悪い事をするとばちが当たる、良い事をすればよい事があるというのは我々が子供の頃からよく聞かされてきましたがこれは事実です。神様や仏様が罰を下すのではなく因果律によって裁かれるということだと思います。私自身のことで思い当たることは山ほどありますがプライベートなことなのでその中から一つだけ紹介しましょう。
3年前に西国巡礼に行ったときの事です。滋賀県の琵琶湖の北部に国宝級の観音像を収めている寺や庵があります。日本で最も美しいとされる観音像もあります。そのなかのある小さな寺で綺麗な観音様が安置されていて写真撮影禁止になっていました。私は管理人が居なくなった隙にその観音像の写真を撮ってしまいました。うまい事やったなと思いながらそこを後にし次の札所である琵琶湖に浮かぶ竹生島にある宝厳寺に渡る船を待っていました。空腹だったので船着場のベンチでコンビニで買った弁当を開けて食べることにしました。食べ終わってほぼ空の弁当のパックをベンチの上に置くとそれまで無風だったはずなのに急に一陣の風が巻き起こりパックが舞い上がり私の頬をパシッと叩いたのです。醤油が私のシャツを濡らしました。ハッとしてこれは写真を写したことの罰だなと思わずにはいられませんでした。因果律が働いたのかどうかは実証することはできませんが人間の直感はほぼ正しいと思います。
私たちは見つからなければ悪い事をしてもやり得だと思ったりします。本当にそうでしょうか?しかし過去社会の目に触れる形で現われてきたものを見れば一目瞭然だと思います。政治家、官僚、事業家、芸能人などの悪業が暴かれていく様をみればよく分かります。誰も知らない、見ていないから何をやっても良いと思っても天は絶対に見逃してはくれません。全ての事が記録されて残っているのです。そして然るべき時が来たらそれを自己責任において精算しなければならないのです。内部告発で発覚するという形で出てきても因果律が働いた結果そうなったのです。最近の動きを見ているとその働きが活発化しスピードアップしているように感じます。
誰も因果律の働きから逃れることは出来ないのです。多くの人は何か自分にとって不都合なことが起きたとしてもそれが因果律が働いた結果そうなったという事に気付いていないのです。事実それは普通わかりません。人の行為や思考というものは全部モニタリングされていると私は思っています。また僧侶、医者、教師など人を導かなければならない立場の者が悪いことをした場合その罪は無知ゆえに何も知らずに犯した罪に比べて何倍も重くなります。また家族、地域、国のレベルにおいてもそれを単位とした因果律があるようです。アメリカ、イラン、イラク、中国、朝鮮半島などの動向を見ても表面的な動きの下にそれを感じる事ができると思います。
以下は仮説です。
「私たちが今までにやってきたことの記録は自身のオーラの中に全部記憶されて残っている。プラスの事マイナスの事が一杯入っています。しかしそれらはいずれ中和される必要があります。宇宙のエネルギーはニュートラルに向けて働くので全てのものを中和させなければなりません。例えばマイナスのエネルギーが溜まってくるとどこかでそれを放出する必要がありじっとその機会を待っています。そこでその対象が現われるとそれに向けて放電するようにエネルギーが放出される。そういう仕組みでカルマの精算が行われるのかもしれない。因果律の働きは数学的ですから機械的にそれは行われる。閻魔大王がそれをやるのではありません。その人間が今生でそれを精算できなかったら次の世に持ち越されるということもある。一体誰がそんなシステムを作ったのか?宇宙の創造主でしょうか?遺伝子の働きの凄さを見るに付けそれぐらいのことは出来てもおかしくないと思ってしまいます」。
それでは一体何を基準にして人の行為の善悪、プラスとマイナスが決まるのかというと大まかに言って宇宙の理(愛、調和、進化の道)に反する事はマイナス、それに貢献することならプラスということになるかと思います。これは仏教の教えをみれば一目瞭然だと思います。仏経の中に十善戒という教えがあり仏教徒はそこに挙げられたような悪い事をしませんと誓うものです。ですから正しく仏教の教えを守っていれば間違いありません。しかし厳密にそういうものを守ろうとすると現代社会の中では生きていけません。それにこだわると息苦しくなります。そして束縛されているように感じてしまいます。
そういう気分で家の弘法大師像の前に来たら次のインスピレーションが降りてきました。
「因果律を否定的に捉えるのではなく進化の為のプログラムと考えるべきである。それによって反省しそれをバネに自らが進歩することに意味がある。因果律は人を縛り付ける為のものではなく正しく導く為にあり実態は大いなる愛の摂理なのである」。
さすがはお大師様!もう合掌するだけです。
孫悟空が雲に乗り世界の果てまで飛んでいったと思ったらそこはお釈迦様の指の間を行ったり来たりしていただけだったという話がありますが、なるほどそういうことだったのかと思わせます。
仏教で陰徳という言葉がありますがこれは人知れずに奉仕などの善業を積んで行くということです。普通なら、誰も見ていないのにやっても認めてくれないから、と思いがちですが実はそうではなくちゃんと天のスコアーにつくようになっているのです。改めて仏教の奥深さを知る思いです。例え過去に悪い因を作ったとしても心を入れ替えて善業に励めば悪因は解消されていくのではないでしょうか。そう思いたいものです。
善を成すようになってくれば心の波動が高くなってきて高い波動のものと引き合うようになり一段と上を目指すようになります。そうなれば怒り、恨み、妬みなどの低いマイナスの波動には感応しなくなります。そうすることで霊性の進化が得られるのではないかと思います。マイナスのエネルギーで作られた過去の悪因とも引き合わなくなるのではないでしょうか。
日頃の生活で細かく因果の法則などを気にしていたら到底伸び伸びとは生きられません。誰でも感じる事ですが良い事をすれば後が気持ちがよく、逆に良くない事をしたら後味が悪いです。悪いと感じることをしなければいいのです。人は誰でも本能的に知っているのです。明るく前向きに生きていれば自然に悪い事をしようという気はなくなります。
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