これらはすべて10月にお参りに行ったときのもの。
平成17年9月13日
2007年1月13日
仕事をしながらふと空を見上げた。

空を見るのは何かあるときだなあ…

そう思うていたとき、ふとじいさんのことが思い出されてきた。
目に見えて衰弱してきて、ああもう逝ってしまうのかと、妹に返ってくるように電話をしていたときのことである。
「もう弱ってしもうて…帰って来いや。」
「うん、帰るわ。」
涙があふれ止まらぬ…
思い出しながらじいさんとまた若いときのように釣りに行きたいなあと考えていて、

あ、ひょっとして…

明日かもしれん、1年先かもしれん、5年先10年先…

そんな風に感じた空は冬だというのに温かくゆったりとした青空だった。
2006年10月15日
今年も秩父34観音に行く準備をすべて済ませた。
昨年は父に会いに行ったお参りでした。
今年は父と母を連れて行きます。
お参りなのでついてくるでしょう。

母は今年は行けないものと思っていたようですし、足腰がずいぶんと弱ってきてようお参りせんと言っておりましたが、
私が「今年も祭りが済んだ16,7日頃に秩父に行くか?」と聞きますと、
「行けるやろか歩けるやろか」と言いながら嬉しくてたまらない様子。

これくらいしか親孝行ができないので、元気が出れば私も嬉しい。
2006年4月17日
15日に雨で行けなかったので16日に仕事が済んでから墓参りに出かけた。
花の水を換えて線香をさして来ました。
例によって話をしながらですが。

先月も仕事をしていたのでこれず、今月も雨が降っていたので来なかったなあと話しかけながら般若心経を唱えてきました。
上の写真を見たらまだいるような気がします。
昼に四国八十八ヶ所巡拝のことを考えていました。また行けるといいなあと。
12月15日
父の命日です。
昨年のこの頃は暖かく、父を日中ひなたぼっこもさせたのですが、今年は非常に寒い。
最高気温が6度、7度しかない。
寒いので午後から墓参りに行ってきました。家の仏壇にも手を合わせ、
「1年経ったなあ。短いあっという間でもあったし、長いいろんな事があった1年でもあったで。」
「この1年は2年にも3年にも長く思われてなあ、それでもたくさんの人に支えられて無事1年やってこられたわ。」
長い間ありがとう。
「10月の秩父には一緒にお参りできてよかったなあ。」「ばあさんも元気にお参りできて喜んどったし。」

あのときから見ると今日のばあさんは元気がない。思い出してつらそうだ。

晩に念仏を唱えるので行くと泣いている。
「薫が荷物送ってきてお供えも入れてきたんや。そしたら思い出されて泣かれてしょうがない。」
念仏の間中ぐすぐすやっていました。
「写真見たら泣けてくるので、見んようにして唱えよった。」といいます。
念仏が済んで少し話していると薫から電話がかかった。
仕事があるので「もう帰るわ、お休み。」と言って帰ってきた。

10時頃まで明日の仕事の用意をして、明日発送する荷物の荷造りをしていた。
風呂入って今日のことを書くのに去年の日記を見返しているとあふれて止まらない。
こんな時に限ってかみさんが入ってくる。携帯の充電だそうで黙って出て行った。
10月の写真を1枚載せておこう。 きっと母を見守っていると思う。
秩父に行った最初の札所。34番水潜寺に参拝に参道を歩いているときである。
この写真だけ母の左右に光があるのです。
1年…。
母は生き抜いた。
父を背負って1年を生きた。
今、昨日今日のことを話すように父のことを話す。
この1年気持ちが張りつめたままなのか。分からない。
だって、思い出すことしかできないのだから…。
人はその重みに耐えるのか、つぶされるのか、忘却の彼方へとなるのか、乗り越えられるのか、どうなんだろう。
やっぱり遠いけど秩父に来年も行きたい。
10月21日
長野の善光寺、秩父34観音の巡拝に行ってきました。(というより父に会いに行った、探しに行った5日でした。そして何より夫婦の絆、親子の絆というものになんなんだろうかと気づかされたような気がします。もう少し考えてみたい。)
今日午後8時前に帰ってきました。
全行程1630kmあまり。

