灰になっていくばかりの煙草に気付いてその灰を落とすと、平山は短くなった煙草を銜えた。一人きりのリハーサル室、その理由を思い返し、考える。
「仕事も、野猿も、…か。…そう上手くはいかねえなぁ…。」
先程の神波の言葉を呟いて、平山は上着のポケットから、無造作に折られたシフト表を取り出した。ほんの一瞬だけ、紙を持つ左手に力が入ったが、そのままその手をゆるく膝の上に投げ出す。確かに、初めから竹島のようにシフトを組んでいた方が、自分のせいで他の現場に影響を与えずに済む。忙しい時期だからなおさら、平山にとっても他のスタッフにとっても、この方が無理がないかもしれない。平山を含む同僚たちを信頼し、現場をよく理解した上司だからこその今回の選択だ。そう、だからこそ、平山の手の中でその紙は少しずつ重みを増していく。
ドアが開く音に気付いて、反射的に平山はその紙をポケットへしまう。
タオルとライターを手にして神波が戻って来た。だが、駆け出して行った勢いはどこへ消えたのか、重い空気を纏っている。それを払うように足早に歩き、神波は笑顔を作って平山と目を合わせ、喋り出した。
「取って来ました。俺、やっぱり事務所に忘れてましたよ。衣装室でいた時に、あの仕事の話聞いて、それで嬉しくって、舞い上がっちゃったんすね、俺、はははっ…馬鹿みてぇ…。」
変に情けなさそうな顔をして笑う神波に、平山はためらわず聞いた。
「どうした?」
「えっ?何が?」
「何がじゃねえよ。また、何かあったろ、お前。」
神波は隣に座って笑顔を作り続けながら、平山から視線を外すように、タオルを大きく広げる。
「何にもないですよ。いや、こんな大事なもん忘れるなんて、俺、どうかしてたなって…」
平山は、静かに遮った。
「ごまかせねーよ。言ったろ?お前は分かりやすい。お前が本気で笑ってる顔は、決定的に違うんだよ。…いや、言いたくなきゃ、聞かねえけど。他に誰かいるわけでもないし、無理して、笑うなよ。お前のそういう顔は、あんまりな…。」
そう言うと平山は、やっと神波から目を離して煙草の灰を落とす。その声と同じ柔らかな目で煙草を燻らせる平山の横顔を見つめて、神波は、知らないうちに強ばっていた全身の力が抜けるのを感じた。
「…はは、ダメっすねー、俺、正直すぎ…。」
神波は正面を向いて、トン、と壁にもたれた。平山も同じように壁にもたれて、神波が話し出すのを待った。
「仕事の話、ね、あれ、違ってた。メインでやるのは、中里だったんですよ。」
「えっ?」
平山は思わず神波の方へ顔を向けた。伸ばした足の靴の先だけを見て、微かに泣き笑いの表情を浮かべた神波は続ける。
「さっき、事務所に戻った時に聞いちゃったんです。事務所出たら、隣の衣装室から『神波はさ…』って、声が聞こえて。ドアが少し開いてたから、近付いたら、『実質的には、中里一人に任せるから。神波は他のやつからも外していくつもりでいるから。』って、みんな集まってて…。」
細い声で話す神波の横顔を、平山はただ黙って見つめていた。
「俺、訳分かんなかったけど、はっきり聞くのも恐くて、そのまま、こっち戻って来て。でも、さっきあんなにはしゃいで話したばっかりだったし、余計情けなくって、…平山さんにどう言っていいか分かんなくて。…これって、俺、仕事、切られたってことですよね。」
低く、それでもはっきりと、神波は半ば自分に言い聞かせるように平山の目を見返した。
「神波…。」
痛みをたたえた神波のその目に、平山がかける言葉は無かった。神波はゆっくりと視線を戻して続ける。
「俺、いい加減な仕事したつもりなんてないけど…、いくら野猿と仕事、両立させてるって言ったって、迷惑、かけてますからね、実際。俺に合わせて変更になったり、逆に融通効かなくなったり、仕事中に騒がれたり…。でも、こんな形で…今まで築いてきたもの失うなんて、俺…、野猿…」
平山は煙草を消すと、ギターを膝の上に乗せた。
「久しぶりに、二人で歌うんだろ?」
「え?」
平山は、再びポケットから折たたまれた紙を取り出すと、戸惑って見つめる神波の頭の上に乗せて、優しく笑った。
「お前一人じゃないんだよ。」
「え?平山さ…」
滑り落ちて来たその紙を神波が開くよりも先に、平山はギターを弾き始めた。
『Time has gone.』。ちょうど2年前の今頃、コーラス部分も練習して、二人でよく歌っていた曲だ。偶然 すれ違った 懐かしい友よ
