私達は遥かな昔から意識として存在していたはずである。何千年、何万年も前からこの宇宙のどこかに存在していたに違いない。今は個々の肉体に宿ってこの地球上で生活しているけどそれはほんの僅かの期間に違いない。この地上界は物質の世界、人間や動物の肉体をはじめ全てのものは寿命を持ち時間の経過とともに消滅して地球の構成分子に帰る。物質は常に変化し最後は必ず滅びるというわけでこれを仏教では諸行無常という言葉で表現している。
有史上人類は常に人の死を嘆き悲しんできたと思う。殆どの人は身内の誰かが死ねば2度と会えないと悲しんで来たにちがいない。しかし亡くなったと思っている人たちは肉体を捨てて波動の違う世界に移行したのでありそれを地上界に残った人間はその五感で認識することができないというだけなのである。地上を去った人たちは肉体という束縛を離れて広い世界で永遠に生き続けている。元来ずっと前から存在していたしこれからも存在し続けるのである。永遠の生命の旅路という視点で見れば肉体を借りてこの地球上で生活している期間というものは束の間ということなのだろう。
私の家族の実例や体験から判断して亡くなった肉親達は常に手の届く範囲のところにいて私達を見守り色々なサインを送ってくれている。ある時はメッセージで、頬を撫ぜるそよ風で、ひらめきで、時には愛犬のしぐさとして。彼らの存在は生きていた時よりもはるかに身近に感じられ、それも生前に比べ格段に優しくなっている。
釈迦、イエスキリスト、弘法大師など歴史上の偉大な指導者たちも同じで偉大な魂を持った人たちは今も霊界で人類を導く愛の事業に携わっているに違いない。彼らも地上時代で生涯が終わったのではなく今は格段に進化して一段と偉大な存在になっているはずである。彼らが地上世界に現われたのはその必要があったからでその当時はその時代に生きる人々の知識や文化的レベルの程度に応じた教えを説いたのであろう。また如何なる高級霊といえども肉体をまとって一旦地上に生まれ出ると本来の霊力は制限を受け、その能力を思うように発揮できないらしい。
思うに霊界の人々は地上にある数々の宗教の何たるかについては殆ど関心が無さそうである。何を信仰していようとあるいは無宗教であろうと彼らが見ているのはその人間の本質のみであると思う。宗教的儀式や作法、経典のことなどはどちらでもいいのである。宗教は所詮、霊界の模写に過ぎないからである。彼らはその人間の霊性、日頃の行い、どういう生き方をしているかを見つめているようである。
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