真理を求めて

 
 
22    祈り その1
 
どんな人間でも自分が危機に瀕した時は思わず「神様、仏様助けてください」と祈るはずである。それは人は今のこの見える世界の裏にある大いなるものとのつながりを本能的に知っているからであろう。神様助けて!と叫ぶ時、それは自分の親元に助けを求めているのである。日常意識ではそういうものを否定的に捉えていたとしても人間の意識の奥深いところではそのDNAが組み込まれているのだろうと思う。その大いなるもの、自分の存在の始原、故郷との繋がりを強めて導きと援助を求め、人間的向上を目指そうとするものが祈りではないだろうか。祈りとは本来そうあらねばならない。
 
太古の時代から人類は神に祈りを捧げてきたに違いない。その時代、時代の人々の認識のレベルに応じた神を崇めてきたのだろう。日本にも様々な祈りがある。仏教のお経や神道の祝詞はよく知られたもので特に般若心経は最もポピュラーなものであろう。
私も以前は歩きながら般若心経を唱えていたものだ。そのうち空で唱えられるようになり次には長い観音経もすらすらと出るようになり四国遍路や西国巡礼においては必ず唱えていた。当然我が家でも毎日のようにやっていたのである。初めの頃はそういうお経自体に功徳があり、それを繰り返すことによってそれが宇宙の深奥に共鳴し、仏様や先祖に届き喜んでもらえるものと思っていたのである。事実それはそれなりの効果があった。
 
その内にそれらのお経はそれ自体が力を持っていて宇宙に通じるというような発想は自分の中から自然に消えて行った。般若心経を初めとする仏教の読経は音響効果が実によく考えられていて、それを唱えることによって鎮静効果と中和作用があり心を穏やかにする力を持っている。読経は自分の煩悩を静め、心を浄化するには良い方法であろう。修行僧のように世間を離れて特殊な環境にこもり精進料理を食べ、読経三昧の修行生活を続けて行けば人間的煩悩は表面には出て来にくいだろう。但しそれはあくまでも作られた環境の中にいるから出来るのであって、そういう環境を出て煩悩渦巻く実際の人間社会に巻き込まれた場合、そういう禅定の状態を続けるのは至難の業であろう。
 
お経自体に特別な力があると信じ込んでいればプラセボー的効果を表わすことが考えられる。真言宗では真言(マントラ)がよく使われる。虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えたらアカシックレコード(宇宙の全情報の貯蔵庫)にアクセス出来るという言い伝えがある。空海が室戸岬の洞窟にこもりその行法をやっていたら明けの明星が口の中に飛び込んだというよく知られた伝説がある。マントラに特別な力があると心から信じ込んで精神集中したらそれなりの効果があるだろう。不動明王の真言もよく知られていて、それを唱えて護摩を焚いたらメラメラと火炎を背にした不動明王が降臨してきそうな雰囲気がある。
 
しかし客観的に、現代人の理性と知性から判断してそういうものに根拠があると見るか否かは各自の判断次第であろう。私見ではそういうものの本当の意味は音響効果と舞台装置による意識の誘導作用にあるのではないかと思っている。特に真言宗では信者の意識を誘導する為に感覚に訴えるべく様々な道具が用いられているが、現代に生きる我々としてはそれらは全て人工的なものであることを理解しておく必要があるだろう。
 
お経は難解な仏教用語が使われている上にその内容、意味自体がよくわからないことから思念をある対象に向かって送るということはやり難い。一部例外もあるが読経は総じて抑揚を押さえた雨だれのように静かなものでありエネルギー的には強いものは無くニュートラルに近いと言っていい。自分の中の切なるものを神に訴えるのが祈りという捉え方をした場合、読経は趣が違うように思う。完全に形式化された表現形式であり、禅定を目的として本来仏教という思想を身に染み込ませる為のものであろう。
 
一方神道の祝詞は日本語である上に単純明快で力強さがあり、一般の日本人にとっては自らの思念を統一し易いという面があることは事実である。仏教も神道も形式や作法を重視するが、その目的は祈る者の心の姿勢を正し、祈る体勢を作ることにあるのだろう。洋の東西を問わず人は崇高なものに対する時、自然にそれなりの姿勢になるのである。
 
祈りというものは経本に書かれてあるような形式的な言葉や内容自体を届けるのではなく祈る者の心を伝えることが真の意味であろう。実態は経本に書かれてある言葉が届くのではなく祈る者の思念が伝わるのである。素朴な祈りであっても心からのものならば充分に効果があるだろう。思念は一瞬にして霊界に伝わっているし本来霊界とのつながりの無い人間はいないからである。またこちらが何を考えているか、どんな問題に直面しているか、あえて報告しなくても霊界側では全て知っているし将来の方向性も把握しているのである。
 
真実の世界にいる進化した霊界人が人間の作った決まり文句や宗教的儀式に感動したりする事は考えにくい。伝わるものは1にも2にも祈る者の心以外ないのである。また祈りの技術と祈る者の人間性は関連性が低い。とにかく祈りが届く所は各自の魂の故郷であり、祈りの形式は関係が無く意味があるのは自分の心の有り様のみである。
 
更新日時:
2010/01/09

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Last updated: 2011/9/2