SNOW GENE /red site/


 誰かに呼ばれたように、神波は、ぱちりと目を覚ました。もぐり込んでいた布団から顔だけ出すと、冷えた空気を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。まだ暗い部屋の中に、その息が白く消える。
「6時ぃ?」
枕元の時計を見た神波は、驚いて小さく叫んだ。今日は仕事は休みなのに、こんなに早く目が覚めてしまうなんて。けれど、眠気は全くない。せっかくだ、起きよう。
 神波は勢い良く布団を捲って起き上がると、思いきり伸びをしながらバスルームへ向かう。寝癖で爆発した頭の上から熱いシャワーを浴び、身支度を整えて、部屋を出た。
 「寒ぃーっ。」
 髪をなびかせた風に思わず声を出しながらも、神波は自転車の埃を払うと、その小さな愛車に跨がり、近所のコンビニへ向かった。
 店に入って買うものは、いつものミネラルウォーターと煙草。
「っと、肉まん、2つ、ください。」
神波はふいに、レジでそう付け加えた。
 小さな袋を自転車のハンドルに引っ掛けると、神波は、今来た道と反対の方向に走り始めた。温かいのを、どこか外で食べたいな。なんとなくそう思いながら、あてもなく自転車を漕ぐ。背中を丸め、険しい顔で足早に駅へと向かう人の中で、神波だけがまっすぐに風を切っていた。重そうな雲が空を覆い、頬にあたる空気は氷柱のようで、耳が少し痛い。けれど、今朝の神波にはそれが気持ち良かった。いつからか、徒歩数分の部屋から駅への往復だけになっていた。神波が久しぶりに踏んだ自転車のペダルは軽い。右へ左へ道を曲がりながら走っていく。
 「いけね、あんまり走ってると冷えちゃうな。」
カサカサと揺れるコンビニの袋に目をやって、神波はスピードを落とした。辺りを見回すと、路地を少し入ったところに緑が見える。公園かな?だったらそこで食べよう。
 路地へと曲がり入って行くと、神波が思った通り、そこは小さな公園だった。天気の悪い朝だというのに人影が見える。神波は、一人ベンチに座って煙草を燻らせている男を見て、自分の目を疑った。けれどその後ろ姿を、神波が間違えるはずはない。神波は改めて辺りを見回し、自分がいる場所を確認した。いつの間にかこんなところまで来ていたのか…。
 神波はその男に気付かれないよう、静かに自転車を止め、背後からそっと近付いて行く。そしていきなりベンチを飛び越えると、男の隣に座った。
「おはようございます、平山さん!朝御飯、持って来ましたよっ。」
神波がコンビニの袋を手に見上げると、平山はあっけにとられた顔で神波を見たまま固まっている。平山が驚くのも当たり前だ。神波は笑いを堪えて、袋から肉まんを平山に差し出した。
「肉まん、食べませんか?まだあったかいですよ。はいっ。」
「神波…、なんでお前、ここに…」
思わず肉まんを受け取りながら、平山がやっと口を開いた。珍しく平山が動揺している。大成功だ。神波は吹き出して笑うと、公園の入り口に止めた自転車を指差しながら、興奮気味に話した。
「いや、たまたま早く目が覚めちゃって。自転車でコンビニ行ったから、外で食べたいなーと思って、そのまま走ってたら、ここ見つけて…。俺もびっくりしましたよぉ、平山さんがいるんだもん。ホント、偶然、なんとなくなんですよ。肉まん2つ買ったのも、ここまで来たのも。…なんか、平山さんが俺のこと呼んだみたいだね。」
「呼んでねーよ。」
ようやくいつもの調子に戻った平山は、苦笑いをして見せ、煙草を吸う。神波はまた笑い出しそうになりながらも、今度は自分の驚きを思い出して続けた。
「平山さんこそ、どうしたんですか?こんな朝早く公園にいるなんて。確かに平山さんち、この近くですけど。平山さん、休みの日はいつも昼まで寝てるのに。」
「目が覚めちまったんだよ、俺も。」
神波の言葉に少し考えるような目をしていたが、平山は煙草を消しながらそうとだけ答え、傍らから飲みかけの缶コーヒーを神波に差し出した。
「手、真っ赤だぞ。」
そう言われて初めて、神波は自転車で走って来た自分の手が、かじかんで赤くなっているのに気付いた。平山から缶コーヒーを両手で受け取る。
「あったかーぃ。」
手のひらから体の中に染み込む温もりに神波が顔をほころばすと、平山も渡された肉まんに眉を下げて応えた。
「これ、食うぞ?サンキュな。」
ふわりと湯気を上げながら、平山は美味しそうに目を細めて肉まんを食べる。その横顔を満足げに見上げ、神波はしばらく手を暖める。
 「今日、天気悪いし寒いし、公園に来る人なんかいないね。」
神波は、よく仕事の待ち時間などにふらりと外に出て、煙草片手にぼーっとしている平山を思い出した。ここはそんな平山のお気に入りの場所なのだろう。手の中のコーヒーを飲みながら、神波は何もない小さな公園を見渡した。
「ここは穴場。いつもあんまり人が来ないんだよ。子供も遊ばないし、犬の散歩にじいさんが通るくらいで。そう言う俺も、たまに来るだけなんだけどな。」
「ふーん。」
「おい、全部飲むなよ。」
再びコーヒーに口をつけたところでそう言われてしまって、神波はその一口を飲み込む。
「ん、返します。ありがとう。」
神波はコーヒーを平山に渡すと、自分の肉まんを取り出して大きくかぶりついた。
「ん〜。」
まだ温かいその中身と、隣で同じものを食べている平山がいることに、神波は幸せな休日を感じていた。今、ここにいる、今日の二人の不思議な幸運…。
 食べ終えた神波は、ミネラルウォーターを飲むと軽く一息ついて、言った。
「…こんな偶然、あるんですね。」
「ホントだな…。」
先に食べ終わってから同じことを考えていたのか、平山はすんなりとそう答える。
 平山はコーヒーを飲み干して振り向き、後ろにあるゴミ箱に空き缶を投げ入れた。それにつられて振り向きかけた神波は、平山と自分の間にゆっくりと落ちてきたものに気付いた。
「あっ。」
声をあげたのは平山も一緒だった。次の一瞬二人の目が合い、同時に空を見上げた。
「雪だぁ…。」
そう呟いて神波は口を開けたまま立ち上がる。神波はしばらく、風の止んだ空から、鉛色した雲からまっすぐ自分へと振りかかる雪を見上げていた。故郷では当たり前のように降り積もる雪。だが、東京で降る雪は、神波を特別な気持ちにさせた。特に…。
「初雪、だな。」
神波はハッとして振り返る。そう言った平山も、立ち上がり、愛おしそうに空に手を伸ばしていた。宙を舞い、その大きな手に触れては消えていく白い結晶を、平山は柔らかな瞳で見つめている。やっぱり俺たちって、なんだか…。神波は小さく、はにかんだように笑うと、平山を真似て、両手を雪に差し出した。
「この冬も、スノボ、行きましょうね、平山さん。」
「よし、じゃあ今度は上級者コースで50本。」
「え〜っ、かんべんしてくださいよぉ。」
二人は笑い合いながら、静かに降り続く雪の中に立っていた。

                                       end.

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