平山が歌い始めて、神波を見る。膝の上で開かれた紙から目を上げて、神波もゆっくり歌い出した。
スーツを着てる お前がそこにいたよ
二人は目を合わせて微笑む。きれいに重なった歌声が、部屋の中に広がっていた。
Time has gone. どれくらい 歩いて来たのだろうか
Time has gone. 振り向けば この道は続いている
Time has gone. この先の 未来に何が待つのだろう
平山の腕の中、ギターの余韻がやがて消える。
「お前、やっぱり歌、上手くなってるな。って、おい、なんだよ、自分の歌で泣いてんなよ?」
ギターを横に置きながら、平山がからかうように言うと、うつむいていた神波は慌てて顔を上げた。
「違うって、泣いてなんか…。平山さん、これ…。」
神波はその膝の上から広げられた紙を手にして、複雑な表情で平山を見つめる。
「ああ。見ての通り、俺も仕事削られたんだよ。今日早かったのもそのせいだ。」
平山は、あっさりと本当の事を告げた。
「そうだったんですか。なんだか様子がいつもと違うとは思ったんだけど。」
神波も少し気持ちが落ち着いてきたらしく、素直に応える。
「神波に見抜かれるとは、俺もよほど動揺引きずってたんだな。」
「ははっ、そうだね。」
平山が眉を下げて見せると、神波の顔にも、媚びない笑みが戻る。
そして二人はまた同じように、力を抜いて壁にもたれた。二人とも前を向いたまま、神波が一息おいて続ける。
「…いや、動揺しますよ。ショックだもんな。いろいろ、分かってることなんだけど。考えてた、つもりなんだけど。でも、現実になるとキツイ…。」
「確かに、な。いつこうなってもおかしくない位の事なんだけど。それでもな、神波。お前が野猿と仕事と両立させるって必死にやってること、少なくとも職場のみんなは分かってくれてる。仕事切られたって言っちゃあそれまでだけど、俺たちがやってることを分かってくれてて、それに合わせて今回の仕事組んでくれたってことだからさ。」
直接上司から話を聞けなかった神波のショックの大きさを、平山は気使った。
「そう…ですよね。今までずっと見守って応援してくれてて。でも、だからこそ、重みっていうか…、考えちゃって。」
自分と同じ思いを隣に感じながら、平山は黙って神波の言葉を聞いていた。
「とんねるずの二人が抜けるなら潔く解散する、どっちか取れって言われたら本職を取る、それは間違いなく本心なんですよ。それが野猿だと思うから。でも、今日までやってきて、そんな野猿だからこそ経験出来たこととか、ホント、すごい、いい仲間だし、このまま続けられたらなぁって…。」
「このままずっと…か。」
平山は無意識に懐かしい言葉を口にしていた。幸せな、焼肉のある風景が浮かぶ。
「絶対ない、って分かってるんですけどね、それは。いつか『はい、終わりー』って、『思い出作りおしまい』って。もしかしたら今回の事で、そんなんだったらヤメだ、ってなるかもしれないし、むしろ…、そうすべきなのかもしれないし…。でも、それでも、」
「それでも俺は野猿をやりたいのか?」
神波を見つめて、平山は神波の言葉の続きを言った。神波がまっすぐに隣を見上げる。二人が同じ目をしていた。
「平山さん…。」
「おはようございまーす。」
二人の張り詰めた視線をぷっつりと切るように、のんきな声が響いた。入って来たのは大原だった。二人が言葉も出せずにいることには気付かず話し続ける。
「あ、さすがに今日は二人とも早いですね。オレも、また、ロケから外されちゃいましたよ。目立ってるのはオレじゃなくって成井さんだってのに。ま、しょうがないっすけどね。」
大原の言葉に、平山と神波は顔を見合わせる。大原は、ようやくそんな二人に気付いて不思議そうな顔をしたが、
「あ?すいません、ミーティング中ですか?オレ、ちょっとまた事務所戻りますから、気にしないで…」
「え?いや…?」
ミーティング?どこからそんな言葉が出るのか平山が考える間もなく、大原は部屋の隅に荷物を下ろすと、部屋から出て行こうとした。
「大原、『オレも外された』って?」
やっと神波が聞くと、振り向いた大原は二人を交互に見ながら答えた。
「平山さんと神波さんも、今日、言われたんでしょ?それで急に早上がりになって。あ、さっき高久さんに会ったらボヤいてましたよ。『オレ、クレーンやってたら映らねえじゃねーかよ』って。それって、ジェリーさんもですよねぇ。」
