死後の世界

 30      位牌、戒名の話
 
実父より
 
位牌や戒名は現世に残った家族が先祖を敬い思いを寄せるための記念碑のような役目をしているのだろう。しかし本名を書かない、他人が作った難しそうな名前にするということで遺族とこちらの世に旅立った人との間に壁を作っているとも言えるだろう。また先祖に対して何かと言えばお経を上げなければならないと思っている人が多いようだが、普通は人から人に語りかけるのに訳のわからない言葉を使ったりしないだろう。お経は自分の修身のために唱えるのはいいだろうが。そちらの世を旅立った人も皆、同じ人間、唯そこから姿が見えないだけなのである。
 
そちらから我々のことを思うのに位牌や戒名よりも写真を見るほうがはるかに心は通じるだろうし、口に出さなくても心で呼びかけてくれたらその思いは届いている。実際、お互いは常に愛情で結ばれているのだから。寺が戒名のことなどで高額な料金をつけたりするのは感心できることではない。言い方を変えれば戒名や位牌は寺と檀家を物質的に結ぶ道具、遺族と旅立った人を霊的に結ぶ道具ではないと言えよう。それらのものは現世に残った人と霊界の人の間にある宗教的介在物ではないだろうか。
 
現世の人が旅立った人のことを思うとき、子供の頃からの習慣で宗教的形式というものを通して見ようとするのでどうしてもそういう道具や作法のことが心に浮かぶだろう。
お経を唱えたら先祖が喜ぶだろうとか、戒名の階級にこだわったりしている。死後の世界の者たちはお経が流れて線香臭いところにいるなどと連想する人もいるだろう。
 
こちらの世界に来た人間がいつまでもそういうものにこだわっているとしたら、生前に比べて何ら進歩していないということになる。地上の人間に頼って供養してもらいたいと考えていると思うだろうか?それは大間違いであって、そちらの人たちのほうがよほど苦しい環境に置かれているのだ。我々が常に地上の縁ある人々を援助したいと思って色々と救いの手を差し伸べているのに殆どの人はそれに気付いてくれない。
 
我々にとって一番喜ばしいのは、この世の人たちが道を間違えることなく自分の本分を全うして生き生きと充実した人生を歩んでくれること。それが我々に対する一番の供養になるのだ
 
我々に対する形式的な供養は必要が無い。むしろ供養して貰わなくてはならないのは地上の人たちだ。我々はいつでもどこでも縁ある人の手の届くところにいるし、地上の人たちのように物質の束縛が無くはるかに自由なのだ。一連の宗教的慣習や儀式は人の想像の産物であって作られたものだ。人々がそういうものを通してしか死後の世界をイメージできないのは悲しいことだが今は無理もないことかもしれない。
 
 
 
 
 
更新日時:
2009/02/20
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Last updated: 2012/3/26