軽く走って収録スタジオから戻った平山は、息を落ち着けながら、事務所のドアを開けた。
閑散としている。ちょうど皆が出払っている時間だ。大抵はセットを立て込んだ後も、皆スタジオで収録が終わるまで見ていて、解体作業まですべて終わってから戻って来る。
が、平山はどうしても消化しておきたいデスクワークがあり、収録中セットチェンジがないことを確認して、事務所に戻って来たのだった。
コーヒーもいれずに左奥のデスクへ腰を下ろす。目の前のホワイトボードには、隙間もないほど予定が書かれ、メモが貼られ、壁に沿って様々な書類が収まっているファイルケースがぎっしりと並ぶ。それでも、空いたスペースはきれいに片付けられ、小さな灰皿だけが置かれている。平山のデスクだ。
「さて、と。」
深く腰掛けた平山はまず煙草に火を付けたが、一服する間もなく、銜え煙草で引き出しから、ペン、スタッフ表、予定表と次々取り出していく。デスクの上に一通り揃ったところで、煙草の灰を落としてまた銜え、ペンを手にすると、軽く袖を引っ張り上げた。
「んー…。」
軽くシワの寄った眉間に指をあてて書類を見比べながら、細い唸り声と煙をゆっくり吐き出す。平山のデスクの上に広がっているのは、白紙のシフト表。これを今日中に上げておかなければならない。
それは平山のいつもの仕事なのだが、今の時期は面倒だ。ちょうど春の編成時期前。特別番組と新番組の収録がぎっしりで、十分な人手をまわすのは一苦労だった。加えて平山は、フォローに走るべき立場でありながらも、自分がその特番等に出演しなければならない立場でもある。言うまでもなく「野猿」として。
先日レコーディングが終了したばかりのニューシングルの練習が、今日から始まる。その毎日の練習と、練習風景の撮影に始まり、プロモーションビデオの撮影、番組でのプロモーション企画等、本来の仕事の合間にスケジュールはぎっしり詰まっているのだ。
野猿には仕事に支障を来さずに取り組むことが第一だが、フルメンバーでの久々の新曲ということもあり、さすがに練習一日目からは遅れたくなかった。となるとシフト表を、今、この時間で完成させるしかない。だから平山はこうして収録の合間に戻って来たのだが…。
「余計面倒にしてるのは、俺か…。」
つぶやきながら煙草を灰皿へ運ぶ。三年前の誕生日にファンから貰った水色のその灰皿が、心強くも感じられ、自分に相応しいものかどうか戸惑いも感じられた。
平山が煙草を消したのと同時に事務所のドアが開き、上司の竹島が入ってきた。
「お、平山。もうあがりか?」
竹島は思わぬ時間にデスクにいる平山に少し驚いて、そう声をかけながらコーヒーをいれる。
「いえ、まだ。収録中なんで、ちょっと、戻って来たんです。後の仕事も片づけとこうと思って。」
「あー、今日からだったか。野猿の方。」
「すいません、忙しい時期に。」
一口飲んだコーヒーに苦い顔をしながら言った竹島の言葉に、平山は謝った。竹島は首を振って眉間の皺を消すと、ミルクを手にしながら笑って見せる。
「いや、言ってみりゃそれだって、お前の仕事の内だからな。…と、平山、シフト表…」
「あ、今。今日中に上げますから。」
「いや、まだなら良かった。今回は特番の都合もあって、こっちで組んだんだ。」
「え?」
「悪いな。バタバタしてたもんで、言うのが遅くなって。」
「ああ、いえ。そうですか。」
平山は何も聞いていなかった。何か、大きな特番に急な変更でもあったのだろうか。それでも平山に情報が来てないのは珍しいことだった。
「俺のデスクの上に人数分置いてあるから。帰りにでも取っといてくれ。」
「はい。わかりました。」
平山はすぐに立ち上がって、竹島のデスクの上からシフト表を手に取る。竹島は忙しそうにコーヒーを飲み干すと、事務所を出ていこうとした。
「えっ…ちょっと待ってください、竹島さん。」
その背中を平山の強い声が引き止めた。竹島が立ち止まるのを確認すると、もう一度シフト表に目を落とす。竹島はそんな平山を分かっていたかのように、ゆっくりと振り向いた。
「何だ?」
「これ…どういうことですか?」
平山は竹島が組んだそのシフト表を差し出した。今まで平山が入っていた番組には、他のスタッフの名前が入っている。平山の名前が残っているのは一番組だけになっていた。
「ああ…、まぁ実際のところ、お前はその一本が大変だからな。野猿に、穴、空けられないだろう?他の番組には若い奴もまわしとくから大丈夫だ。」
竹島は責める口調でも突き放す口調でもない。逆にそれが平山を混乱させる。
「いや、でも、そりゃ、今まで全然迷惑かけずにやってきたとは思ってないですけど、野猿は本職をちゃんとやりながらの活動だから、これは…」
声は押さえて喋ろうとするのだが力が入っている平山を見つめながら、竹島は穏やかに、しかしはっきりと話す。
「お前の事だから、そう言うだろうとは思ってたよ。でも、何も、お前の仕事を切ろうって訳じゃない。平山はどんなに忙しくて疲れてても仕事の手を抜くようなことはしない。野猿を言い訳にしたことは一度もない。それは、一緒に働いてる俺たち全員分かってるから。それにむしろ、言ったろ?それもお前が指名を受けた仕事の一つでもあるんだからさ。まぁ、周りで見てる奴の中には、勘違いして好き勝手言ってるのもいるだろうけど。お前が勘違いなんかしてたら、俺はもっと早く仕事切ってるっての。そうだろ?」
「…ええ。」
「お前が抜けると正直痛いんだけどさ。それでも、こっちはなんとか他の奴まわせても、野猿にお前の代わりなんていないんだ。今日からまた、なんだかんだやらかさなきゃいけないんだろ?今回は、そのシフトでいく。いいな?」
ここまで言ってくれる竹島に、平山は『でも、だけど、』そんな言葉を飲み込んだ。代わりに、言っても仕方のない言葉と分かりながらも、平山は頭を下げる。
「…はい。分かりました。本当にすいません。」
「謝ることじゃない、気にするな。平山みたいないい男は、どっちも離してくれないから、身が裂かれるようでツライねっ。」
竹島はそんな平山を見越して、いつになく強い口調で話したのだろうか。明るく声を変えると、平山の肩を叩いて笑った。やっと少し、平山も表情が和らぐ。
「…なーんか、あれだな、お前等って、微妙ーに面倒なトコに立ってて、難しいだろうけどさ、せっかくだから楽しんで頑張れよ。俺らも楽しんで見てるからよ。」
「…ありがとうございます。」
平山は、もう一度頭を下げた。と、竹島は出し抜けに、
「平山、今日もうあがっていいぞ。バラシ、俺が行っとくわ。」
そういって今度は止める間もなく事務所を出ていった。
「えっ、ちょっと、竹島さん!」
平山が慌てて追い掛けて外に出ると、竹島は振り向いて、
「今日からの練習、遅れたくなかったんだろ?行けよ。シフトの説明もあるし、後は俺がやっとくから。たまには俺にもイイ男の役、させろ。」
それだけ言うとさっさとエレベーターに乗り込んでしまった。
「ありがとうございます!」
平山の言葉が投げ入れられて、エレベーターのドアが閉まる。下がっていくランプを見送って、平山はもう一度、その手に握られたシフト表を見つめた。
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