真理を求めて

 
 
25    因果応報
 
原発の事故による放射能汚染の恐怖に世の中が震え上がっている様子が連日のように報道されている。メディアの報道は地震と津波による被災地の状況よりもこの話題の方にウエートが置かれているように感じる。地震と津波の脅威は峠を越したが放射能の脅威は依然収まっておらず、先が見えるまでには時間がかかるということだろう。過剰反応の部分を取り除いても事態収集に至るまでには紆余曲折があることだろう。
 
ところでこの大災害に紛れて忘れ去られようとしている事がある。それは口蹄疫の話である。宮崎県で口蹄疫に感染している、もしくは感染の恐れがあるという牛や豚約29万頭が殺処分されたのは去年のことである。また鳥インフルエンザの騒ぎもあり全国で100万羽以上の鶏が殺処分されている。ちなみに宮崎県では口蹄疫終結宣言をした後に鳥インフルエンザの発生に見舞われ、再び大量の鶏を殺処分したらしい。口蹄疫はウイルスが感染の媒体となって起きる牛や豚の病気であるが、人間に感染するものではなく、また家畜が感染を受けて発病したとしても風邪のようなものなので自然治癒するらしい。昔は農家一軒が生活するために必要なだけの家畜を飼っていたので、牛などが口蹄疫ウイルスに感染したとしても自然治癒を待っていればよかったらしい。
 
ところが現代の競争社会の企業型畜産になると採算が優先するので家畜の数を増やして大量に牛乳や食肉を出荷しなくてはならない。発病した牛は牛乳の出が悪くなるので出荷量が減ることになる。また養豚の場合は発病すると母乳が出なくなるので子豚が死ぬというケースがあるらしい。放っておけば自然治癒するにも関わらずこのウイルスは感染力が強いので容易に他の家畜に伝染する、そうなると全体の生産量、出荷量に影響が出ることになる。ワクチンを打てばウイルスを撒き散らす可能性は低くなるが発病しなくても「保菌者」になるケースがあり完全とはいえない。一旦風評が立てば国の内外で口蹄疫に対して清浄な県、あるいは国であるというブランドイメージに傷がついてしまう。そういう理由から宮崎県では感染の疑いがある家畜をワクチンを投与しているものも含めて全て殺処分してしまい口蹄疫の終息宣言をしたらしい。これらの事は経済至上主義の観点から正当化されているようである。
 
元来乳牛や食肉用として飼育されていた動物達であるにせよ、人に感染の恐れがあるわけでもないのに採算性が悪くなるからという理由で皆殺しにしていいものだろうか。しかもその理由は人間側だけの都合である。その事に心の痛みを感じない人間はいないだろうと思う。彼らも我々と同じ地球の家族であり、宇宙の創造主から貰った霊の一部が宿っているのである。動物にもレベルこそ違え人と同じものが宿っているのである。
 
人間のした行為には必ず結果が返って来る。摂理に反する事をすれば必ず責任を取らされることになるのである。人間社会で認められている事は必ずしも神の摂理に沿っているものではない。摂理は絶対に見逃してはくれないのである。人間は地球生命系の頂点であり生物や自然環境に対して責任が負わされている。人間は昔から動物虐待を繰り返し、それは今も続いている。その事に対する応報もそれに等しい分だけ受けてきたと思うが大方の人間の目に映ることはない。現状では当事者は感染した家畜を処分するしかないのかもしれないがあまりに悲しすぎる。人間はもっと道理にかなった対処法を考えなければならないだろう。大量殺戮された動物達のその時受けた恐怖と苦しみは如何ばかりであったろうか。そういうことをすれば何時か報いを受けるのではないかと人は本能的に感じるはずである。このケースだけではなく現代社会の経済至上主義が至るところで自然の生態系を傷つけ、自然の摂理に反することを続けているのではないだろうか。
 
今、日本人が受けている苦しみに思いを寄せる時、私は直感的に口蹄疫のことが閃いたのである。直接手を下した人達がその結果を受けるのが当然と思うかもしれないが、こういう事は日本人全体としてのカルマになるのではないだろうか。その場所から地理的に離れていたとしても今までに牛や豚や鶏の肉を常食してその恩恵を受けてきたという意味において連帯責任があるからである。個人、家族、地域、国、世界を単位としたカルマというものがあり、人は自動的にそこに組み込まれるのである。今回の放射能汚染の恐怖に怯える日本人の姿と、迫り来る死の恐怖に怯えたであろう動物達の姿の間には見えない糸があるような気がしてならないのである。
 
自然災害は人間に罰を与えようとして起きるものではないが、それに遭遇する人間にとってはそれぞれに意味を持つものかもしれない。それがある者にとってはカルマの清算であったり、創造のための破壊であったり、技術の進歩のための踏み台であったりするのだろう。つまりカルマが直接ある出来事を引き起こすというよりも、何らかの出来事を機会としてカルマの清算が行われるのかもしれない。因果律の見えない糸によってそれに遭遇するように引き寄せられるということだろうか。とにかく因果律の働きは電算機のように正確かつ機械的でそれは自動的に作動するようである。信仰心があろうが無かろうが、神や仏を信じようが信じまいが関係ないのである。
 
自分は何も悪い事をしていないのに何故こういう目に合わなければならないのかと考える人も多いだろう。この国が今受けている苦しみ、それは何の理由も無く起こっているのではなく、それなりの理由があるはずである。この度の地震と津波は人間の悪行によるものではないと思うし、家畜を何十万頭も殺したから天罰が下って何万人もが犠牲になったというわけではない。唯、被災者や放射能汚染の恐怖におののく人達の苦しみと、大量虐殺された動物達の受けた恐怖と苦しみ、両者は見えない糸で繋がっているような気がしてならない。そこに潜む因果を感じずにはいられないのである。
 
人間は未熟で間違いを犯す存在であり、間違いを犯すためにこの世に生まれてきたようなものである。そうでなければこの地球上に生まれて来ることはなかっただろう。間違いを繰り返しながらあちこちで頭を打たれて学んでいくのであろう。
 
更新日時:
2011/03/27

PAST INDEX FUTURE

ホーム 真理を求めて インスピレーション 死後の世界 随筆集 意識の世界 プロフィール 遊びの話
フォトギャラリー 聖地を訪ねて 遍路の話 リンク集


Last updated: 2011/9/2