真理を求めて

 
 
23    祈り その2
 
祈りは自己啓発であり今まで眠っていた能力を目覚めさせる為のものでもある。宗教的なものを離れて純粋に意識の動きというものを見た場合、形式化された祈りの文句はあくまでも形であり自分の意識の状態を非日常的なもの(瞑想状態)に誘導するための方便(道具)であると現在私は考えている。非日常的な意識とは変性意識という言葉で表現してもいいかもしれない。要するに意識の範囲を自分の身の回りに限定されているものから拡大していくということである。それは人間が潜在的に持ってはいるが普段の暮らしの中では自覚することが出来ないものである。
 
つまり殆どの人は物質の世界に意識の焦点を合わせているために自分に本来備わっている能力を知らずにいるのである。そういう意識を持つようになれば人間としてより望ましい生き方(自然の摂理にそった)が出来るようになってくるということなのである。物質のみに捉われることなく生命の実相の一端を直に学び、人生をより広い視野から眺められるということである。未来の人類はそういう広い意識を日常的に持つようになるのではないだろうか。それは意識の進化であり、現在精神世界で盛んに言われている次元上昇という現象なのかもしれない
 
実際の祈りにおいては自分が短時間で意識の周波数を高めることが出来るなら長い祈りの言葉は必要が無い。長すぎると意識を集中するのが難しくなる。個人差はあるが習熟すれば山や海など清浄な自然を眺めて、あるいは環境を整えた自分の部屋で、または何かのシンボルを見て、数回深呼吸すればそういう状態に持っていけるようになってくる。感情が波打っている時はどんなことをしても駄目でそれを静めて心を澄んだ月のようにクリーンにしておく必要がある。日頃から出来るだけ余計なことを考えない習慣をつける様にした方がいいと思う。人はそれぞれ個性や条件が違うので要するに自分に一番合った方法を見つければいいのではないだろうか。
 
霊的なエネルギーは常に上から流れているので(我々は日常的に霊的エネルギーを上から貰っている)こちら側から一方的に祈り続けるよりも祈りを終えたら受動的な心の構えになり上からの霊的波動を受けるようにしたほうがいいと思う。こちらはエネルギーを貰うのだから青筋立てて拝み続けるより祈りの後は禅定の状態で静かに瞑想をすることである。
 
意識がそういう状態になれば人によってはインスピレーションを授かることもあるが、それは先天的な体質によるところも大きいので無理に期待するべきではない。また自作の作文をしてしまっては意味が無い。これがインスピレーションというものをその時感じなくても日頃の自分の思考の中に自然にそれが現われてくるようになるのである。それはどういうことかと言うと祈りによって自分を指導してくれる存在(守護霊、指導霊)との繋がりが強化され、日常の言動や大きな判断をしなければならない場面などで自分の意思に混じって彼らの意思が反映されるようになってくるということである。
 
上の人達(霊界の人)に通じる為には我を減らし素直な心で身を委ねる気持ちになることが大切である。妙な思い込みや先入観があるとそれが妨げになってしまうのである。とにかく受身の態勢が必要である。親鸞上人ではないが“他力”をどこまで信じられるかだろう。ところがこれは自ら体験しないと容易な事ではないのである。人生は自分の思うようにならず何か大きな力によって動かされていると感じたとしてもその場に及んだら何とかならないのかとじたばたするのが普通であろう。難しい事は神様にお任せしてと考えようとしても根拠の無いことは脆くも崩れてしまうのである。
 
人は実在のものがあることを体験して確信して安心の境地を得た後にやっと“お任せします”という心境になれるのである。いくら本を読んでも人の話を聞いてもそういう次元で理解できる事ではない。信じられるに値する実証が必要なのである。
 
宗教施設などで行う集団による現世ご利益的な祈祷などは殆ど意味がないと私は考えている。余程全員の波長が合わない限り、唯一緒に拝んでいるだけという状態になってしまう。そもそも心にあることが一人一人違うのでそれらをまとめる事は出来ないし、他の人々の思念が乱れ飛んで精神を統一するどころではなくなるのである。生きている人間の思念というのは強烈で、霊界からの霊妙なエネルギーはかき消されてしまうのである。
 
また鳴り物入りで大声でお経を唱えて護摩の火を焚くというような行為も本来霊的な交流が出来る環境ではない。上の世界からもそういう場にいる人間に対して何かメッセージでも届けようとは思わないだろう。自分の奥底にあるものを引き出して身の回りに溢れてくる霊気と調和させるには静寂な環境以外にふさわしい場所はないのである。
 
また高額な費用を払っての先祖の永代供養などを寺に頼むことも霊的に見て無意味であろう。あちらの世界に行った人が遺族に大金を払ってもらって面識も無い人に拝んで貰いたいと考えているだろうか?遺族と旅立った人を結ぶものは愛なのである。愛で結ばれた関係以外、何の親和性もないところに関係は成り立つはずが無いのである。そもそも特殊なケースを除いて旅立った人たちは束縛から解かれて幸せな環境にいるのである。そういう事は宗教施設の金儲けに貢献しているだけなのである。
 
祈りは自分の霊性の発露であり、それによって宇宙の摂理との調和を願い、自分を向上させるためのものであり、人間が神に近づこうとする手段である。他人に金を払って拝んでもらうというのは本来の祈りという行為とは別のものであろう。宗教的儀式や慣習は殆どが迷信の上に成り立ったものであり、もし人々がそれらの真の意味を理解することが出来るようになったら存在意味のないものは姿を消してしまうだろう。
 
祈りとは愛を送る事でありそれに対しては大愛が返って来るのである。時に優しく、時に厳しく我々を指導してくれるのである。時には物質的援助を授かることもあり、人間関係の事などでも実に深遠なる配慮をしてくれるのである。また何故こんな目に合わなければならないのだろうと思うような試練を味わう事もあるが後で振り返ってみると、見事につじつまが合っていてそれによって自分が貴重な学びをしているのである。
 
上との結びつきにおいての一番の原動力は“愛”であろう。上からの導きというものも彼らが愛に溢れた存在であるからであり、愛こそが宇宙最大の力である。祈りは真実の愛を知り学ぶための回路を開くことなのである。
 
更新日時:
2010/01/14

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Last updated: 2011/9/2