17日 長野善光寺へ
福田港(例のあのあたり)発のフェリー(7:50)に乗って姫路港に。山陽姫路東ICから高速に乗り長野ICまで、それから市内もスムーズに走り午後5時頃にホテルに着く。昨年より3時間も早く着いた。それは事故渋滞に巻き込まれず、早く市内に入ったので通勤ラッシュに会わないので例の信号(昨年は市内の3差路で30分以上も動けなかった。)もすっと1度で通り抜けたからである。
同じホテルをとり、見覚えのある景色を見て母と思い出しておりました。

18日 秩父34観音霊場参拝へ
朝6時にホテルを出て善光寺参拝。たまらない思い。
その後関越道を経て秩父へ向かう。10時前に34番札所、水潜寺に…。
今回逆うちをする。
会いたいから。
水潜寺は父の思いのある場所。
父を送ったとき「待っとけよ。今度はワシが必ず会いに行くからな。」そういって送りましたのでどうにも押さえられません。どうしても探します。写真も撮りました。昨年と同じところで同じように撮りました。
「母は一緒におるような気がする。」と言っていました。
それから33番、32番、31番、30番と逆に打って、その日は10ヶ寺を参拝して宿に向かいました。
まだ出会えません。

19日 秩父34観音霊場参拝2日目
24番札所からお参りする。昨年父と母と3人で巡拝した札所では「ああだったこうだった。」と思い出される。
秩父の札所は狭い地域に集まっており早くに巡拝ができる。
午後4時頃に1番まですべてお参りしました。今から宿に入っても何もすることがない。
どこでも父に出会えませんでした。父を思って一緒に巡拝していることがそうなんだろう。心が救われると言うことなんだろうと考えていました。
母に「まだ時間も早いしもう一度水潜寺にお参りに行こうか。」というと、「そうやな、今から宿に入ってもすることがないから行こうか。」と母は何度でも行きたい。夕方、少し暗くなってくる。
このお参りで何か心の落ち着きができたような気がした。来てよかった、そう感じた。

20日 妹の居る神奈川県愛川町へ
巡拝を済ませたので、みんなへのおみやげを買わなくてはいけない。
朝早くにはまだ店も開いていないだろうと言うことで、1番札所を参拝し、「もう一度水潜寺に行かんか。次いつ来られるかわからん。ここは遠すぎる。」
ここだけはどうしても感情を抑えられない。母に「今度はワシが必ず会いに来るから待っとけ言うたんや。」そう言うと、「そんな言うたん。もう帰るから連れて帰らんか。」「父ちゃん帰るで。一緒に帰らんか。帰るで。」そう言って帰ってきました。
「ここは遠いなあ。」「次はいつ来られるかなあ。」「ようお参りするやろか思うたけど元気にお参りできた。」そう言って母は父がさばって引っ張ってくれたと喜んでいました。
1時過ぎに妹の所に着く。しばしお参りの話や法要の話をする。(妹はお参りにも法要にも出て来られなかった。)(写真だけでもと持って行った。)

21日。
6時半出発、厚木ICから高速に乗り山陽姫路東ICまで、そして姫路港へ。
5時25分の小豆島行きに乗り帰ってくる。
船の中で撮ってきた写真を見ていると34番札所、水潜寺で撮った写真の1枚に煙が掛かっている。その前後の写真にはない。よく見ると、お参りしている母の顔を斜め上からのぞき込んでいる細面の顔が写っている。父に違いない。父が会いに来た。ああ、会えた。そう思うと涙が止まらない。
母には港が近くなって(近くのシートで寝ていたので見せていなかった。)車に乗ってから見せると「見守っていてくれるんやなあ。」と言って家に帰るまでずっと泣いていました。
家が近くなって見えてくると「帰ったで。家に着いたで。」そう話しかけます。
夫婦の絆、親子の絆ってなんだろう。
左上からのぞき込んでいる父の顔が見える。
この1枚だけ、この一瞬だけボワッとなった。
昨年と同じように父がそばに立っているように感じたそうです。
境内のあちこちを見、帰りには振り返り振り返り名残惜しくて泣けました。
10月8日
祖母「カ子」の33回忌と父集作の1周忌を行いました。
準備がいろいろあったが何とか滞りなくすませられ、ほっとしています。
7日の晩、最後に座布団を引いて終わってほっとしていすの腰掛け、「あそこにじいさん、こっちにワシ。」と考えてハッとした。
前の写真でわらっとるが…。

