いつになく閑散とした廊下を、平山はリハーサル室へと向かっていた。
エレベーターを降りて5つ目、一番奥の一室。ドアの横のプレートには手書きで「野猿」。始まった時から変わらない。昨日から、仕事の後、またここに通い始めた。
そこまでの距離に響く靴音で、平山は自分の足取りの重さに気付く。軽く苦笑いを浮かべて、いつものドアを開いた。
「やっぱりな…。」
そうつぶやいて、平山はいつも神波と並んで座る、部屋の後ろの壁際に荷物を下ろした。立ったまま煙草に火を付ける。ゆっくり煙を吐きながら壁にもたれると、あらためて誰も居ないリハーサル室の広さを見つめた。
「まいったな…。俺が1番乗りかよ。… 初めてだな… 。まいった…、な…。」
短い溜め息をつくと、止まったままの部屋の空気に押されるように、平山はそのまま力を抜いて腰を下ろした。
と、その空気を吹き飛ばすような勢いでリハーサル室のドアが開き、さらに勢いのいいヤツが顔を出した。2人の目が合う一瞬の間。向こうから第一声が飛ぶ。
「あっれー?平山さん!どうしたんですか?早いじゃないですかぁ。珍しいっすねー。今日は俺が1番だと思ったのになー。」
「神波…。」
前髪の下で小さい目を丸くして、神波は跳ねるように部屋を横切って来る。
「あっ…と、おはよーございます!」
平山が居ることに驚いて挨拶を忘れたのを笑いながら、神波は隅のテーブルの上から灰皿を掴んで、平山の右隣に座った。
「おう、サンキュ。」
2人の間に置かれた灰皿に、煙草を運ぶ。気が付けばもう3分の1ほどが灰になっていた。
煙草を取り出した神波が自分に話しかけるよりも先に、平山はその灰を落としながら、話を振った。
「どうした?神波。なんかいいことでもあったのか?」
「えっ、わかります?」
ライターを探る手を止めると、神波は煙草を銜えたまま、褒められるのを待つ子供の顔を平山に向けた。その仕種と表情のアンバランスさに、思わず平山も表情が緩む。
「ああ。いつもよりさらにわかりやすい。」
この答えに笑って煙草を落としそうになった神波は、平山が自分のライターを差し出そうとしたのに気付かずに、煙草を口から離す。よほど話を聞いてもらいたいらしい。平山は銜え煙草で笑いをこらえながら、ライターをポケットにしまって、神波の話を聞く体勢に入った。
「俺、チーフになったんですよ。」
煙草を指でつまんだまま、神波は話し始めた。
「チーフ?」
「っていっても、平山さんみたいに、みんなのまとめ役ってわけじゃないですけど。俺、初めて後輩がアシスタントに付くことになったんですよ。ホラ、今、先輩の佐倉さんと2人でやってる番組あるでしょ?佐倉さんが今度1人で新番組持つことになったんで、こっちは、俺がチーフで、後輩の中里がアシスタントで、ってことになって。」
「へぇ。お前がメインで任されたわけだ。」
平山に言われて、神波は少し照れて目を細める。
「そうなんですよ!後輩育てながらなんて、正直ちょっとプレッシャーありますけど、やりがいあるし、やっぱり嬉しいっすね。」
「良かったな。」
「はいっ。仕事も順調、野猿も順調で言うことなし!って。やりますよぉ!新曲の練習も今日から本格的に始まるし、頑張りましょうね!平山さんっ。」
平山はその言葉に思わず目を伏せた。
「ああ、そうだな。」
少し素っ気ない言葉になった。動揺?…らしくもない。だが、ごまかすように煙草を灰皿に運ぶ自分に、平山は気付いていた。神波も気付いただろうか。目線を上げると、笑みの消えた神波の目とぶつかった。
「…なんだか、平山さん、いつもより…、あっ、俺、はしゃぎ過ぎでうるさい…」
平山は短く煙草の煙を吐き出すと、いつもの調子に戻った。
「なーに言ってんだ、それはいつものことだろ?」
「え?いや、まぁ、それはそうだけど。でも、平山さん、今日は珍しく早いし、元気ないみたいに見えたし… 。なんかあったんですか?」
神波は人の気持ちに、特に「負」の感情には敏感だった。神波がみんなから可愛がられる理由の一つは、そんな人を自然と和ませてしまう空気を持っているからなのかもしれない。それでも…、神波に余計な心配かけてどうするんだ。一応「兄」なんだぞ。平山は「弟」神波を軽く睨みながら、笑った。
「何にもねーよ。急に予定変更されて、1本、仕込みいらなくなってさ。それで早々とこっちに来たんだけど、早過ぎて誰も来てねーから、眠くてちょっとぼーっとしてただけだよ。お前、深読みすんなって。」
「なんだ。なら、いいんですけど。」
納得させられた神波は「弟」の顔に戻る。神波は、その主が現れるのを待つ機材や荷物が散乱したリハーサル室を見渡しながら、続ける。
「みんながいないと、意外と広いんですよね、ここって。俺、1人で歌ったりしてましたよ、早上がりの時なんか。」
「ここで練習してたのか。矢沢。」
夏の野外ライブで矢沢永吉を熱唱する神波の姿をすぐに思い出す。
「はははー。バレましたね。じゃ、今日は一緒に歌います?」
「え?いや、俺は歌えな … 」
「なぁんで2人で矢沢なんすか。ほらっ。」
神波は笑って平山の後ろを指差しながら立ち上がった。振り向いた平山も、神波の指の先にある自分のギターを見て笑って頷いた。
「ああ 。OK。」
神波はそのギターを取って平山に渡すと、
「久しぶりに、いいでしょ。」
と言って、もう一度隣に座り直す。平山は、残り少ない煙草を灰皿に置こうとした。
「あっ!」
その煙草を見た神波が声を上げた。ずっと手にしたままの、火の付いてない煙草を思い出したのだ。そして、自分のライターがポケットに入っていないことを。
「俺、ライター、事務所のデスクに置き忘れて来たんだ…、タオルも… 。」
「ああ、いつものYAZAWAの… 」
「すいませんっ、ちょっと取って来ます!」
そう言うと、神波はまた飛び跳ねるように駆け出した。
「ああ… 。」
その平山の返事も、もう聞こえてないだろう。神波の後ろ姿はすぐにリハーサル室のドアの向こうに消え、廊下を走っていく足音だけになった。
ゆっくりとドアが閉まり、足音も消える。平山はまた1人、リハーサル室の空気が止まるのを感じた。置きかけた煙草をもう一度吸って、消す。静かにギターを横に置き、壁にもたれると、
「…俺は、1人で歌う気にはなれねェぞ…?」
平山は2本目の煙草に火を付けた。
深く煙を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。真直ぐ上へと流れていく煙草の煙の向こう側を見つめながら、平山は思い返す。それは一時間ほど前の事。平山は、地下のリハーサル室から遥か上、社屋十一階にある事務所に居た。
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