いわゆる大きな自分である大我は多様な側面を持ちそのうちの一つの面が地上の人間(私たち)を媒体として自己を表現しているのである。通常私達が自分と感じているものは大我の一つの側面(小我)であり、その上に肉体的要因や生後の生活環境などが付加されて出来た混成物、それを自分と思っているし、自分が他の人物を見る時もその混成物が相手の人格であると認識しているはずである。そして死後は肉体や生活環境の影響を受けなくなるので次第にピュアーな自己が表出してくるのではないかと思う。そのピュアーな自己を見るということは地上に生きている私たちには不可能に近いことではないかと思う。
“類魂説”はスピリチュアリズムに画期的な発見をもたらしたが、“類魂”も前述の“大我”と全く同じものである。いくつかの魂が集まって一つのグループを形成しておりそれを類魂(グループソール)と呼ぶ。その集団を養い統括する中心的な魂があり便宜上それを本霊と呼ぶ。本霊は十位から大きなものでは数百の類魂を従えているという。つまり一つ一つの類魂は本霊の分け御魂というわけである。
地上界に同じ類魂が何度も現われてくるということは稀であり、類魂は進歩の程度に応じて次第に高い階層へと移って行く。つまり地上にいる私という今の人格は一回きりと考えて良さそうである。次には違う境涯で違う媒体(今、肉体を覆っているもの、つまりオーラの一層)を通じて自己を表現するようである。類魂の一つが自らの地上人生でやり残した事はその内容にもよると思うが、その課題は後継者(後に地上に降誕する類魂)に引き継がれる事が多いのではないかと私は推察している。自分はその後成長して高い境涯に進み、後継者を間接的に指導しながら自らも学び直すということもあるのではないだろうか。
つまりそれが守護霊、ガーディアンスピリットである。2008年11月15日のインスピレーションはその事を表現したものである。ちなみに現在私が受けているようなインスピレーションも直接守護霊から、もしくは他からであってもその殆どが守護霊を中継して来ているのではないかと考えている。守護霊もまた類魂ファミリーの一人であるが相当に高い霊格を有していると考えられる。おそらく彼が指導する人間の人生の青写真を正確に把握し、カルマの解消やその人間がこの世で成すべき事などを高いところから見通して導いてくれているものと思われる。守護霊もこちらがその存在に気付き感謝の念で接すると喜んでくれて一層の指導をしてくれるようである。私事ではあるが去年辺りからどこの場所にいても精神統一をすればその繋がりを感じられるようになった。守護霊は地上世界の誰よりも指導する人間のことを深く理解していると思われるが、大きな意味から云えば守護霊も自分の一部ということになる。自分とは実際は想像を絶する巨大な存在なのである。
先天的能力の話になるが昔から様々な分野で天才的な人間には類魂のグループとしての特質が表現されているのではないかと考えている。天才的な芸術家、宗教家、政治家、思想家、スポーツ選手などその類魂の特性を受け継ぐ者が次々と地上に派遣されていると考えられる。つまり天才というものは類魂の中で過去何百年、何千年に渡り、研ぎ澄まされ凝集された資質を受け継いでいるので一般人には到底出来ない事をやってのけるのである。誰にでも知られた例では、現在大リーグで活躍中のイチロー選手が挙げられるだろう。天分という言葉はそれを表現するにふさわしい。正に天から分け与えられた才能なのである。
類魂のグループ(大我)からは太古の時代から幾度となく地球上へ使者(類魂)が派遣されているのであろう。しかしそれは同じ類魂ではなく、その都度違う類魂が目的を持って来ているのであり同じ者が何回も来るのではない。勿論それぞれが分け御魂なので霊的親和性が強く類似点はあるだろうが、もし私達が何千年もの間地球上に生きていられると仮定して、それぞれの類魂達に会ったとしても、彼らの類似点を見出すことは極めて困難ではないかと思う。
確かにある人物に会ってみてこの人は昔、高級武士をやっていたのではないかと感じたり、山賊のようなことをやっていたに違いないとか、その他にも学者、哲学者、僧侶など様々な雰囲気や独特なエネルギーを持つ人がいるものである。もしそれが当たっていたとしても殆どがそれはその人物が属する類魂の他の誰かであり、当人そのものではなくそのエネルギーの一部を分け持っているのではないかと思う。つまり私達一人一人には類魂の持つあらゆる要素が畳み込まれており、我々は主観的存在でもあり客観的存在でもあるということになろうか。それをわかりやすく表現する言葉に苦労するが要するに複雑な多重構造ということである。
大我は自分の足りないところを補う為にそれにふさわしい使者を次々に派遣しているのであろう。それもまた宇宙の全てを統括する自然の法則によって営まれているのである。この世に遣わされた者はその使命に目覚める、目覚めないは別として日々目の前に現われる課題に真摯に取り組んでいけばそれでいいのではないだろうか。遭遇する課題の中には自分にとって必要なテーマが現われていると思うからである。人はこの世に生存しているだけでそれなりの意味があり、自分の役割を果たしていることになっている場合も多いのではないかと私は考えている。また一人の人間には類魂の歴史が刻み込まれておりその深遠さは、我々地上の人間には計れるものではないであろう。前世鑑定、人間分析などで例え何かが掴めたとしてもそれはその人間の一部を見たに過ぎない。生命の実相、その深さは到底私達の想像の及ぶところではないのである。
再生を取り上げてみたがその問題も結局、自分とは何者かということである。
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