真理を求めて

 
 
18    自分とは何者か その1
私が今まで追求してきたものを一言で言えば自分とは何者かということに他ならない。日常生活において感じられる自分というものが全てでありそれ以上のものを感じ取る事は出来ないというのが大半の人たちであろう。人生において心の豊かさ、成長というものが大切であるいうことを知りながらも金や財産や名誉や社会的地位というものに囚われて一生を終わる人が殆どではないかと思う。しかしそれでは自分がこの世に生まれて来た目的というものを知ることなく終わってしまうのではないだろうか。かつてはそれを教えるのが宗教の役割であったが今や既存宗教はその存在意義が問われるようになっている。
 
大きな問題の一つは仏教にしろキリスト教にしろ死後はどうなるのかという素朴でしかも最も根本的な問題に対する答えが無いことである。現代は科学技術が格段に進歩し、人々の知識の量は昔に比べて飛躍的に増えている。宗教が根本的な疑問に対する答えを示すことなく昔からの教理教条を機械的に繰り返すのみでは人々の心は離れていくばかりであろう。また宗教人そのものが機械文明の中で物欲にまみれた生活をしているようでは人を導くことは難しい。
 
これから人間が心の成長をして自分がこの世に生まれて来た意味を知り人生を全うするには霊的真理を知る他はないのである。例え何かの宗教を信じているとしても目的は霊的真理を学ぶことであってそこに近づくことが出来ないならば意味がないと私は考える。また霊的真理を知る者が一人でも増えることが世界を協調と調和に導き人類の進化への道であると信じている。何故ならどの民族であろうと何の宗教を信じようと真理は一つしかなく、人類は皆、同根であるからである。
 
霊的真理の普及には時間がかかる。真理は受け入れる準備が出来た者から一人一人浸透していくからである。決して多数の人間をまとめて教化することは出来ないのである。近頃は書籍やインターネットなどでその気になれば豊富に情報が入手できるようになった。本屋に行けば霊的真理を表わした様々な本が並んでいるがそれらを読んでみて本当に魂のレベルで理解できる人は少ないと思われる。真理は本を読んでもその人にそれを受け入れる準備が出来ていなければ心の深奥まで染み込んで行かないのである。
 
皮肉な事に肉親との離別や事業の失敗など人生の苦悩や悲哀を味わった時が、心を開き真理を受け入れるチャンスなのである。普通人間は順風満帆の時は気付かないようである。苦難の時こそが気付きのチャンスとは皮肉な事だが、昔から高名な作家などが若くして自分の人生に深い疑問を感じて自らの命を絶つということをしている。その「人生は不可解である」という残された言葉、彼らが感じた人生の矛盾、そこに霊的真理を知る一つの鍵が隠されていると思うのである。
 
そういう自殺しなければならないほど強い自分の人生への疑問というものは物質の目で見ている限り解けないであろう。そういう時こそ人は霊の目で人生の出来事を観察しなければならないのである。実は我々の人生というものは自分が一人で仕切っていると思いがちだが実際は非常に複雑な要因が働いていて自分の思うようにはならないのである。物質の目で見るから思うようにしたいのだと言ってもいいかもしれない。
 
我々の人生での重要課題の幾つかはあらかじめ決められていて、人はこの世にいる間にそれをこなさなければならないのである。しかもそれを決めたのは自分であるという皮肉な事実。生まれる前にはそれを承知のうえでこの世に出てきたにも関わらずそのことは通常意識に上ってこないのである。その課題の中にはカルマの解消もあるだろうし魂の成長の為のものもあるだろう。それを自覚することが出来ない為にそれを苦しみや矛盾と感じてしまうのである。何故人生は矛盾に満ちているのか?何故苦しみがあるのか?それを理解できれば苦しみも苦しみとは感じなくなるのではないだろうか。ではどうすればそれが理解できるのか。問題を解く鍵は「自分とは何者か」それを知ることである。
(続く)
 
 
 
更新日時:
2009/10/21

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Last updated: 2011/9/2