大原はカラリと笑っているが、平山にも神波にも、大原の言っていることが分からない。平山は思わず立ち上がって言った。
「ちょっと待て、大原、それ、何の話だ。頭から説明しろよ。」
「あれ?二人とも、聞いてないんですか?」
「だから、何の話?って。」
神波も、大原に向かって立ち上がる。
二人の勢いに一歩後ずさりして、大原はおずおずと話し出した。
「え…と、あの…、『今度の野猿の新曲、歌もダンスもプロモも、全部メンバーの手で作る』って…。」
「はぁ?」
平山と神波は同じ声をあげた。大原の方がそんな二人に少し驚いて続ける。
「仕事、削られませんでした?」
平山は開きっぱなしになりそうだった口を動かした。
「あ、ああ、しばらくこれ一本になったけど。なんでその事…。」
「上から頼んで回ったらしいですよ、新曲出来るまで、って。みんな、削られた仕事の代わりに『おかげでした』のロケが入って。」
「…ああ?…聞いてねーぞ、そんな…。それに新曲のレコーディング、この間、神波と二人で行って来て、終わったはずだし…。」
「えー?そうなんですか?でも、『曲と詞は絶対、平山と神波に作らせる』って貴明さんが言ってたって聞いたんですけど…。あ、カップリング曲が、後藤さんの新録のヤツって言ってたから、それじゃないですか?レコーディングしたの。あ、それでですね、高久さんが、撮影中クレーンやってたら俺がプロモに映らない、って、」
「…マジかよ、それ…。…そういうことかぁ…。」
平山自身の事務所でのやり取りと、神波の話。たった今大原の口から聞いた野猿の新たな動き。そう、多分、全ての裏にあった、これが真実だ。平山の頭の中で、霧が晴れていくように周りが見えてきた。
そんな平山の口ぶりに、逆に大原の方が焦り出した。
「ホントーに、何も聞いてなかったんですか?二人とも?…あっれー?あっ…、もしかして、オレ、言っちゃいけなかったのかなぁ…。練習前に事務所に来いっていうのも…、やっべぇ。あのっ、あの、もし、そうだったらー…、聞かなかったことにしてください!」
頭を下げて言い残すと、大原はリハーサル室を駆け出して行った。
再び静かになったハーサル室に、二人は立ち尽くす。だがそこに緊張感はもう、ない。
平山はすべての状況をほぼ完璧に推察して、安堵の溜め息をついた。額に手をあてて、苦笑いしながら振り返る。
「…なんだ…、やられたな、神波。」
平山にそう言われても、神波はまだ理解し切れていない様子で、目と口を丸く開けて固まったままだった。
「え?…新曲?…え?ホントに?あれ?仕事は…?」
疑問符を辺りに飛ばしながら口をぱくぱくさせる神波を見て、平山は顔を崩して笑った。平山は神波の肩を叩きながら、その顔を覗き込む。
「おい、まだ混乱してるか?ハメられたんだよ、俺たち。これは多分さ、練習って口実でみんなを集めて、いきなり新曲の企画発表して、お前のその顔、撮るつもりだったんだよ。」
「…じゃあ、仕事…。」
「新曲出来上がるまで、時間取ってくれたってだけのこと。後は今まで通り、ハードスケジュールで、…このままずっと…だ。」
平山が見つめる前で、ゆっくり神波の表情は和らいでいき、みるみる涙が溜まって泣き顔に変わった。
「あ…良かったぁ〜…。」
神波は力が抜けてその場に座り込んだ。
「おいおい、泣くなって。」
少し呆れた調子で言いながら平山もしゃがみこんで、神波の頭の上に手を置く。口調に似て、平山の手は温かい。神波は袖で涙を拭いながら、大きな手の下から泣き笑いで平山を見上げる。
「いや、だって、ホントに、もう俺…。」
平山は神波に笑って頷くと、床に落ちているシフト表を見て言った。
「まあなぁ、あそこまで持って回ったやり方で、仕事削られちゃあなぁ。ひょっとして、お前が衣装室での話聞いちまったってのも、罠かもな。ははっ。大原のバカのおかげで助かったな、まーた泣き虫、撮られなくてよ。」
神波の頭を軽く叩いて立ち上がると、平山は意地悪な笑いで見下ろした。神波は頭を押さえながら、まだ少し涙の残る目で平山を見上げ、唇を噛んで笑う。
「へへっ。そうだね。平山さんも、眉毛ハの字にして大口開けてたからねっ。」
涙を拭って負けずに立ち上がると、神波は少し背伸びをして、平山の肩に肘をかけた。生意気そうに歯を見せて笑う神波に、平山は片眉を上げて睨んで見せる。
「おっ前、泣く前はハニワ顔で固まってたくせに。」
平山が神波の頭を後ろから掴むと、二人はそのまま声をあげて笑いながら、もとの場所へ腰を下ろした。