いつまで数えるんやろうと考えると涙があふれそうになったが、母がそばにいたので押さえた。
この日の写真を思い出に撮った。
9月13日
大きな写真はこちら
父の墓を建てる。
一つの行事ごとに父が離れていくような、彼岸にいってしまったような、思い知らされてしまう。
9月とはいえ暑い日でした。
母は一日中何度も胸が苦しくなったそうです。
以前3年くらい置いて墓を建てると聞いていましたので1年経たずに墓を建てるのは、母が自分の身体の具合が悪いのを感じて急いだものです。
この頃はよく胸が苦しくなるようです。
畑仕事をして無理をしているようにも思いますし、何かしていないと悲しみに襲われるのもあるのでしょう。
何か心安らぐのはないのでしょうかね。
今注文のうどんを作らなければいけないので動けませんが、少し在庫ができれば1週間ほど休んで秩父34観音札所巡拝に連れて行きます。
二人して待っているでしょうから。
必ず毎年…。
いつか私だけで行くことになるでしょうが。
9月1日
10月8日に父の「むかわれ」をします。
祖母”カ子”の33回忌に合わせて行います。
どこで会食をするのか考えています。
どこが良かろうか。
毎晩父の遺影を見ながら話していますが、この頃は(盆の送り火をしてから)少し話すのが少なくなりました。
でもね、8月25日が父の誕生日だったんだけれども、これまでは必ずケーキを買って持って行ったんだけれども今年は買わなかったし、供えなかったんです。
だからなのか、その後夢を毎晩見るんです。(内容は私の心の中にあって忘却の彼方に持って行きましょう。)今朝、(1週間遅れの)ケーキを買ってきて供えました。
このページを開けるのはやはり辛いです。寂しいです。懐かしいです。
父と過ごした最後の数日ですから…頑張ってお参りに行けて良かった。

母はこれまで畑に行ったり出かけて帰ってくると「父ちゃんただいま、帰ったで」と声を掛けていたそうですが、盆から後声を掛けなくなったそうです。帰ってきてもこれまでのように言葉が出ないそうです。「ああ、もう行ってしもうたんやな」そんな風に感じたそうです。
一つの区切りなんでしょう。
5月19日
晩にお参りに行くと、母が、「今日初めて父ちゃんの夢を見た。」と言います。
なにも言わず、ただじっと座っていただけだが、母は嬉しそうでした。
このページを開けて書きに来るたびに写真を見るので切なくて涙が止まらない。
今日も仕事の報告はしました。
蒲生の箱屋さんが売り先を紹介してくれまして、うまくすると2軒(少しずつですが、)増えそうです。
実は喜んでばかりは居られません。
一生懸命に作らないと素麺が足らない状況になっています。
人の好意で少しずつ売り先が増えて、冬に休んでいたのもあって在庫が少ないのです。
きっと父が見守っていてくれているのでしょう。そう思うと感謝と共に心穏やかになります。
5月15日
仕事が済んでから墓参りにいった。
今日は月命日。丸5ヶ月になる。
今日は夕方に一人で墓参りである。
まさか自分でもこうなるとは思いもよらなかった。
墓手前の角を曲がる頃からぶつぶつとしゃべり出したのである。同時に涙があふれて止まらない。
「なんでこんな所に来たんや。」
「もっと生きとったらエエやないか。」
「一人だけでこんな所に入ってしもうて。」
「なんで居らんのや。」
仕事のこととか家のこと母のこと近所の出来事とかを話しかける。
先祖や死んだじいちゃんばあちゃんに話しかけるということはなかった。
なんで父が死んで墓に来てこうも話しかけるのか判らんが、何か話しかけ報告をする。
晩に佛さんに参るときにも「今日はこうやったで。」などと話しかける毎日です。
待っとるような気もする。

