SNOW GENE /blue site/


 ふいに意識が冴えて、平山は目を開けた。まだ部屋は暗い。寝返りをうってもう一度目を閉じたが、睡魔は一向に現れない。そんなに熟睡したのか?休みの日はいつも目が覚めるまで寝ている平山は、セットされていない目覚まし時計に手を伸ばす。
「6時って…。」
夜の、じゃねえよなぁ…。平山はゆっくりと身を起こした。冬の日の出前の冷えきった空気に、小さく体を震わせる。何の予定もないのに早く目が覚めることも、こんなにスッキリした気持ちの寝起きも、平山にとってはかなり珍しいことだった。たまには「休日の朝」を味わうか。そう決めて布団から出ると、平山は軽く体を伸ばしながらシャワーを浴びる。そしてラフに身支度を整えると、煙草に火をつけながら部屋を出た。
 見上げた空は陽を遮る厚い雲で覆われている。横風に吹かれて、平山は銜え煙草で上着の前を合わせながら、それでも、急ぎ足で行き交う人々の中を一人だけのんびりと歩く。煙草の煙と交互に入ってくる、冷たく澄んだ空気が心地良かった。久しぶりに、あの公園へ行こう。平山は途中にある自動販売機で温かい缶コーヒーを買うと、ポケットに突っ込んだ。
 目立たない路地を曲がり、平山は小さな公園へと入って行った。やはり今日も誰もいない。平山は一人、公園のベンチに腰をおろすと、短くなった煙草を消して缶コーヒーを一口飲んだ。喉から胸元へ流れていくその温かさに、天気のいい日にここでぼーっとしてるのが気持ちいいんだよな、そんなことを思い出す。公園を囲む木々に風が遮られているおかげか、平山はもう寒さは気にならなかった。缶コーヒーを傍らに置いて、新しい煙草に火をつける。…この前ここに来たのはいつだったろう…。平山は、緩やかに流れていく煙をぼんやりと見つめていた。
 突然、背後から小さな影が隣に飛び込んで来た。平山は驚いてそちらを向く。
「おはようございます、平山さん!朝御飯、持って来ましたよっ。」
神波が居た。いつもの明るい声でそう言って、平山の隣に座っている。手にはコンビニの袋を下げ、神波は、いたずらっぽい目で平山を見つめていた。なぜ神波がここに居るのか、ここを知っているのか、自分がここに居ることを知っているのか。訳が分からず、平山はとっさに言葉が出ない。そんな平山に神波はなおも楽しそうに、手にした袋から何か取り出す。
「肉まん、食べませんか?まだあったかいですよ。はいっ。」
「神波…、なんでお前、ここに…」
目の前で湯気を上げる肉まんを手にして、平山はようやく神波に聞いた。すると神波は顔を崩して弾けるように高い声で笑うと、公園の入り口を指差す。平山が振り向くと、そこには神波の自転車が止まっていた。
「いや、たまたま早く目が覚めちゃって。自転車でコンビニ行ったから、外で食べたいなーと思って、そのまま走ってたら、ここ見つけて…。俺もびっくりしましたよぉ、平山さんがいるんだもん。ホント、偶然、なんとなくなんですよ。肉まん2つ買ったのも、ここまで来たのも。…なんか、平山さんが俺のこと呼んだみたいだね。」
神波も、平山と出くわしたことが信じられないというように、はしゃぐように笑って目にうっすら涙を溜めながら、そう説明する。
「呼んでねーよ。」
平山はあっけない謎解きに笑いを漏らし、落ち着きを取り戻すと、手にしたままだった煙草を再び銜えた。自転車で今朝の風にさらされて来たせいだろう、神波の手も耳も赤くなっていることに、平山は今気付いた。
「平山さんこそ、どうしたんですか?こんな朝早く公園にいるなんて。確かに平山さんち、この近くですけど。平山さん、休みの日はいつも昼まで寝てるのに。」
まだ笑いの残る顔で不思議そうに神波に聞かれたが、それは、平山にも何とも言えないことだった。
「目が覚めちまったんだよ、俺も。」
素直にそれだけ答えて煙草を消すと、平山はさっき開けたばかりのまだ温かい缶コーヒーを、神波の冷えきった手に渡した。
「手、真っ赤だぞ。」
「あったかーぃ。」
胸の前で缶コーヒーを両手で包み、溶けそうな顔をする神波に、平山もつられて顔が緩む。
「これ、食うぞ?サンキュな。」
そう言うと渡された肉まんを口に運ぶ。思いがけない朝御飯になったけれど、こうして外で食べるのもいいもんだな。眼鏡のレンズをその湯気で曇らせながら、平山はなんでもない肉まんを普段より美味しく感じていた。
 「今日、天気悪いし寒いし、公園に来る人なんかいないね。」
神波がコーヒーを飲みながら辺りを見回す。子供用の遊具もない、木々と芝生とベンチがあるだけの小さな公園。けれど平山はここを気に入っていた。
「ここは穴場。いつもあんまり人が来ないんだよ。子供も遊ばないし、犬の散歩にじいさんが通るくらいで。そう言う俺も、たまに来るだけなんだけどな。」
「ふーん。」
「おい、全部飲むなよ。」
平山はもう一度コーヒーに口を付けた神波に気付いて、さらりと釘を差す。
「ん、返します。ありがとう。」
その一口を飲んでから神波はコーヒーを平山に戻すと、自分の肉まんに取りかかった。
「ん〜。」
神波は口いっぱいに頬張って幸せそうな声を漏らし、そのあとは黙々と食べる。平山は笑みをこぼしてそんな神波を眺めながら、ぬるくなったコーヒーを飲み、肉まんの最後のかたまりを口に放り込んだ。
 平山が今朝のことを反芻している間に、神波は肉まんを食べ終えた。一緒に買っていたミネラルウォーターを飲んで満足そうに一息つくと、ふっ、と目に光を溜めて言う。
「…こんな偶然、あるんですね。」
「ホントだな…。」
朝早く目覚めたことも、この公園に来たことも…、重なった二人の偶然…。
 平山はコーヒーを飲み干してしまうと、振り向いてベンチの後ろにあるゴミ箱へ缶を投げ入れる。振り向いた形で向かい合った平山と神波の間に、一粒の白いものが、ゆっくりと落ちて来た。
「あっ。」
二人の声が重なる。一瞬目を合わせると、二人は空を仰いだ。
「雪だぁ…。」
神波は嬉しそうに呟いて立ち上がる。上気した顔に、雪がかかっては消えていく。顔が濡れるのもかまわずに、神波は、その白さに憧れるような眼差しで雪を見上げている。神波の立ち姿と小さく舞う雪が映るその瞳に、溢れてくるような温かさを覚えて、平山も立ち上がった。俺たちは偶然じゃなく、まるで…。平山は降ってくる雪に手を差し伸べた。
「初雪、だな。」
いつの間にか風は止んでいた。空一面の鉛色の雲から、平山が見つめるその手の中へ、絶え間なく雪は落ちてくる。故郷ではもうずっと前から降り積もっている雪が、この東京に降る時、平山は特別な感情を抱く。平山の方を振り向いた神波が、今度は両手を雪に向かって伸ばして言った。
「この冬も、スノボ、行きましょうね、平山さん。」
「よし、じゃあ今度は上級者コースで50本。」
「え〜っ、かんべんしてくださいよぉ。」
二人は笑い合いながら、静かに降り続く雪の中に立っていた。

end.

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