お互い煙草に火をつけると、美味しそうに目を細めて、ゆっくりと吸う。
しばらくの間穏やかな静寂を味わってから、神波がゆっくりと口を開いた。
「…平山さん。」
「ん?」
「俺、単純かもしれないけど、やっぱり、仕事は仕事、野猿は野猿で。どっちも、俺にはすごく大切で。両方、精一杯やりたいです。終わらなきゃいけないその日が来るまでは。」
一言一言、噛み締めるように言って、神波は光をたたえた目で、笑って見せた。
神波のその瞳に、平山は今までの様々なことを思い出しながら、淡々と、しかし力強く応える。
「いつか来る『その日』なんてのは、向こうから近付いて来るもんでも、他の誰かに宣告されるもんでもなくて、俺ら全員で抱えてんだよな。いつもいろんなことがあって、なるようにしかならなくて、でも、俺たち野猿じゃなきゃ出来なかったことだってあった。お前が言った通りだよ。『俺が野猿のメンバーだったから』じゃなくて、『そんな野猿だからこそ』だよな。」
「…そうかぁ。そうですね。」
二人を柔らかな空気が包む。煙草を消して平山は続けた。
「野猿の産みの親の貴明さんと憲武さん。その二人を含めた俺たち野猿。ここまで一緒に作り上げてきたスタッフ。そういう仲間だからだよな。…神波なんか見てると、絶対信じられるじゃねーか、って…。」
「え?」
「真直ぐで、目の前の事にいつも一生懸命で、ただ、今、ここに居ることが楽しくて仕方がない、って感じで。そういうお前見てたらさ、俺は、俺たちだけを信じていればいい、って、そう思えたんだ。俺は…。…神波、お前が居て良かったよ。」
穏やかな、その奥に情熱を帯びた瞳で、平山は神波に笑顔を向けた。
神波も同じだった。明日が見えない時でも、平山の強い眼差しを信じられた。
「平山さん…。俺も、平山さんが居て、ホント良かったです。」
「…なぁに照れながら恥ずかしいこと言ってんだよっ。」
照れに耐え切れず吹き出した平山は、神波の額を掌で叩いた。
「あっ、平山さんが先に言い出したのにっ?」
神波は、そう言われて急に頬が熱くなるのを感じながら反論する。
「神波、新曲の歌詞、お前が書けよ。」
神波の抗議を軽く無視して、平山は急に話を変えた。
「えっ、歌詞?んー、じゃあ、永ちゃんみたいなロックなカッコイイ」
「それはどうかなぁ。タイトルは、浮かんでるんだけど。」
「何?」
「『このままずっと』」
平山と神波は一瞬見つめ合い、同時に笑った。
「わかりました。」
神波はしっかりと頷いてみせる。
平山はもう一度ギターを膝に乗せると、
「じゃ、名曲のウォーミングアップ。レパートリー増やしたから、神波、歌え。」
そう言って弾き始めた。
二人が大好きな歌だった。『風よ』。風は知ってるだろう I'm here.
なぜか眠れぬ夜には 空を窓から見上げ
ずっとここにいたのさ
人は故郷を思いながら 強くもなれる二人で声を揃えて、思いきり歌う。神波の目にはまた、うっすらと涙が溜まっていた。
馬鹿が付くぐらい素直な奴だ。ったく、もらっちゃうだろうが…。そう思いながらコーラス部分をハミングする平山の目尻にも、同じ涙が滲んでいた。声が聞こえているわ You're here.
時がどれだけ過ぎても あなたが帰る場所は
今もここにあるのよ
人は故郷のその手前で 孤独を迷う
そして迎えた、野猿、新曲&プロモーションビデオ初公開の日。
画面の中には緊張気味の野猿メンバーが揃い、石橋と木梨が今回の企画を説明している。
「大原が、本っ当にバカだったということで。」
「テルの話によると、カンはやっぱり泣いたらしいですけどね。」
「プロモも、無事、今夜初公開!まぁ、出来としては、他の素材がどうであれ、俺がいるだけで画面が締まって、華があるっていうことが良く分かるっていう。」
「かーなり、スタッフさんが見切れてるぞおい、って思われると思うんですけど、それ、事故じゃないんですよ。これが完成形なんですよー。」
「それでは、野猿、新曲。『このままずっと』」
充実した静けさの中、プロモーションビデオが始まる。
画面の中には、とびきりの笑顔の十一人。
そして、ゆっくりと。
『野猿』
『このままずっと』『produce and all works by YAEN 』
『special thanks to 野猿に関わるすべての人たち』
END
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