真理を求めて

 
 
28    心霊現象の裏側
 
私が仏壇の前で熱心に読経をするようになった当時、空間でバキッ、とかピシッという音がしきりに聞こえてきたものである。ある年のお盆の前夜8月13日、先祖が里帰りをすると言い伝えられている夜に妻と二人で仏壇の前で読経をしていると一段と大きな音がしてドキッとさせられた。ローソクの炎が大きく揺れてその向こうを黒い影が動くのが見えた。背筋がゾクッとして鳥肌が立ってきた。家の飼い犬が何かを感じたのか吼え始めた。気味が悪いが止めずに最後まで読経を続けたのである。その夜の事は妻も同じ体験をして今も覚えている。その翌年の夏、私は高野山のある寺院の宿坊に泊まり阿字観という密教の修法を体験してみた。当時はそういうものに非常に興味を持っていたのである。それが終わった後で私はその指導に当たっていた僧侶に質問をしてみたのである。
 
仏壇の前で読経をしていると異音がしたり誰かの気配がすることが多いがそれは何故なのか、高野山ではそういうことがあるのか? という私の質問に対して彼は「自分はそういう話は聞いた事がない。読経の時は仏様が守ってくれているはずですから」と言う。私はそれ以上質問しなかったが勿論納得できるはずはない。目に見えぬ世界で何かが起こっているのは間違いない、何時かはそれを解明したいという気持ちが一層強くなったのである。仏教の世界に入ったのも元はと言えばその奥にあるであろう生命の実相を探求したかったからである。
 
数年後、私は実在の高級霊からのメッセージを収録した書物(人類の指導を目的とした霊言集)に出会う機会に恵まれた。それを全巻読破するのはかなりの努力を要するが、私はそれらの書物を納得できるまで何度も読み返した結果、今までに自分が体験した事の意味やその裏に潜んでいる真理、今自分自身が置かれている立場など、以前は深い霧の中にあるように思えたものが実感を伴って理解できるようになった。とは言ってもそれは人智の理解を超えた限りなく奥深い世界であり言葉で表現するには限界がある。その手の書物に書かれている内容を本当に理解するにはある程度の霊的感性と知識が必要かもしれない。そういうものが無かったら心からピンと来ないだろうし、そもそもそういうものを読んでみたいという動機そのものが霊の世界からの導きではないかと思う。ともあれ自分の道はまだまだ途上であり数年後に振り返ってみればあの頃は未熟だったなと思うに違いない。
 
現段階において以前、仏壇での現象を引き起こしていたものは霊であったと断言してもいいと思う。自分の指導霊が霊が実在している証拠として音などの物質化現象を提供してくれたと解釈している。もちろん指導霊以外のものも含まれていただろうと思う。いたずら的なものもあったにちがいない。物質に直接影響を及ぼす事は肉体を捨てた霊にとっては簡単ではないようで相当の苦労があるらしい。彼らが物質の現象を起こすにはそれなりの動機が必要であろう。私のケースではこちらの真実を知りたいという探究心が指導霊に届いてそれに答えてくれたということだろうと思っている。その当時、死の過程を辿る時の心の状態なども、霊界にいる父や犬の夢やイメージのインスピレーションを通じて教えてもらったのである。霊界からの直接指導を受ける事が出来たのではないかと思っている。
 
世間ではローソクの炎が揺れたり異音がしたり、あるいは家族の死後に家の中で怪現象が起きたという話を時々耳にするが、最も考えられる理由としてはあちらの世界に旅立った人が自分の健在ぶりを家族に知らせるために懸命にそういう現象を起こしているということである。残された家族があまりにも鈍感で死後の世界に対する理解が無いと、家族にサインを送る時にはそういうことをするしか方法がないのだろう。ところが当人(他界した人)が懸命になっているにもかかわらず家族はそれを気味悪がって僧侶を呼んで読経をしてもらったりどこかの霊能者に頼んで除霊(霊を追い払う)してもらったりするという事があるらしい。誰か外部の者に頼んで追い払おうとするような行為は見当外れであり、それは霊的無知と他界した人への無理解以外の何ものでもない。あちらから見るとあまりにも悲しいことではないだろうか。家族自身が親愛の情を送ってあげることが何より大切であり、他人を間に入れたりすることではないはずである。ともあれそういう物質的現象も誰でも出来るわけではなく他界した人の個性や霊的能力がものをいうのだろうと思う。
 
また夏になるとよくテレビに怪談として取り上げられているような怪現象の裏にはいたずら好きの霊の存在があると思う。彼らはつまり自縛霊(未成仏霊)であり、死後もこの世に未練を残し、まだまだ地上世界に引きつけられているために上に行けないのである。身体は滅びているのにまだ死の自覚が出来ずに地上をうろうろしている者が実は驚くほどいるということである。読経しながらいつ例の音がするかと気にしていたりすると彼らが面白がって音を立てに来るのではないだろうか。寺に行くとよく何でも一つだけ願い事を聞いてくれるというお地蔵様とか観音様が祭られていて人気があり大勢の参拝者で賑わっているものである。実際はそういう場所に高級霊が現われたりすることはあり得ないのである。賽銭を入れて拝めば願い事が叶うなどということは誰かの作り話であり、霊的真理に照らしてそういうことはあり得ないのである。そういう”現世ご利益的”なことを求めて大勢の人が集まるような場所には、からかい目的の程度の良くない霊が集まってきて悪さをすることがあるので注意が必要である。人の一杯集まる場所には同質の霊も多く集まってきて人間にそれなりの影響を及ぼしているはずである。
 
このホームページに“聖地を訪ねて”というセクションがあり“西国巡礼で(鳴る鐘)”という題で私が西国巡礼で京都に行った時、夜ホテルの風呂に入って一人読経をしているとそれに合わせて鐘がチーン、チーンと鳴り始めたという体験談を載せたが、これなどは今思えば悪意はないが茶目っ気のある霊の仕業ではないかと思う。こちらが鐘の音に驚いて慌てて風呂から上がるのを見て、彼か彼女かは知らないが相手は腹を抱えて笑っていたのかもしれない。霊媒体質で妙に信心深かったりするとそういう霊が寄ってくるようである。一方、霊的に鈍感な人の場合はそういう事をしても気がつかないので相手にしてもつまらないから寄り付かないということになるのだろう。要するに親和性の問題であろう。
 
そういう霊たちはまだ肉体的感覚が残っていて波長が物質世界に近いので物質的現象を起こすことは比較的容易らしい。ちなみに進化した高級霊となると地上世界とはあまりに波長が違いすぎて地上に直接手を下すことが難しくなるそうである。どうしても必要ある時は自縛霊に命令して物質現象を起こさせるということになるらしい。自縛霊も高級霊の手下として使われることがあるらしい。
 
イタズラをされてビックリするくらいなら笑って済ませるが、相手が恨みに燃えたような自縛霊ともなると深刻な事態を引き起こすことになる。このテーマはまた次の機会に取り上げたい。
 
更新日時:
2011/09/02

PAST INDEX FUTURE

ホーム 真理を求めて インスピレーション 死後の世界 随筆集 意識の世界 プロフィール 遊びの話
フォトギャラリー 聖地を訪ねて 遍路の話 リンク集


Last updated: 2011/9/2