晩に母の所に行く。一人で寂しかろうというのもあるし父のお参りでもある。
で、いつも思う。
一人でいて私が来るのを待っている母がいる。父は居ない。なんでや。出てきて座っとってもエエのに…。
いつもこれの繰り返し…。
写真は笑うとるだけ。
なぜか今日は写真を見て泣けました。
3月24日
23日が百ヶ日になります。
今日朝、卒塔婆を墓に立てに行ってきました。
母が気が弱くなって三年まで生きられんかもしれないから墓を早く建てようかと言います。
毎日のように母の家に行っているのですが、帰った後の夜が寂しいのでしょう。帰った後の寒い夜はなお寂しいのでしょう。話し相手もいないことですし…。
私でさえこうして書き記し、写真を見るだけで「ああもういないんだ。」と辛いんですから。
なんていってあげたらいいのやら判りません。
妹がそばにいたらもっと話し相手になってやれるのだろうに。
夏が過ぎて素麺を売って済んだらお参りに連れてはいけるが…。
父がいない生活に慣れるのはいつになることか。
3月15日
月命日
昼から歩いて墓にいった。
というのも母に免許証を昨夜から預けていたために車に乗れないからである。(農協、銀行の通帳の名義変更のためにいったのである。)
墓の入り口、南郷庵のところで坂道を降りてきた人の顔を見てびっくりした。死んだじいちゃんであった。いや壮年期にはこういう黒髪(私の記憶では白髪頭のじいちゃんの記憶しかない)であったろうと思われる体格もそっくりの人でした。
さすがに声を掛けられなかったのですが、ほんとにそっくりで振り返って最後まで見ました。後になって声を掛けておけばよかったなあと思ったのですが、父の月命日にじいちゃんに会うなんてどういう事なんだろうか。
その後仕事をしていたのですっかり忘れておったのです。母の所に毎晩行ってお参りもするのですが父に話すこともなく忘れており、風呂から出て思いだして「ああそうだ書き留めておこう。」と1ヶ月ぶりに開きました。
此処まで書いて、今まで載せていなかった写真も載せ、今まで書き留めてきたものを少し読み返すと涙があふれます。横で写真はわらっとりますが…。
2月15日
なぜかしら最近父の写真を見ていると泣けるのである。
なんで居らんの?確かに死んだなあ。病院で目の前で…。
確かに…。
ほやけどわろうとる写真を見ていると居ないのがおかしい気になる。
今日は月命日。
母と朝墓参りに参りました。
父は私の中に住んでいる。
悔やむことはない。
若いときからいつも付いてきていろんな事をした。
将棋、囲碁、釣り、何をしても私と居るのがよかったのでしょう。
遊びに出かけるということもなかったですし、私と何かするのが楽しかったのでしょう。
母はこの頃うどんを袋に詰めるのを手伝いに来てくれています。畑仕事も一生懸命しているようです。
何かして動いていないと辛いのでしょう。父は写真の中で笑っているだけですが…。
母はこの頃自分の死のことを話します。「此処にこんなものが置いてある。」
もう父の居ない人生は寂しくいつ逝ってもいいように準備をしているようです。
私は「うん。うん。」と聞いているだけです。それしか言えません。
1月2日
そして今日2日は何も見ていないのである。
父が死んでしばらくは夢を見ていないが、此処3日ほど続けてみたのはなんだったんだろう。
私だけに見せたのは何でだろう。
母は寂しがっているのに…。
自分の夢に出てこないのを寂しがっているのに…。
この日記はいつまでも続けるものではない。
父には私達が元気に生きていく姿を見せること、時折、折に触れ思い出して語り合うこと、母を大事にしてやることで私達の中で生きていくことでしょうから。
そして何かあったときに書き記し、振り返ることができるようにと…。
いつか忘却の彼方に消えてしまわないように…。
そう、それでも判るように…。
子供に返って…
とうちゃん…
またいつか母も送らなくてはならない…そんなときが来る。
2005年1月1日
「新年明けましておめでとうございます。」とは言えない。他の日記でも書けなかった。
めでたくはないが「ニューイヤー駅伝」「箱根駅伝」は楽しみである。
父もそうであった。
今日もまた夢を見た。
実は夢を見た覚えはあるのだがどんな夢を見たのか覚えていない。
父の思い出で私が何も知らず理解出来ないことであったのかもしれない。
12月31日
今日は法事をしている夢を見た。(法事であろうと感じた。)
父の法事をしているのか父が昔の法事をしているのを見せているのか判らない。
さっぱり人が判らないのである。
ただじっと見ているだけである。
このことも母には話した。
「父ちゃんが基頼むぞようんや。」と言います。
父の写真は笑っています。
私は泣けます。
人はずっとこれを繰り返してきたことを思い知らされた。
12月30日
夢を見ていた。
長い間見ていたように思う。
たくさんの人がいて動き回っている。
結婚式をやっている。
自分の結婚式をやっているように感じていた。
終いになって何かおかしい。知らない人ばかりだ。誰も判らない。
此処は?あれっ!これ〜私の結婚式じゃないなあ?
これ〜家やなあ(昔の)。
誰の結婚式やったんやろう?
これを母に話すと…、
「向こうの家やったんなら母ちゃんやこいの結婚式やで。」
「父ちゃんが昔を思い出して見せたんやわ。」
そうかもしれん。
「ずうっと思うとってやるからな。ワシのなかで生きいや。」そういって父を送ったので、父は私の中で生きているんや。
母は全然夢を見ないそうです。私だけが感じたり夢を見たりしているようです。
12月29日
毎日朝夕墓参りに行き、夜は念仏を唱えています。
父が死んで2週間になります。
こうしていても死んだような気にはなりません。
どうしても此処にいないのが納得出来ない。受け入れられない。
もう随分落ち着いたけれども笑った父の顔を見ているとこらえきれないものがある。
母はもっとだろう。
昨日から父のセーターやズボンをはいている。(温かいといって…。)
明日は燃えるものを出す日なので、父のいらなくなった服などを出そうと言って片づけをしているが、また思い出すんだろうな。

