災いのもと
宇野眞和

 若手俳優甲嶋こうじま智司さとしは、高級なクラブで酒を飲んでいた。彼は、ソファの両隣に女性を座らせ、機嫌よくグラスを傾けてた。甲嶋は、しばらくの間大部屋暮らしが続いていたが、昨年出演したドラマでその演技力が認められ、一気にブレイクし、今では若手の中でももっとも有名な役者の一人となっていた。こういうクラブに一人で飲みにこられるようになったのも、つい最近のことだ。
 午後十一時。甲嶋はクラブで愉快な時間をすごしたあと、軽快な足どりで店を出た。外は明るいネオンが輝く繁華街である。道を往来するのは、どこかの店で飲んできた酔っ払いなどがほとんどだ。甲嶋は夜だというのに黒いサングラスをかけ、ポケットに手を突っ込み家路についていた。もう一件くらい回ってもよかったが、明日も仕事がある。早めに帰って寝ようと考えたのだ。
 繁華街を抜け細い路地に入って間もなく、一人の酔っ払いが、携帯電話をポケットに押し込みながら甲嶋に絡んできた。派手なシャツを着た、ヤンキー風の若い男だ。むこうはどうやら甲嶋が有名人と知っているらしい。甲嶋は、最初こそあまり絡まれるのもうっとうしいので相手にしなかったが、男はさらにしつこくつけよってきた。甲嶋はトラブルを避けたいため、あくまで丁寧に、迷惑だ、ということを男に言った。するとその態度が男の逆鱗に触れたのか、男は激怒し、甲嶋の襟首をつかんだ。周りにひと気はなく、甲嶋は助けを呼ぶこともできなかった。男はそのまま、甲嶋を近くの空き地まで連れて行き、あれこれと難癖をつけてきた。甲嶋は必死になって男から逃げようとしたが、男の力は甲嶋よりも格段に強かったので、それはかなわなかった。男は甲嶋をこづいたり軽く蹴ったりしていたが、やがてそれがエスカレートしてきた。男は甲嶋の腹に力一杯パンチを加えた。サングラスを落としその場にうずくまり苦しがる甲嶋を、男は容赦なく蹴り飛ばし、地面にたたきつけた。
 甲嶋は確実に命の危険を感じた。どうにかしてこの場をしのがなければ……。
 そう思った甲嶋の目に、先の欠けた細い鉄パイプが落ちているのが見えた。甲嶋は手を伸ばし、その鉄パイプをつかんだ。男はさらに蹴りかかろうと、倒れている甲嶋にむかってくる。甲嶋は、男の攻撃を阻止しようと、手にした鉄パイプを思い切り男にむかって突き出した。 
 ――殺すつもりはなかった。まさか、先のかけた鉄パイプが男の胸に突き刺さろうとは……。
 甲嶋は倒れた男の顔に自分の顔を近づけてみた。完全に呼吸はとまっていた。
 甲嶋の行動は自分の生命が危険にさらされた上でのことだ。正当防衛の成り立つ環境ではあった。しかし、この「事件」は、彼の俳優生命にかかわることである。いかなる事情であれ、人を殺した人間が俳優を続けていくことは不可能であろう。せっかくここまで上り詰めてきたのに、こんなことで人生を棒に振ることは、彼にとってはあまりにも酷な選択であった。なんとしてでもこのことは隠し通さなければならない。
 周りに誰もいないのを確認すると、甲嶋は鉄パイプを自分の着ていたジャケットで拭き指紋をぬぐい、その場に投げ捨てた。そして物取りの犯行に見せかけるために、男のポケットから財布を探し出し、中に入っていた三万円とキャッシュカードを抜き取った。免許証には佐久間さくま昌巳まさみという名前が記されていた。甲嶋はさきほど落としたサングラスを拾うと、男の死体を振り返ることなく、早足で家路についた。

 翌朝。甲嶋はドラマの収録のため、スタジオの入ったビルに来ていた。控え室で新聞やニュースをチェックしたが、まだ昨夜の事件のことは報道されていなかった。まだマスコミには知られていないのだろうか。財布から抜き取った金やカードは、昨夜のうちにゴミ捨て場に出しておいた。もう回収されているころだろう。
 甲嶋は不思議なくらい平静な気分でいられた。このぶんだと、収録も普段どおりこなせるだろう。昨夜顔を殴られなくてよかった。
 自分とあの男を結びつけるものは何もない。自分に捜査の矛先が向けられることは、まずないだろう。
 甲嶋はそう確信すると、静かに今日収録が行われるシーンの台本を読みはじめた。撮影がはじまるまでには、まだ時間があった。
 しばらく台本を読んでいると、トントン、とドアをノックする音が聞こえた。もう呼びに来たのだろうか?
