四万十川物語 (第4話)


四万十川の泡になりそこねて 崎村泰斗


<橋の下の子どもたち(小谷貞広写真百選)>


<次女と>

  向こう見ずだと小さい頃から言われていた。あれは小学五年生の夏の日のことだ。その気性の激しさは今でも全然変わらない。同級生の二人に「自転車で泳ぎに行こう」と誘われ、やっとうまくこげる程度なのについ見栄を張ってしまったのだ。当然、家からすぐの松田川だと思っていた。ところが「中村まで競争して、赤鉄橋から四万十川へ飛び込もう」と言い出した奴がいたのである。二人は学校でも一、二を争う大男だった。私も背は高いほうだがガリガリのやせっぽち体力的にも彼らについていくのは難しい。それでも「人にナメられたらいかんぜよ」とばかり必死で二人の後を追って走っていった。二十四キロを走破する間坂道で何度こけたことだろう。真夏のカンカン照りだった。目的地に着く頃には息はもう絶え絶え。 我ながら意地っ張りだと思う。

 実は私は当時見事なカナヅチだった。小学校も五年生になると殆どの児童は泳ぎが上達して真っ黒に日焼けするのに、私だけは監視員のオンチャンのコーチを受けながら「こればあ浮かん子も珍しい」と呆れられていたのだから。今考えても無謀の二乗、三乗であった。体力はすっかり消耗しきって「浅瀬でチャプチャプするぐらいなら大丈夫だろう」と腰あたりまで浸かってほてった体を醒ます。ようやく水の中で目を開けられる程度でバチャバチャとバタ足で遊んだりしていた。

 足許をゴリがつっついてくすぐったい。アユも沢山いたようで、清流の中味を楽しんでいたのだが、思ったより流れが速いのだ。「いかん、流されたら困る!」おまけにしゅんせつ工事で川底が大きく堀り返されたところがあって、運悪くその辺まで流されてしまったからたまらない。もがき苦しみ、あせってあえぐが体は全然浮かんではくれない。もうダメだと思った。死んだと感じた。不思議なもので諦め切ると実に穏やかな気持ちになってきて、文字通り走馬灯のように今までの思い出が頭をよぎってくる。両親の顔や幼い妹と弟、さようなら・・・。

 その時だ、いきなり強い力で腕を引っ張られて夢からさめたのは。「大丈夫か!!」 大きな声が聞こえてくる。間一髪で救助されたのだ。随分沢山水を飲んでしこたま吐いた。文字通り放心状態で命の恩人の名前すら聞く事ができなかった。祖父母の家まで辿り着いてその話をする。「僕ね、今日死にかけちょったんよ」と祖母は「大切な命の恩人にどうしてもお礼をせにゃいかん!」と言って翌日足摺の方までたんねて行ったが会えなかったとか。どうやら「早稲田の学生さんだった」という情報を入手しただけだが、お礼を言いたい。

 一緒に行った二人はその後も元気である。一人はO高校のエースとして名を売って、その後は「ザ・パーフェクト」という、はらたいらさんのチームで投げまくっていたという。今は故郷に帰ってリサイクルショップ店長。180センチの身長でスポーツ万能である。もう一人は更に一回りでかくなって医者をやっている。今でもファーストネームで呼び合う仲である。人生に「たら・れば」は禁物だというけど、もしもあの時あと数秒、助けが遅ければ…。つくづく悪運の強い奴だと感じている。

 四万十川といえば「日本最後の清流」だとか朴歌的イメージが有名だが、11歳の少年はその恐ろしさが骨身にしみ込んでいる。それでも赤鉄橋や沈下橋を見ていると、つい飛び込みたくなってしまうのだ。子供たちには「きれいな川ほど深くて速い」ことを伝え、「自然をナメたらいかんぜよ」というメッセージを残しておきたい。
           話・輪・和<リレーエッセー>        
 次回は、高知県知事の橋本大二郎氏です。東京育ちで、高知県の知事になるまでは、高知県、はたまた四万十川とは何の縁もゆかりもなかったわけですが、知事になるとすぐ、全国の県庁レベルでは珍しい、特定の河川の名前を冠した部局(現・四万十川流域振興室)を作ったほど、今では、四万十川のサポーターとして、かなりの「こだわり」と「思い入れ」を、お持ちのようです。そのような四万十川を思う心が、どのようなところから来ているのか、というお話です。