真理を求めて

 
 
24    足跡を辿って
 
2007年の秋にこのホームページを立ち上げてから早や3年が過ぎました。これを見て下さっている皆様には心より感謝しております。最初は親類や知り合いの人たちが気が向いたら、興味があれば見てくれたらいいという気持ちでした。今も一切の宣伝はしておりません。人との出会いの時にこの人ならこういう話を理解してくれそうと感じた時に紹介する程度に過ぎません。というのは関心のない人にはこういうテーマは馬の耳に念仏になってしまうからです。さらに多くの人にとっては今の慌しい世の中、還暦を過ぎた無名の者が書いたものを読もうと言う気持ちにはなれないでしょう。素人が自分の世界を表現しているに過ぎないこのページに引き続き関心を持ってくれる人たちがいるという事だけで私にとっては嬉しくもあり光栄な事でもあります。
 
さて本ページの内容を振り返ってみるとお気づきとは思いますが、最初の頃のものと最近のものとでは内容に変化が見られてきていると思います。また整合性の取れないところもあると思います。以前に“神仏の声”として啓示を載せ、その出所を書いていましたが一年ほど前から“インスピレーション”としてそのテーマのみを載せるようにしています。その経緯をご説明しましょう。以前は自分が信仰する神や仏、また宗教の開祖に向けて祈った際にそこから得たものをインスピレーションとして載せていました。
 
しかしそれらの神仏は世間で信仰の対象となっている尊い存在ではあるものの、その実在は架空のものかもしれないし、またそういう偉大な霊的存在から私のような平凡な一初老の者に直接啓示が降りたりするというのはあまりにも不自然であり、そういう神仏の名をそのまま使うことにためらいを感じていたのは事実です。しかしこういう種類のホームページは一人の自由人が感じたものを素直にそのまま表現することに意味があるのではないかという理念のもとに暫くはそれを続けていました。
 
心のどこかに割り切れないものを感じながらもそのうち何とかなるだろうとも思っていました。時が経つに連れそういう一連のインスピレーションは自分を指導してくれる霊の親族から来ているという確信が持てる様になって来ました。世間でもよく知られている守護霊や指導霊です。彼らが祈りや瞑想の時にインスピレーションを送ってくれていたのだと思います。祈りの対象がないと祈りは出来ません。その頃私は神仏に祈りのターゲットを定めていました。私がそれを神仏からと思っていただけの事であり、それらの神仏の名を使うことも特に問題がなかったのでしょう。時間と共にごく自然に自分の心の中で整理がつき現在の形式に移行することが出来ました。
 
“導きの言葉”において言及しているように神とか仏というものは人間が想像した架空の存在であり実在しているものは霊なのです。人も肉体をまとった霊です。人が神仏と思っている存在は高度に進化した高級霊を指すものと思って間違いないでしょう。唯、一般の日本人にとっては祈りの時、自分の信仰する神や仏にターゲットを合わせるほうがやり易いかもしれません。また他の民族においても同様かもしれません。人間が何を心に描いて祈ろうとも祈った時に実際に届くところは自分の守護霊や指導霊と考えて間違いはないと思います。人は自分が崇拝する対象物というのは憧れを持って見ているものであり、心の支えになっている場合もあるでしょう。これまでに考えられて来た神も仏も実際にはいないと言えば身も蓋も無いかもしれませんが、守護霊を人が神や仏と感じたとしても差し障りはないと思います。昔から様々な修行者が神や仏のお告げがあったとして言い伝えられているものは殆どが守護霊や指導霊からのものであったのではないでしょうか。人間の理解度の進展に伴って少しずつ真実の扉が開けていくのでしょう。
 
我々がどこかの神社や寺やパワースポットに行って祈った時も祈りはそこの神様や仏様が聞いてくれるというわけではありません。またそこに神様が常駐しているわけではありません。日常の煩雑な生活の場を離れて清浄で崇高さを感じられる場所に行って祈ったり瞑想したりする時、人の意識の波長が高まり、霊的な世界に通じやすくなります。その場の環境というものが人間の意識に働きかけるわけですが伊勢神宮などは実によく出来ています。信仰心の無い人でもあそこに行くと本当に神様がいるような気がするというのはその清浄な環境によって意識が非日常的になっているのです。インスピレーションを受けられる人であればそういう場所に行って瞑想すれば霊界からのメッセージを受信しやすくなるでしょう。パワースポットは磁場が違うという人がいますが磁気エネルギーが実際に人の意識にどんな影響を与えるのか私には今のところわかりません。要はその人間個人の心の持ち様、意識の在り方が基本ではないかと思います。
 