「はい、どうぞ。開いてますよ」
 甲嶋は気軽に返事をした。
「失礼します」ドアが開いた。しかしそこに立っていたのは、スタッフではなく、見たことのない男だった。「あの、甲嶋智司さんですか?」
 甲嶋はその顔を見ると、いぶかしげに尋ねた。
「ええ、そうですけど……、どちら様でしょうか?」
 男は頭をかきながら、
「ああ、すみません。申し遅れました。私、あおぎりといいまして……」そして上着のポケットから黒い手帳を取り出した。「警察のものです。殺人課の梧警部です」
 警察だって? しかも殺人課とは……。ということはあの男のことか? しかし、どうして俺のところに……?
 甲嶋は、当惑した表情を見せまいと、努めて平生を保った。
「警察の方ですか。しかし、なんのご用でしょうか?」
 男は言いにくそうに、
「ちょっと、お聞きしたいことがありましてね……。今ちょっとよろしいですか?」
 本当ならなるべく避けたいところだが、しかし変に拒否をして疑いをもたれては困る。甲嶋は承知することにした。
「……ええ、いいですよ。どうぞ、お入りください」
 甲嶋に促され、梧は入室し、イスに座った。
「あの、お時間の方は大丈夫なんですか? これから撮影でしょう?」
「ええ、少しなら大丈夫ですよ」
「ではなるべく」梧は手帳をぺらぺらとめくった。「手短にすませますんで、ご協力お願いします」
「はい」甲嶋は呼吸を整えた。「で、どんなことを聞きたいんですか?」
「ええ。唐突ですが、佐久間昌巳という方をご存じですか?」
 やはり昨夜の男のことだ……。
「佐久間?」甲嶋は首をふった。「いいえ、そんな人知りませんけど……」
「まあ、名前は知らなくても無理もありませんな、この事件はニュースや新聞では、まだ規制がしかれてますから」
「その人がどうかしたんですか?」
 梧は顔をしかめた。
「昨夜亡くなられたんです。殺されましてね……」
「殺された……」
 甲嶋は男の死体を思い出した。
「ええ、ひと気のない空き地で。凶器の鉄パイプも落ちてありましたし、所持していた財布から現金やらカードがなくなってたんで、間違いなく殺人だと……」
「でも、どうして僕のところに? さっきも言いましたけど、僕はそんな人……」
「失礼ですが……」梧は甲嶋を見据えたまま聞く。「あなた、昨夜十一時ごろはどこにおられました?」
「……それ、どういう意味ですか? 僕がその男性と何か関係があるとでも……?」
 甲嶋は顔をしかめながら尋ねた。梧は手をふりながら、
「いえ、そうじゃないんです。捜査の方向としてはとりあえずものとりの線に傾いてるんです。言ったでしょう、財布から金目のものが盗られてるって」
「じゃあどうして僕のところに?」
「それが、被害者は携帯電話を持ってましてね、殺される前に最後にかけた相手に話を聞いてみたんです。するとその通話中、佐久間さんは俳優であるあなたを道で見かけたんで、これから話しかけてくる、って言って電話を切ったそうなんです。ですから、あなたがその近くにいらしたのだとしたら、なにか不審な人物かなんかをご覧になったんじゃないかと……」
 携帯電話……。そういえば、あの男は俺に絡んでくるとき、手に携帯電話を持っていたが……。くそっ、なんてことだ!
「おや?」梧は首をかしげた。「さっきあなた男性≠ニおっしゃいました?」
「え?」
「いえ、私ね、最初に被害者の名前を聞いたとき、てっきり女性だと思ったんです。マサミ≠ネんて名前だもんだから……。開けてびっくり玉手箱、ってやつですよ。よく名前だけで男性だとわかりましたね」
 しまった! つい口が滑ってしまった!