昨日までであちこちの届けは全部すみました。
妻もすっかり疲れたようです。ですが、妻の叔母(父親の姉)が亡くなって今日の葬儀に大阪に行っています。父が死んだ翌日に私の従姉妹の嫁いだ先の親が亡くなったり年末に不幸が続きます。

たくさんの人の温かい言葉に心癒されています。感謝いたします。
母にとって父の居ない正月は寂しかろうと思いますが、今日スーパーで餅を買ってきました。
餅を買ってくるなんて初めてだろうと思いますが、一人では餅を搗くほども要らず、かといって妹も帰っては来ないので致し方ないことです。
生活の1つ1つがこれでもかこれでもかと思い知らされる日々です。
居ない生活に慣れるのはいつになるんでしょうか。
きっと写真のように笑ってみていてくれるでしょう。
頑張りましょう。
12月24日
母と話していて、来年夏に「四国」にお参りに行こうかといいますと、「行くんやったらのこっとる秩父に行きたい。」と言います。
10月に少ししかお参り出来なかったのと「水洗寺」に行けば父が居るという思いがあるのでしょう。
「そうか。秩父か。そうするかあ。」
お互い父に会いたい。
それ以上は言えない。
仏壇に飾ってある写真は10月に秩父に行った帰りのフェリーの中で撮った写真。
笑っている。
母の気が済むように秩父でも四国でも、何度でも連れて行ってやろう。
それにしても親を見送るのがこんなに辛いこととは…。
もっともこんな泣き虫はそうはおらんだろうが…。
父の病気を知らされ、どうしようもなくその死を受け入れなくてはならなかったときの日々の慟哭。
夜更けて、死に際して、その後の一日一日が堪らない。
私は心が弱い。人のように強くなれない。日々めそめそしている。
だからといってあちらに行きたい訳ではない。こっちで年をとってもずっとみんな一緒に暮らしたい。
叶わぬ夢です。
どこにいても良い。どこかで元気にしていればそれで良い。時々元気な声が聞ければそれで良い。
それがもう聞かれない…。

23日に三七日をしました。
念仏を申していて母は声をつまらせました。
無理もないのです。その文句は人がいてもこらえきれないのです。
母はこれからの日々を耐えられるんだろうか。こらえきれず父の後を追うように弱ってしまわないんだろうか。父の代わりはできないけれど少しでも支えてやらなくては。
できるだけ一人にしないようにして寂しい思いをしないように心がけてやろうと思う。
12月23日
12月15日午後10時37分逝ってしまいました。

10時25分過ぎ頃には殆ど呼吸は停止しましたし、30分過ぎには心臓も停止しました。
医療技師(このごろではあんなのでも医者というらしい)が確認したのが10時37分でした。

安らかに息を引き取りました。
直前では熱が出て少し苦しみましたが最後は穏やかに逝きました。
「もう迎えにきとんじゃ。もう行かないかん。」「よう世話になったな。」と母に礼を言って逝ってしまいました。
最後には母の手を取ってじっと顔を見て見つめ合っておりました。意識がなくなるまでそうしておりましたがその跡目を見開いて何かを見つめているようでしたがその瞳には私の顔が写っているようではありませんでした。
最後まで手を取って看取ってやるだけでした。
そして心の中で「おじいちゃんおばあちゃんありがとう。苦しませずに連れて行ってくれてありがとう。」そう思いました。
病室の片付けをし、父を私の車に乗せ、帰りたかった家に向かい走りました。
「今オリーブ公園の所まで帰ったぞ。」
「ここは赤坂の所やぞ。」
「丸山峠のてっぺんまで帰ったぞ。」
「池田の電照菊が見えるやろ。」
「はまんじょまで帰ってきたぞ。今信号の交差点やぞ。」
「クジャク園の所やぞ。」
「双子浦の坂をのぼっとるぞ。」
「あこやの町筋をとおっとるぞ。」
「本町を通ってな、商店街を通ってかえりょるぞ。」
「ほら着いたぞ。そうめんつくじょる昔の家や。判るやろ。起きいや。」
「帰りたかった家に着いたぞ。ほんまに返りたかった家に帰ったぞ。」

