真理を求めて

 
 
27    思念は生き物
 
誰かの事が突然頭に浮かんできて、それが纏わり付くように暫くの間離れなくなることがある。これは誰でも経験することではないだろうか。そういう時はその相手がこちらの事を考えていることが多いようである。実際殆どそうではないかと思う。理由も無く、ある人物のことが頭から離れなくなり、何でだろうと思っていたら翌日その人物が現われてある用件を持ってくるということがある。彼は前日あるプランを練りながらこちらのことを考えていたのだろう。また朝の祈りのときにある患者さんの顔がフッと浮かんでくるので何故だろうと思ったら翌日彼が私の診療所に現われてこの間から歯が痛むと言う。彼は前の日から歯が痛むから私のところに来なければいけないと考えていてその思いがこちらに伝わってきたのだろう。
 
これは歯科医に限らないと思うが誰しも苦手な患者さんがいるものである。自己中心的で我がままを通そうとするような人が来ると、こちらも人間的感情があるので仕事とはいえ楽しくはない。出来れば来て欲しくないなとつい思ってしまうものである。突然その人物の事が頭に浮かんで来て、あの人が来るかもしれないと思っていると翌日、遅くとも数日以内には来院して、ああやっぱりと思うのである。やはり相手がその時こちらのことを考えていたのだろう。ちなみに朝の祈りのときに現われた人は好人物である
 
このように人の思念(念波)は物質的環境に左右されることなく自由に電波のように飛びまわっているのだろうと思う。他界した人のことがいきなり頭に浮かぶ時はその人がこちらの事を思っていると考えて間違いないだろう。同時にこちらが他界した人のことを思えばその思念はその人に届いているはずである。相手がすでに地上に残された親族の事などは関心が無いという場合は届かないかもしれない。その場合両者の間に愛で結ばれたものがあるかどうかだろう。愛が無ければ例え夫婦や家族といえども片方の他界を機会に縁は切れてしまうのではないだろうか。この世にいる間の束縛から解かれてしまえば霊になった者は自由になり、自分にふさわしい環境に移り住むことになるからである。
 
思念がこの世で生きている人からのものか、それとも他界した人からのものかを選別するのは難しいと思う。誰もが受信局であり、送信局でもあるのである。純粋に自分独自の考えというものは極めて少ないのではないだろうか。自分が考えたと思っている事も実は他の誰かの考えが混入しているはずである。そのことに気が付く人は殆どいないであろう。
 
心身が健康で良い精神状態の時は自身の霊的な波長(バイブレーション)が高くなっているので守護霊や指導霊からの導きの波動を受け入れ易くなる。逆に体調不良で精神状態が良くない時は高級霊と波長を合わせるのが難しくなる。そういう時は身の周りに飛び交う低級な思念に影響を受け易くなるので注意が必要である。地上をうろうろしている自縛霊が無数にいることを知ってほしいと思う。怒りや恨みや妬みなど悪感情を持った状態が続くと同質の霊と波長が合ってしまうので気をつけなければいけない。
 
自分の心の波長が高い時は高い波長に共鳴し、低い時には低い波長と共鳴し合うのである。故に心がネガティブになっている時に考え事などしているとロクな事にはならないのである。そういうときは余計な事を考えずに酒でも飲んでさっさと寝てしまうに限るのである。思考は大切だけれども一人の人間の考える事は知れているのである。「私は出来る限りのことをやりました。後は神にお任せします」。そういう生き方が最高ではないだろうか。人がそういう心境になれば霊界からの導きもうんとやり易くなることだろう。
 
更新日時:
2011/08/26

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Last updated: 2011/9/2