写真は大麻山のインスピレーションの岩
「人の世は揺れ動く水草のようなもの、定まる事はないと思え」という祓戸大神のメッセージがありました。この世の事は幻、すべて人間の思いで作られているとしたらどうでしょうか?織田信長の作った唄に次のようなものがあります。「下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」。これは人の生きるこの世は幻のようなものであり人生は無常であってこの世で得たものを次の世に持っていくことはできないという事を唄ったものでしょう。それから父との交信で「今思えば生前追い求めていたものは大して意味のあることではなかった」という言葉がありました。
我々の日々の生活のなかで自分の五感でもって感じているものははたして実相の世界なのでしょうか。影として写ったものを追い求めているだけかもしれないと私は考えるようになりました。この世は写し世であって真実の(実在の)世界ではないのではないか。とすると様々なことに振り回され怒ったり驚いたりすることが馬鹿らしくなってくるではありませんか。この世は想念で出来た仮想現実の舞台で皆がそうとは知らず懸命に自作自演の芝居をしているような世界なのかもしれません。
私の大好きな場所があります。大麻山を登っていくと頂上近くに大きな岩がたくさん並んでいる所がありその岩の上に立って下界を見下ろすと最高に気分がいいのです。視界のいい日は鳴門大橋から瀬戸大橋まで見渡す事が出来、目の前には屋島、五剣山、遠くにうっすらと四国第二位の標高を持つ剣山も望むことができます。空に浮かぶ雲、頬に感じる風、自分と同じ高さで鳶が輪を描いていて他の鳥達のさえずりも聞こえてくる。ああこれぞ自然、山や木や草花の生命の息吹のなかに囲まれていると自分もその中の一つなのだということを実感することが出来ます。雲や風さえもが生きていると感じられます。そこから見る夕日の神々しいことは言葉で言い表すことができません。下界を見れば人間の乗った車があわただしく走り回っています。田舎とはいえ狭い土地に民家がひしめきあっています。
そこで山の澄んだ空気を吸って静かに瞑想してみるとこの自然界のなかで人間社会というのは特殊な存在であるような気がしてきます。他の自然界の生命は自然の摂理を忠実に守って生きています。彼らは自由意志というものが殆どないのでそうするしかないのですが。翻って人の世界を見ると人間は高等な知能を持ってはいるけれど同時に余計なものを一杯溜め込んでいて真実の層の上にそれらが堆積しているように見えます。我々は真実の世界を見ることなくその上に沈殿した堆積物を見てそれを真の姿だと思っているのではないでしょうか。その堆積物を払いのけないと真実は見えにくいのです。もう一つの父の言葉を思い出します。「こちらに来てからそっちの世で積もった塵をきれいにするのに何年もかかった」。
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