よく16日はそっと家に寝かせ、17日にお通夜。18日に葬式。
17日に館に寝かせるまで涙が止まりませんでした。
その後は父に恥をかかせる訳にはいかない。泣いて挨拶もできないようでは笑われる。葬式が終わるまではと、挨拶をと思っておりましたので(妹は絶対泣いて挨拶にならんと思うわと断言しておりました。私もそう思っておりましたが。)なんとか笑われることなく、手落ちもありましたが滞りなく済ませられることができました。
今も時に感情のほとばしりがありますが、できるだけ母のことを考えて笑うようにしています。

父の死は病気が判ってから1ヶ月か1ヶ月半で受け入れることができるようになったと思ったのですが、今もって父は生きているように感じています。
そこにいる。そこに横になっている。そんな気がして見てしまいます。
目の前の写真が笑っている。その顔のままここに座っていてもおかしくない。いるんじゃないの。いないのがおかしい。そんな気がする毎日です。
これを書いているのは忘れないため。思い出してやるため。心の中に刻み込むため。
只、今、読み返そうとすると心が切り刻まれるような堪らない気持ちになる。

俺の心の中で生きろ。
ずっと思っていてやるからな。忘れんからな。

今日妹が神奈川に帰りました。
ついに母一人が取り残されることになりました。
最初の一人だけの夜です。結婚してからずっと何をするにもどこに行くのも一緒でしたので寂しさは耐えられないものとなるでしょう。支えてやれるだろうか。何をしてやれるだろうか。
私達夫婦は工場の方で居ますので母とは100m程離れた家に住んでいます。

父が死んだ。
それを受け入れない心がある。どうしたって…。


18日に初七日。
20日に二七日。
今日23日に三七日。
儀式は次々と執り行われる。
世帯主が変わった。役場、銀行、JA、商工会、電気、諸々の手続きがあった。
でも何か上の空のよう。