「ああ、そんなこと言いました?」甲嶋は動じた素振りを見せないように言った。「僕の友人にも同じ名前のやつがいたもので……。マサミ≠チて男がね。で、その名前を聞くと、つい男って連想してしまうんですよ」
「なるほど、そうですか」梧はにっこりと笑った。「それで、その電話があったのが、昨夜の十一時すぎなんです……。あなたはどちらにいらっしゃいましたか?」
 ここは嘘を言っても仕方がない。変に怪しまれるだけだ。
「僕は……その時間はクラブで飲んでました。」
「どちらのクラブで?」
 甲嶋はクラブの名前を言った。
「ははあ」梧は頭をかいた。「現場の近くですね。で、実際のところ、被害者に思い当たることは?」
「そうですね……。まあ仕事柄、話しかけてくる人はたくさんいますから……いちいち覚えていないもので……」
「ああ、写真見ていただけます? 何か思い出されるかも……」梧は佐久間の死体が写った写真を取り出し、甲嶋に見せた。「あんまり気持ちのいいもんじゃないでしょうが……」
 甲嶋は数秒の間、自分が殺した男の死に顔を眺めた。
「すみません、ちょっと思い出せません」
「顔は思い出せなくても、昨夜の十一時すぎに、誰かに声をかけられたということは?」
「さあ……」甲嶋は額に手をあてた。「何しろ、だいぶ飲んでましたからね……。よく覚えてないんですよ。ひょっとしたら話しかけられたかもしれませんが……」
 甲嶋は、なるべく男と会ったことを隠そうと努力した。なるべく男とのかかわりは否定しておいた方がいい。
「そうですか……じゃあ、何か不審な人物を目撃したりはしませんでしたか?」
「不審な人物ですか……」
 ここで怪しい人物をねつ造して捜査をかく乱してもよかったが、思いつきでしゃべってあとで辻褄が合わなくなっても困ると考え、甲嶋は否定することにした。
「すみません、それもちょっと……」
「ああ、そうですか……」梧は手を額に当て、考え込んだ。「しかし、話は変わりますけど、あれですね、芸能人の方って、よくいろんな人に声をかけられるんでしょう?」
「ええ、まあ、そうですね。顔を覚えていただいているので、ありがたいと思ってますけど」
「それでも、うっとうしいと思うこともあるでしょう? 中にはけったいな輩なんかもいるでしょうし……」
 この男は何を考えているんだ? まさか、俺を疑ってるんじゃないだろうな……。
「……そうですね、まれにそんな人もいますが……。しかし、ほんとごく一部の人ですよ」
 梧は気分が乗ってきたかのように、
「大変ですよね。どんなときでも周りを気にしてなきゃならないでしょう。煙たがると相手に気を悪くされることもあるんじゃないですか?」
「……まあね」
「けんかふっかけられたりしませんか? 最近は物騒ですからね。ただの冷やかしから発展してもめごとになったり……。こういうとき芸能人ってデメリットが大きいですよね」
 何を言ってるんだ、こいつ。
「すみません」甲嶋は申し訳なさそうに言う。「もうすぐ撮影がはじまりますので、そろそろ……」
 梧ははっとしたように、
「ああ、すみません。あともうちょっとだけお願いします」
 甲嶋はため息をついた。
「……なんです?」
「これは私の個人的な意見なんですが、どうも被害者は、どちらかというと――言葉は悪いんですが――あんまりまじめなタイプじゃなさそうでしてね。電話の相手にも聞いたんですが、とにかく気が短いそうなんですよ。ちょっとしたことでかっとなるような……」
「どういう意味です?」
「つまり――あなたは覚えてないとおっしゃいましたが――もし被害者があなたに絡んできて、あなたがそれをうっとうしがったら、どうなっただろう、と思いましてね」
「……まさかあなた、僕が殺したと思ってるんじゃ……?」
「いいえ、そんな」梧は手を振った。「ただの想像ですよ。戯言ざれごとだと思って聞いてください」
「言っときますが」甲嶋は遺憾の表情を見せた。「いい気分ではありませんね。まるで僕がやったように聞こえる」
「気にしないでください。可能性を言ってるだけなんですから。もしあなたが絡まれて、被害者が逆上したら、ひょっとしたらむこうはあなたを攻撃してきたかもしれない」
「あなたは本当に不愉快なことを平気で言う人だな。これは侮辱ですよ」
 甲嶋は声を荒げた。梧はかまわず続ける。
「被害者はあなたに対し暴力をふるってきた。力は彼の方が上で、あなたは助けを求めることもできない」
「いい加減にしてください!」
 甲嶋は怒鳴りつけた。しかし、梧は平気な顔をして、話をやめようとはしなかった。
「あなたは命の危険すら感じたかもしれない。このままではやられてしまう。なんとかして危機を脱しなければならない。それで……」
「それで僕が刺したと、そうおっしゃりたいんですか!?」甲嶋は立ち上がった。「我慢できません、もう帰ってください!」
 梧は目を細めてじっと甲嶋を見た。
「……また口が滑りましたね……」
 甲嶋ははっとした。梧はうっすらと笑った。
「私は凶器は鉄パイプだとしか言っていません。確かに、その鉄パイプはは先が欠けていて、それが胸に刺さったことが死因です。普通鉄パイプが凶器と聞けば、誰でも撲殺を想像します。しかし、どうしてあなたは、刺殺だとわかったんですか?」
 甲嶋は力なくイスに座り込んだ。そして、自分の口の軽さを恨んだ。
「この事件は規制がしかれてますからまだ報道もされてません。ましてや凶器のことなんか誰も知らないはずです。犯人以外はね」
 甲嶋は悔しそうに梧の話を聞いた。梧は静かに言う。
「きっと何か尻尾を出すと思ってました」そして梧は甲嶋の耳元で言った。「まさに口は災いのもと、ですな」


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