四万十川にはおよそ日本の河川に昔あったあらゆる自然がそのままに残っている。上流域の山間には「熊」が居て、河口の海には「鯨」が棲んでいる。勿論川の中には120を超える種類の魚が住み、それを追ってか周囲の山々には160種類以上の鳥達も生活をしている。そのほか、これらの動物を育むための植物や昆虫類も豊富で、まるで四万十川は「自然の宝庫」である。
最近少し翳りが見え始めたとはいえ、それはあたかも19世紀の日本の河川の状況だと言えなくもない。だから、昔の川を知る人々にとっては「何でもあり!」の楽しい川なのである。ただ、「何でもあり!」と言っても、何でもあるためにはそれなりの条件が必要であり、また楽しいといっても、何の条件も無しに楽しいわけではない。そこには条件整備の努力が必要だったし、「あらゆる努力をした!」と言うことではなかった歴史がある。
その歴史は書きたくない・・・が、敢えて書く。明治政府以来、日本国は「富国強兵」「工業立国」のために努力をして来た。その結果「中央集権」システムが成立した。そして河川は「国の所有物」とも決められた。このことが今日の四万十川のために大きく影響している。
四万十川は都会からの「時間的距離」が遠い。東京からならその時間数は「グァム島」に行ける程である。そして四万十川の周囲は手を加えるにはあまりにも「費用対効果」の薄い「急峻な地形」である。そこでは「工業立国」という国策に合致した投資をして産業を興すことはなかった。かくして若者は都会へと旅立ち「過疎」となり、過疎ゆえに集票のできない地方は「圧倒的な政治家」を輩出することもなく、公共工事予算を中央から獲ってくることも出来ず、いつしか「発展する日本」から取り残されたのである。そして同時に「自然玉手箱」がこの過疎地のこの川に生まれた。
「時代おくれ!」と嘆くしかなかった川が、他の河川の自然破壊のおかげで「日本最後の清流」と呼ばれるようになったのは単なる偶然であって「禍福はあざなえる縄の如し!」とは自嘲でしかない。つまり、日本最後の清流は「流域住民の努力の結果」ではなく「高度成長政策の落ちこぼれの結果」なのである。これで、「理由は書きたくない!」と言った訳が分かったでしょう?
これから考えても、四万十川とは先人の思惑通りにいかなかった川なのである。
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