私の真理への捉え方は最初の頃とはかなり変わってきました。自己満足に過ぎないかもしれませんが以前に比べより確かなものを感じられるようになりました。振り返って見ると以前に書いた内容に未熟な所が多々ある事に気付きますが以前のものを書き換えるのではなく、あえてそのまま残しておきたいと考えています。それは自分の進歩、変化を計る物差しにもなるからです。今の自分の視力などを考えると再編集するのは大変な事ですし、現在の所それほど洗練されたものにしなければならない理由もないと考えております。またこのページのソフト自体がシンプル過ぎてリンク機能もありません。本当はもっと機能のすぐれたソフトを使いたいのですが現在の内容を新しいものに移すとなればこれまた大きな労力を必要とします。
 
今、私が日々実感していることがあります。それは私は先走ってはいけないようなのです。わからない(見えていない)人たちの間にいると孤独感と苛立ちを感じます。私にとって物質的なものや肉体的なものしか視野に入らない人たちの中で長時間過ごすのはストレスになるのです。しかし真理に関することは自分のほうから働きかけてはいけないのです。人は受け入れる準備が出来る時までは真理を受け入れることは出来ないのです。人は準備が出来た時に連れて来られます。私は普段はあくまでも受身(待ちの姿勢)でいることが重要であり、何か必要な時にはあちらから仕事(使命)が与えられるということらしいのです。仕事が来たときには勇気を持って躊躇することなくそれを実行することにしています。時には大胆で厳しい事をしなければならないこともありました。日和見的で平凡な社会通念や迷信に浸っている人にとってそれは尻込みするような事かもしれません。
 
それからこれは確信と言うには今ひとつなのですが直感として感じられるものです。私がこの世にこういう状態でいるということがあちらの人達にとって何らかの役に立っているようなのです。具体的に何かをしなくても私がこの世に存在していることが1つのアンカーや中継所のような役割を果たしているのかもしれません。霊界と地上世界の接点の1つになっているのかもしれません。そういう意味からも私は目立たないほうが良いのです。私を通路にしてあちらの人たちがこの世の事に影響力を及ぼしているのかもしれません。あちらの人たちにとってこの世に何かの足掛かりが無いと働きかけることは難しいらしいのです。それは私自身も気がつかないところで行われているようで、彼らが私を通路にして働いているのは必ずしも私が住んでいる場所というわけではありません。地球上の距離は関係ないようです。
 
霊界からの働きかけの目的は地上の人々の意識の覚醒を促し進歩と向上をはかることです。現在この世でそういう役割を果たしている人が確実に増えてきていると思います。厄介な事、難しそうな事に直面した場にそういう人間がいるだけで自然に上手く収まっているというようなことが起きているはずです。それは誰にも気づかれることなく本人すら気がついていないという事も多いのではないかと思います。自分自身が気付かなくても通路になっているのです。本来ならそういうことは宗教人の仕事でなければなりません。
 
私の住んでいる地域においても私のそういう一面を知る人は殆どいません。私は素知らぬ顔で葬儀を手伝い、その席で僧侶の読経を聞き、法要の席で酒を飲んだり世間話をしたりしていますが本心は虚しさで一杯なのです。そういう宗教的儀式は本当はピントがずれているのですが、大多数の人はそういうことに疑問を感じたりすることはありません。それは無理も無いことでありそれが一般の人にとって無難な生き方なのです。
 
親類や兄弟の中でも私のそういう面を知っている人はほんの僅かです。私は目立たず人知れず自然体で一自由人として好きなことをして、優しい家族と、目に入れても痛くないほど可愛い愛犬に囲まれ幸せな人生を過ごしています。このページも見てくれる人が一人でもいる限り続けていきたいと思っています。現在私が理解している真理というものは僅かなものでありこれが絶対などというつもりは毛頭ありません。今後も現在のレベルで留まる事なく、新しい発見に出会えたらこの場で表現していきたいと思っています。(編集者)
                       
平成22年12月29日
 
更新日時:
2010/12/29

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Last updated: 2011/9/2