寺へ参拝するなど相当に熱心な仏教の信者だったのである。お経も般若心経に始まり観音経も空で唱えられるようになり、真言宗の主要経典である理趣経さえも仏壇で唱えていたのである。外国に行く飛行機の中でさえ経本を開いていたものである。それまでの私の遊び好きを知っている親類や友人たちはその豹変ぶりに驚いていたものである。「君がそんなことをするなんて信じられない。一体どうしたんだ?」という具合であった。当時は仕事をやめたら僧侶になってもいいかとさえ考えていたのである。
そのうちに実際に存在するものについての関心が高まってきて仏様の前で死後の世界のことなどを質問したりするようになった。形式的に仏教の世界をなぞるだけでは物足りなくなってきたのである。そういう素朴な質問を仏様に投げかけてみるようになってきた。神社にも行くようになり祈りの後で(私は祝詞も奏上する)耳を澄まして神様の反応を確かめてみるということを繰り返すようになる。神、仏というが実体の無いものを拝んでも意味がないと考えていたからである。結果は確かに見えない世界から私の質問に対する答えが返ってきたのである。当時、私は疑問に思う事は何でも質問することにしていたのである。
こうして自分が見えない世界から得た答え、インスピレーションを表現しているのがこのホームページの「導きの声」である。そういうものを言語で表現するのは内容によっては極めて難しいものがある。崇高な世界からのエネルギーというものは本来この世の言語で表現するには無理があるからである。そういう意味から完全なものではない事も事実である。
「導きの声」は様々な神や仏の名が出てきてメッセージを語るという形式になっているがその実態、メッセージの源泉について少し解釈を付け加えたい。
初めの頃は観音様からのメッセージが圧倒的に多かった。それは私が観音様を信仰していたからである。最近は天照大御神、弘法大師、天空よりの三者が主になってきている。天照大御神は家の神棚の天照大御神の掛け軸から、弘法大師は大師の仏像から、「天空より」は山上の景色のいい場所や日常生活の中で閃いたことを文章にしたものである。最近はお経や祝詞を上げなくてもその部屋に入っただけでインスピレーションを受けることが出来るようになった。その部屋に入ると誰かがいることがわかるのである。そこは何人かの霊界からの使者の常駐の場所になっているような感じである。長いお経などはむしろ邪魔であり意識の波長を合わせることさえできればお経や祝詞は必要がない状態になっている。
心霊科学的に考えるとこれらのインスピレーションは私の守護霊、指導霊からのものであることは間違いないと思う。以前の「観音様」は今では「天空より」と表現することにしている。当時、観音様と思っていたのは私の守護霊であったと確信している。また「天照大御神」というのは私の感性では日本民族の霊的祖先と表現するのが最もふさわしいと考えている。現在、他のいかなるものよりも確かで強い感触を得ることが出来るのが「天照大御神」である。国家神道という見方をする時、何かと問題視される事があるが、全身全霊で最も強力に私の魂に響くのがこの天照大御神である。「弘法大師」はやはり家の宗派である真言宗の開祖であるということ、そしてかなり身近に感じられるところから察して個人的に霊的なつながりがあるのではないかと感じている。
そういう神霊的な存在から直接インスピレーションを受けるのは容易ではなく恐らく私の守護霊、指導霊の中継を通じてそういうものが届いているのではないかと考えている。あるいは直接指導霊からのものかもしれないが要するに霊的連鎖を通じて我々は宇宙の始原にまでつながっているはずである。我々の行為はむろんのこと考えることも全て宇宙の最上部まで筒抜けになっているはずである。何故なら我々自身も宇宙の始原の一分子であり宇宙構造の一部だからである。
いずれにせよこういう啓示、インスピレーションを通じて私はある使命を授かっているのだろうと考えるようになった。今となってみれば最初からその計画の元に導かれてきたのだろうと思う。その目的とは真理を解明していくことではあるが、現在は今まで信仰の名のもとに盲目的に信じられてきたようなこと、あるいはタブーであったことの真実を究明し明らかにすること、その為に人心を抑圧、束縛してきたものを解放すること。今はそういうことに焦点が合わされているような気がするのである。死後の世界のこと、祈りや位牌や宗教の秘伝など世間で常識となっている事の真実の姿は誰にもわからない。一体祈りは効くのか、誰が聞き届けてくれるのか、位牌に意味はあるのか、死者は死後どういう気持ちでいるのか等等。
普通の人が感じる素朴な疑問をこれらのインスピレーションの中から1つでも疑問を解く鍵を見出して頂けたら幸いである。人類は今まで物質の繁栄を追及してきたが反面、心の成長がおろそかにされてきた。それによる弊害が目に余るようになってきた。今その修正のための動きが出てきているのは間違いない。
世界中で受け入れる用意の出来た者には真理が降ろされるようになり、今や多くの人々がそれを受けているはずである。皮肉な事に、頑なにそういうものを拒んでいるのが宗教家と言われる人達である。伝統的な教理、教条にこだわるあまり、そういう事に目を向けようとしない。真理は閉ざされた扉からは入れないのである。霊的真理を抜きにして宗教を語ることは出来ないはずである。また自らの権益を盾に特権階級者のごとくふるまう宗教者が多すぎる。宗教とはサービス、他の誰かのために自分を役立てること。これしかないと思うのである。
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