真理を求めて

 
 
26    自由意志と良心の声
 
人生は右か左かの選択を迫られる事の連続である。面倒でもどちらかの道を選ばなければ前には進めない。外出して何を食べようかとか、買い物でどちらの商品を選ぶか等の事は人生に置いて問題になるようなものではない。そういうものはどちらでもいい事なのである。しかし事が自分の人生を左右するような問題であったり、自分だけではなく周囲に影響が及ぶような場合はどちらでもいいという訳にはいかない。我々はそういう時、自問自答するのではないだろうか。自分はこうしたい、しかしそうすれば誰かが迷惑を受ける事にはならないだろうか。そう考えて思い止まることはよくあると思う。またそういう良心の声を押しのけて自分に言い訳をして、したいようにする事もあるはずである。そういうことを生まれてこの方一度もした事がないという人間はいないと思う。私のこれまでの人生を振り返ってみると一杯そういう事をしてきてその結果、必ず後で責任を取らされることになっている。少しでも良心の咎めるような事はやらないほうが自分の為なのである。今考えてみると当時の自分の未熟さに自己嫌悪に陥りそうになる。
 
人は死後、自分の生きていた時の所業を全部見せられることになるのである。その評価基準は何所まで自分の良心の声に従って行動したかということになろうか。人間は肉体的な曇りが取れて物事をありのままに見られるようになった時に初めて自分の本質を知ることになるのだろう。私はこの世に生きている今でさえ突然自分が昔やった事が目の前に現実味を持って浮かび上がってくることがある。それは全部と言っていいほど自分の誤まった判断や行為が招いた出来事であり、強い自責の念にかられるのである。それは死後に見ることになる自分の人生絵巻を見た時の衝撃に耐えるための準備をさせてもらっているのかもしれない。
 
何の予備知識もなしに死後次々にそういうものを見せられたら大きなショックを受けてしまうだろう。事実、この世で非道の限りを尽くした独裁者などはその時点でようやく自分のしたことの意味が分かり、その衝撃で精神に異常をきたしそのまま精神異常者として時間を置かずにこの世に再生してくる事があるらしい。そこで自分が前の人生でやったことを償うことになるのである。ある人間が人の道に外れたことをやり通してそのまま死ねば世間は言うかもしれない。「人間は悪い事をしても何の罰も受けるわけではない。結局この世は不公平であり神も仏もいないのだ」。しかしそれは間違いであり当事者は死後きちんと自分が行った事に相応する罰を受けているのであるが、この世の人たちはそれを知らないのである。人生というものを限られた視野で見ている限りそれはわからない。
 
良心の声こそが自分に内在する神の声であり、それは神のモニターとして全ての人間に遺伝子のように組み込まれているのである。それは人生の重要な選択の場面で機能し決して誤まる事のないものである。良心の声に従おうとすると自分の欲求を抑えなければならない事も多いだろう。人生は良心の声(神の声)と自由意志との葛藤の連続であるが故に苦しく試練なのである。人間に自由意志というものが無ければ間違いを犯す事はないが、それでは進歩がない。人生というものは無限の時間をかけて人の自由意志というものが少しずつ神の意思に近づいていくようになっているのだろう。人の人生模様は無限の叡智(神)の定めた法則のもとにあり、何をやっても自由なように見えてその実、管理統制されているのである。あるいは自分自身が管理者であるとも言えるだろう。それもまた永遠の人生という視野で見なければわからない事である。
 
更新日時:
2011/04/09

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Last updated: 2011/9/2