真理を求めて

 
 
19    自分とは何者か その2
 
今意識している自分というものは大きな自分という意識の一部であると言ってみても容易には理解されないだろうと思うが、人の意識というものは例えてみれば大きな木が方々に枝を出したような姿を連想してみると分かりやすいかもしれない。または多くの支店を持つフランチャイズチェーンを連想してみてもいいかもしれない。
 
1つの枝の末端が地上に居る私という存在であり他の枝は違う次元にいる存在たちである。それぞれの存在は独立しているように見えるが幹で繋がっているので結局は1つのものであるが、末端の存在たちはなかなかそれを認識できない。自分というものの本質を限局された視野から見ていることになる。末端のあたりしか見えないというわけである。しかし実際は一本の大きな木であるということから1つの運命共同体であるとも言える。お互いが影響し合い全体の中の一部として機能しているということである。一見それぞれが自立しているように見えても実際は集合体のなかの一つであり、私達は霊的に見ると独立した存在ではないのである。
 
であるから自分の身に覚えの無い事でも連帯して背負わなければならない(この表現は適切ではないかもしれないが)ということになる。他の末端で起こった過去や現在の出来事が自分のところにも及んでくるのである。同じ意味で自分が作ったものは良くも悪くも他の末端のものに影響が及ぶのである。我々が体のどこかが怪我や病気になっている時全体としても調子が悪くなるようなものである。
 
ここで例えた大きな木が大我であり末端が小我である。大我はあらゆる次元に一杯枝を広げ、そこの末端の者(派遣された使者と言ってもいい)がその場所での実体験から得た全ての情報を吸収、統合し自己の進化の為の糧としているということである。大我がこれまでに集積した叡智や知識は膨大なもので人智を遥かに超えたものであろう。つまり地上の私達自身も実は大我であるのだがそれが分からないのである。そしてそれがインスピレーション集に時々出てくる大きな自分ということである。この大きな自分に目覚めるということは地上世界にいる我々にとって容易なことではないのである。人は遥かな昔から瞑想や祈りで生命の実相を知ろうとしたのだろうが、結局はこの大我を知ることではなかったかと私は思っている。
 
我々の人生においては様々なことが降りかかってくる。それは皮肉なことに過去自分でこしらえた業だけではなく大我の中の他の誰か(それも自分)が作った業を連帯責任として背負うということがあり得るかもしれないのである。違う言い方をすると過去に誰かの作った人生の鋳型を踏まされるということである。同時に自分の作った鋳型を後の誰かが踏襲するという事にもなるのである。そのことを限局された視野で見れば矛盾、理不尽と感じるのが当然かもしれない。人生は矛盾に満ちていると感じたとしても無理は無いのである。この地球上に居る私達一人ひとりは実に多様な要素が絡み合って出来た複合体なのである。9月4日のインスピレーション集の「一人の人間は複合体」はそれを表現したものである。
 
 
 
 
 
 
更新日時:
2009/10/21

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Last updated: 2011/9/2