「遅い」
ゆっくり、というよりは、とぼとぼと表現したほうがいいかもしれない足取りで
正門前に現れた彩音に、別段怒った風もなく柚木は声をかける。
18時22分。下校時刻はとうに過ぎている。
いつもなら、柚木の姿を認めるや否や、大急ぎで駆けてきて詫びる彼女が、
今日はただ、困ったように首を傾げた。
そういえば、今朝もなにやら考えこんでいたのか、格段に口数が少なかった気がする。
連休明けの朝ということもあって寝ぼけているのだろう。とさして気に留めなかったが、
まさか夕刻までそれが続くわけもなく。
「・・・・・・何かあったのか? この俺を待たせたんだ、相応の理由があるんだろうな?」
さすがの柚木も、心配口調になる。
もちろん、そうと悟らせないよう、憎まれ口を付け足すのも忘れないが。
「先輩・・・私―――」
「まぁいい。話は中で聞くよ。乗って」
車へ向かわせようと、その背を押すために回した手が、かわされる。
「彩音?」
これにはさすがにムッとしたのか、柚木の声に不機嫌さがにじんだ。
「私、もうヴァイオリン持ち歩いてません」
「は?」
「だから、ぶつける心配もありません。送り迎えしてくれなくていいです」
先ほどから、―――いや、今朝からずっと、彩音は柚木と目を合わさない。
彼女の考えなど、わかりやすいほどわかるはずだったのに。今は。
「・・・・・・何、言ってるんだよ」
わからない、ことが柚木の苛立ちをあおる。
「いいから来い」
生徒のほとんどが下校して、人目がないのを幸いに、柚木は半ば強引に彼女を車に押しこめた。
エンジンがかかり、車が走り出しても、彩音は両手で通学カバンを抱いたまま黙っている。
広い車内で1.5人分の空間を挟むこと、数分。
「―――で? いったいどういうつもりなんだ?」
沈黙に耐えかねて口を開いたのは、柚木の方だった。
もっとも、悠然と腕を組み、足を組む姿からは、そんな心の内など読みとれはしない。
あまりの居心地の悪さに、彩音はただただ視線を落とすばかり。
まったくどうして、と柚木は思う。
彼女のことになると俺は、どうしてこんなにも調子が狂うんだ。
「・・・この休みに、天羽ちゃんと一緒に、冬海ちゃんちに泊まったんです」
ぽつり、とつぶやいた彩音の声に、柚木は我にかえった。
「ヴァイオリン・ロマンスについて聞かれました」
どうやら話す気になったらしい。
沈黙で次をうながすと、彼女の言葉はゆっくりとそれに従った。
「私の『愛のあいさつ』で屋上に現れたのは柚木先輩で、
だから、・・・・・・私のお相手は先輩だったのかなぁと思ってました。・・・・・・でも・・・・・・」
何かを言おうとして、口をつぐむ。
おそらく言葉を選んでいるのだろう。
今日は幸い道が混んでいる。
この分なら、まだ話を聞く時間はありそうだが。
「―――でも?」
柚木の方に、待つだけの余裕はないらしい。
極力感情を抑えた声で、うながす。
「先輩にとっての私って、『おもちゃ』なんですよね?」
「―――は?」
いや、確かに以前そう言ったが。
それはいわゆる照れ隠しというもので。っていうか、まさか気づいてないのか?
「二人に、どっちから告白したのか聞かれて、初めて考えたんです。
・・・・・・告白、してもないしされてもないなぁ、って・・・」
柚木は、がっくりとうなだれた。
「聞かせたい曲がある」といって、最後のセレクションで演奏した曲は「セレナード」。
それに応えるかのように奏でられた、「愛のあいさつ」。
互いの想いは通じたと思っていたが・・・・・・どうやら、肝心なところが伝わっていないらしい。
と思うと、なんだか腹が立ってきた。
しかし、彩音の方はそんな柚木の様子に気づかず、うつむいたまま続ける。
「それに先輩、言ってたじゃないですか。『ヴァイオリンと一緒に送ってやる』って。
セレクションが終わってヴァイオリンも持ち歩かないのに、もうそんなことしてもらう必要な・・・」
「バカかお前」
ぷち。と、何かが切れた音がした。ような気がした。
トロいやつだ、とか、ニブいだろうな、と思ってはいたが。
思いのほか強い口調になってしまっただろうか。気づけば彩音は、おびえた目で柚木を見つめていた。
―――そんな顔するから、いじめたくなるんじゃないか。
内心苦笑しながらも、柚木は人の悪い笑みを浮かべて、彩音の両脇に手をつく。
「せ、先ぱ・・・っ!」
必然的に至近距離で見つめあう格好になり、石化する彩音。
これだから、やめられない。
「ま・確かに、ちゃんと言葉にしたことはなかったな。
・・・・・・一度しか言わないから、よく聞けよ」
彩音はもう、耳まで真っ赤になって小さく震えるばかりである。
恥ずかしいのは柚木も同じだが、相手にここまで照れられると、逆に落ち着こうというものだ。
「 」
耳元でささやかれたにも関わらず、やっとのことで聞きとれるほど、小さな小さな声。
ぷ。
吹き出されて、柚木は憮然とした表情で彩音を見た。
「嘘くさー・・・」
「何? 俺の言うことを疑うわけ?」
笑った。
連休で会えなかったのと、今朝からの暗い表情でずっと隠れていた笑顔。
それだけで、心は躍るのに。
「・・・や。信じますよ。先輩は猫っかぶりで気まぐれだけど、嘘つきじゃないから」
いい返事。
「よくできました」
ちゅ。
口唇で軽く彩音の頬に触れる。
「・・・っなっ!!!?」
ごき。
「あだっ! ・・・ったぁ〜〜・・・・・・」
一瞬の間の後、盛大な音を立てて天井に頭をぶつける彩音。
涙目で頭頂をさする彼女が、おかしくてたまらない。そしてたまらなく―――愛しい、と柚木は思う。
「ふふふ・・・さ、着いたぜ。行けよ」
「は、はい。・・・あ、そーですね」
楽しい時間は一瞬で。名残惜しい気はするけれど。
「じゃあな」
「はい、先輩」
明日も、明後日もその先も、ずっとずっと会えるから。
だから、今日は笑って帰りましょう。
「「また明日」」
Fin.