そうそう、葬式の晩寝ていると布団の中に手が入ってきて触る。びくっとして身体を動かすと出ていって、布団の上からじわっと重くなって下から上へとざわざわと動くのである。まるで左半身をなでているように。
父かな?
身体は動かないのだが目を開けてみると何も見えない。よくよく見ると天井に父の笑っているような顔が見えた。
会いに来たんだ。
母に話すと「頼むぞ」と言いに来たんやといいます。
ですが父は決して私に頼むぞと言うような人ではありませんでした。
じっと見守って居ている温かい心の人でした。
ですから、ここにおるぞ、見守ってやるぞと顔を見せたのでしょう。
その後まだ誰の所にも顔を見せていません。それだけで充分だったのでしょう。
母の所に顔を出せば、きっと連れて行ってくれと泣くでしょうから。
12月15日
数日前から食事をしなくなった。12日夜ににヨーグルトと牛乳を飲んでから口にしていない。温かいものは駄目で冷たくなったおかいさんと氷しか口にしなかったが。唯一ヨーグルトと牛乳が支えだったがそれも口にしなくなった。
おとついから点滴(生理食塩水)を再開する。
自分で痰を出せなくなった。今は日に2,3度吸引している。
吸引すると呼吸が楽になって手足をあまり動かさずに寝てくれる。
熱は36°8分から37°4分くらいが出たり引いたりしている。膿はたくさん出ている。
それにしても殆ど寝ていられないのです。今は点滴を足の付け根にしているので以前みたいに手にあたって抜くということはないと思われるが時々は手を持って行く。今は手よりも足が問題で足を動かして点滴の管に絡ませることがあるので油断ならないし、胸の空気や膿を抜き取る管はちょうど手のひらに当たるところにあるのでこれまたちょいちょいつかんでくれるのである。
「最後の骨」といって引き抜こうとされたことがあるので目を離せない。
昨夜からタオル地のハンカチに氷をくるみ口にくわえさせることで口の渇きを潤している。そうすることで体力もついて、痰も取れやすくなったようです。
今日は目を開け話をしようとしておりました。もっとも声にはなりませんでしたが…。
聞き取れないほどのか細いかすれた声で判りませんでした。
「がんばれ」というのですが、もう最後を迎えた父にどうがんばれというのか。
「無呼吸症候群」というのがありますが、大きく呼吸をしていて次第に小さくなり10秒くらい止まります。
ずっとこの連続です。
もう長くはない。
できるならば寝たまま苦しまずに逝ってほしい。
父の苦しむ姿は見ていられない。それでも今は全然苦しそうな、痛がっているようなことはない。
今は親兄弟の前では涙を見せないようにしている。
12月5日
昨夜から痰が切れず呼吸が苦しい。
一度とったがとりきれず出しても出しても切れない。ゼーゼーヒーヒーといってウトウトしても呼吸が苦しく直ぐ目が覚めてしまう。上を向いて寝られず横になっている。
「もうみんないきょる」
「これだけのことをしたんやからもう満足している。もう逝ってもええんや。」
そういうことを申します。もちろん朦朧としてボケかけた頭で申します。
大したことやってないやないか。平々凡々と84年生きてきただけやないかと思いましたが、世界の偉い人と次々と殆どの人と会っているそうです。(今そういうんです。)支離滅裂な言葉で世界がどうのこうのと訳が分からないことを言うんです。きっと自分は地位の高い人物になっているんでしょう。
午前3時過ぎになって胸に雑音がしたので看護婦を呼ぶと2度目の痰の吸引。
非常に苦しがっている。(母は昨夜に吸引をやって弱ってしまったので反対していましたが看護婦は委細かまわず行いました。)
ほんの少ししか取れませんでしたが、とたんに呼吸が楽になり雑音もせず、喉のゼーゼーヒーヒーもなくなりました。軽く深く呼吸をして何ともないようです。
「大丈夫か。苦しゅうないか」と聞きますと、
「もう預けたから苦しゅうない。」と申します。
どうなったかそれ以来何ともないようです。
そして静かに寝てくれました。
私も5時半頃から11時頃まで眠ることができました。
今日1日は何ともなく過ごしました。母がトイレに行っているときに1度点滴をはずしてベッド横に立ったこと以外は…。
晩6時頃まで病院にいて今日は帰ってきました。
呂律が回らないのによく話します。ぼけた話を…。
そうかそうかと聞いてやるだけです。
母はもう逝ってしまうんかと思うたと言います。ですがもっと辛い思いをすることになるでしょう。
母は今日心臓の薬を飲んでいましたので、父の症状がもっとひどくなってくると看病に耐えられなくなるでしょう。変わってやらないと2人とも逝ってしまうことになりかねない。
11月30日〜12月3日
熱は日に日に下がりますが身体は日に日に痩せていっています。
3日になって36°2分まで下がり一見元気を取り戻したようですが、入院する前と比べれば相当に弱っています。手足はぶよっとして皮はしわしわになって痩せています。
ボケは日に日に進みこちらが言うことも分からないことが多く、何を言っているのかも判別出来ない。よくいろんなことを話しますが、母にとっては言うことを聞かず点滴の針を抜いたり起きあがろうとしたりと自分が動けないことが全く判らず、油断出来ないことがストレスとなっている。
おちおち夜も寝ていられないのである。
体力的にも精神的にも参ってきている。
今日(3日)婦長に相談をした。
「肺から管を付けて水を抜いてもあまり取れてないし、昨日には注射器で水を抜いたと聞きましたので、今後はそのようにできませんか。食事もよく食べていますのでブドウ糖の点滴も少し減らしてもらって自由にできればついている母が楽になります。このままではストレスで母の方が参ってしまう。」と相談というのか話をしました。
夕方堂本先生が回診に来て、「はずしましょう。点滴も1日1回にして自由にしましょう。その代わり水分をたくさんとってくださいよ。」からだが自由になりました。6時過ぎには点滴の針も抜けてても自由になりました。自由になってベッドに腰掛けさせたり立たせたりしましたがもう自由に動けません。
「これまでションベンに行くといって困らせましたがこれからは行くといってももう動けないでしょう。」
回診の後先生から話を伺いました。「最初より多く水がたまっています。ガンの空洞に膿がたまりそれが外に出てきているようです。それで炎症が起きて水がたまっています。さらにガン細胞が出ていますから骨に転移しなければ良いんですが…。」
それは骨に転移すると非常に痛みが出るそうです。肺や副腎にあるだけだと痛みはないそうです。もっとも最後には呼吸ができずもがきますが。心臓が弱っていれば早く楽になれますが…。
今たまっている水が咳き込んだときにもう片肺に流れ込んだりして呼吸ができなくなる恐れもあります。
「それと最後に延命治療をしますかそれとも…」いや延命治療はいいです。治る病気ではないので苦しめたくはないですから。
ボケが進み何も判らない方が父も死を恐れなくてすむ。春桜が咲く頃まで持つかどうからしい。
後4ヶ月。長くて…。

