死後の世界

 31      親族の愛
 
今年の3月私はソケイヘルニア(下腹部に出来た筋肉の隙間から腸に押された腹膜がはみ出してきて下腹部が腫れる。自然治癒はなく進行するとはみ出した腸が戻らなくなり腸閉塞を起こし緊急手術が必要になる疾患で所謂脱腸、中年以降の男性に多い)の手術を受けた。3年くらい前から調子が良くなかったが根治手術を受けるほどではなかったので放置しておいた。しかし良くなる気配は無く、次第に悪化して来て日常生活にも支障が出てきたので思い切って手術を受けることにしたのである。手術は局所麻酔なので下半身だけが麻痺状態になり意識は普段のままである。1.8 mlの麻酔剤を細い注射針で腰椎の間から注入するだけで人の下半身は完全に麻痺状態となる。昔、虫垂炎の手術を受けた時は太い針ともっと多くの麻酔剤が使われていたと思う。その時の麻酔注射の衝撃は今とは比較にならないものでそれだけでショックを起こしかねないようなものであった。今回のものは楽だったが技術の進歩は目覚しく患者の受けるストレスは格段に少なくなっている。
 
手術が始まって間もなくすぐ傍に父が現れた。にこやかにそこに立ちじっと私を見ていてくれた。「大丈夫、大した手術ではないので安心しなさい」というサインを送ってくれたのである。手術は腹膜が筋肉と癒着していたので予定より長い時間かかったが、その大半が終わって縫合にかかるまでの間、父の姿は消える事はなかった。場所は丁度執刀医の真横であり手を伸ばせば届く距離である。思わず術中のスタッフにその事を伝えたいくらいであったが誰にも信じてもらえないだろうし、後で精神科の受診でも勧められてはたまらないので黙っていることにした。この種の事は私が常に感じるジレンマであるが理解できない人間には理解できないのである。
 
私は父が現れることによってどれほど安心させられただろうか、もしこのままあちらの世界に行ったとしても何の不安も感じることもなく、それはむしろ幸せと感じるくらいであった。あちらに行った人の慈悲と暖かさというものはこの世の人にはない心地良さがあり思わず付いて行きたくなってしまう。もし術中に何かあって死んだとしてもそのままその人について行けばいいだけの話ではないかと思う。そしてあちらには安住の世界が待っているということを実感できるのである。
 
死というものは本来少しも畏れる必要はないのである。唯、今の重い肉体を捨てて今の身体と重なっている霊体という軽やかな体に宿り次元の違う世界に行くだけ。ちょっと海外旅行に行くようなものである。それはこの世の生活の重荷から開放されたはるかに自由で楽しい世界なのである。但しこの世で一通りの体験をして肉体的煩悩をある程度コントロールできるようになっている必要があるだろう。私がこのホームページで繰り返し主張していることはそのことに尽きると言っていい。一人でも多くの人が死は終わりではなく卒業であり新しい世界への誕生であることを理解してくれたら満足である。今この世で学び、体験していることは次の世へ行き活躍するための基礎学習なのである。その事を心底理解できなくとも自分が死に面したときに頭の片隅にでもここに書いてあったことを思い出してくれたらいい。少しでも知っているのと全く知らないとでは天と地ほどの差があるからである。
 
歳をとっても物欲や名誉欲に憑かれている人間もいるが、そういう人たちはまだあちらに行く準備が出来ていないのであろう。準備が出来るまで、この世でまだ自分で作った煩悩が生む苦悩を味わわなければならない。物欲や性欲などの煩悩にふりまわされているような状態ではあちらの世界にはすんなりと進めず、死後も地上世界をうろつきまわる事になりかねない。そういう状態になった者を地縛霊と呼ぶがそれがいわゆる未成仏という状態である。物寂しい場所や墓場で幽霊(幽霊とは地縛霊の事)が出るなどと言われているが、実際は彼らはそういう寂しい場所ではなく人が多く集まる場所を好み、例えば酒飲みだった者は酒場に行き酒飲みに憑依してその肉体を利用して酒が飲みたいという欲望を果たそうとする。酒の席で激高したり思わぬ感情沙汰に発展したりするのはそういう地縛霊の仕業であることがあるので注意を要する。深夜まで深酒をするとろくな事はないのである。都会の雑踏も良くない。地上に未練を残した彼らの行動パターンは生前と何ら変わらないのである。話が憑依の事にそれてしまったがそれについてはいずれ取り上げたいと思う。
 
父は朝の祈りの際に時々現われるが、私はその時にこの間他界した伯父(実の父)はどうしている?とよく尋ねることにしている。暫く時間がかかるので今回は出て来られないのかなと思っていると、伯父の“おー!”という片手を上げてにこやかに微笑んだ独特のポーズが浮かび上がり、生前と少しも変わらぬ声が耳からではなく何処からともなく聞こえてくる。普通に五感で感じるものとは別のものである。その時に自分の頭頂部と前頭部がジーンとしているところをみるとヨガで言うチャクラに相当するものが働いているのだろうと思う。インスピレーションを受け取るのもその状態になった時である。
 
私は近頃ではお経を唱える事は少なくなった。霊的な交流においては自分の波長を整えることが必要であり、それが出来るなら方法は関係が無く個人にあったものがあると思う。最近はそれなりの静かな場所で数回深呼吸をして精神統一すれば十分である。読経をする事は私が今追求しているもの、直に感じているあちらからの霊的波動と次第に乖離してきたのである。一般の人は僧侶が読経をしながら仏教的儀式をしているのを見るといかにもそういうものが霊の世界に通じ、霊を呼び寄せているのではないかと連想するかもしれないが実際は違うのである。また霊的なことが分かる僧侶は極めて少ない。失礼かもしれないが彼らは唯、宗教的行事をしているだけなのである。
 
またあちらの世界にいる人たちがお経に感応して出て来たりするというのも想像の産物であろう。僧侶の読経に吸い寄せられるように霊魂がフワフワと集まってくるなどというのは霊的に無知な人の作り話であり滑稽でしかない。彼らと我々地上に生きる人間の違いは肉体があるかないかの違いだけである。霊界の親族に通じようと思うなら意味のはっきりしないお経などより自分の言葉で普通に語りかけるほうがいい。お経は自分が何を伝えたいのか本人にも霊界の親族にも意味が明瞭でないからである。自分の言葉が何より意味がある。
 
ところで伯父は我が家においては父を介してしか私の前に現われることはない。やはり距離を置いているのだろう。彼の言葉などをここで多く公表するのはプライバシーにかかわるので一部だけ載せたい。
 
「人として一番大切なもの、それは誠実であること、それに尽きる」。“誠実”この言葉以上に彼を語るにふさわしいものは無いような気がする。
 
 
 
 
 
 
 
更新日時:
2010/10/22
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Last updated: 2012/3/26