親が死ぬ。
そんなことなど思いもよらなかった。
信じられないことだった。
容易に受け入れがたい出来事であった。
2ヶ月経った。
ずいぶんと弱った。あっという間である。
最初は涙があふれ止まらなかった。不意に慟哭することもあった。
今は毎日少しずつそれを受け入れている。
それでも容易に受け入れられない辛いことである。毎日父の姿を見て歯をかみしめている。
これからもっと苦しくなるだろう。
11月24日〜29日
昼過ぎ、母から電話。
父ががたがた震え胸が痛いという。
残りの仕事を妻に任せ父の所に走ると尋常でないことが判った。
直ぐに救急車を呼び内海病院に入院。
「気管支肺炎、気胸」という診断を書いた紙を晩にもらった。
翌日のレントゲンには陰は消え肺炎の心配はなくなりホッとした。というのも前回退院するときに医者から風邪には注意してください。風邪を引いたら危ないですよと言われていたから。
ですが「肺気胸」がくせ者でした。
ガンの所為で膿が胸膜にたまっていてその炎症を抑えるため胸に穴を開け膿を吸い出すと共に肺をふくらませなくてはなりません。熱が出て一日一日弱っていきます。
もうこのまま逝ってしまうんじゃないかと思いました。
ぼけ症状も現れ、言葉も聞き取りにくく、時として思いつくままいろんな事を話す。
10月末
帰ってきて、次第に足が不自由になり小便の失敗が増える。
次第に弱っていくのが辛い。
「今度はえらい目に遭うた。」父はそう言います。
そのうち直ると、辛抱しておればよくなると思っているんだろうか。答えようがない。
「歩けよ。お陽さんと風に当たれよ。寝とるだけやとようならんで。」
しかしその後一度も外に出ることはなかった。
10月23日、24日、25日
朝善光寺に参拝し、貫首に数珠で頭をさすってもらい、「父のガンが治りますように、苦しみませんように」と願い、思わず涙があふれそうになりましたが、そんな顔見せる訳にはいきませんのでグッと歯をかみしめて抑えました。回廊を回り、数珠に触ったところで願い、悪いところをさすれば直るという「大師様」の胸や鎖骨付近、腰のあたりをさすり「なんとか助けてやって」と願いました。

その後「秩父34観音」に向けまた高速を160qほど走り、父が来たかった「水洗寺」に参拝しました。
以前来たときに死んだ祖父にあったという寺です。
思い出しておりました。
私はどうにも我慢出来ず隠れて涙を拭きました。
2人とも杖をついてそれでもなんとか歩いて参拝し、それほど広くもない境内をあちこち見て祖父を捜しているようでした。「そこに立って手を合わせて見送ってくれたんや。」と申します。そこは参道を上がったところ。本堂は改築中で仮の本堂の直ぐそば。
そしてその日に後いくつか参拝して薫の所まで車を飛ばしました。
ついたのが8時半。
私も疲れました。それ以上に父母は疲れたと思います。病気に冒された身体に触るだろうとは思いましたが、この後では機会がないだろうと思いましたので連れて行きました。
お参りもできました。2度と来られんだろうと思っていたという薫の家にも行きました。そしてゆっくり1日を薫の家で過ごし、思い出を作り帰ってきました。
家に帰るまでいっぱい写真も撮りました。
写真を見ると涙が止まりません。
「来年春になって温かくなったら残りのお参りに連れてきてやるからな。」父にはどう聞こえただろうか。
10月22日
父母を連れ長野県「善光寺」へお参りに行く。
善光寺は母の希望で掛け軸の箱書きをしてもらうためである。
朝7:50分の福田発のフェリーで飾磨まで乗り、姫路から高速で長野まで走った。
長野(ホテル)に着いたのが8時頃だったと思うが随分時間が掛かったので疲れたことと思う。
9月末
検査入院
末期の肺ガンであることを告知される。
辛かった。