まだはっきりと顔を出さない太陽の代わりに街灯が照らす、夜明け前の裏道。平山は神波と二人、いい気分に酔っぱらって歩いていた。
 ディレクター石森と後藤から最後のOKを聞くと、今まで二人が歌ってきたスタジオはそこにいる全員の拍手に包まれ、お疲れさまの打ち上げ会場へと変わった。徹夜のレコーディング作業は、徹夜の飲み会で幕を閉じた。スケジュールの運命か、『おかげでした』で野猿撤収宣言を放送したこの夜が、まさに、二人のレコーディング最終日だったのだ。
 平山はショルダーバッグを斜めに掛け、神波はボディバッグを背負い、二人ともポケットに両手を突っ込んで、のんびりと歩いてゆく。冷えきった空気の中、まだあたたかな酔いと充実感が二人を包んでいた。
 ……これで一つ、終わったな…。
 白い息を大きく吐きながら、平山は空を仰いだ。藍色の空に、白い半月。
 その月を同じ仕草で見上げながら、神波が掠れ気味の声で話す。
 「いやぁでも、あの石森さんが泣くとは思わなかったなー。ちょっと、もらいそうになっちゃった、俺」
 隣に視線を落とせば、神波の頬もまだほんのりと赤い。えへへと笑う前から顔はほころんだままだ。
「あの石森さん、じゃなくても、誰が泣いてもお前はもらい泣きするだろ? 涙腺ゆるすぎ」
 平山のからかう口ぶりにも、酔って気が大きくなっているのだろうか、全く動じない。真直ぐ見上げて、相変わらず笑った顔で返す。
「平山さんだって、そんな俺にもらい泣きするくせに。ホントは一番もらい泣き大王。けど、石森さん泣いた時は笑ってたよね、平山さん。ひどいよねぇ〜」
「ははっ、そんなことねーよ。でも神波、今日はめずらしく泣かなかったじゃん」
 酒が入ると……特に打ち上げの席などは、盛り上げ役で騒いでいても、決まって感極まって涙を流すのが神波だ。並の苦労では済まなかったレコーディングの最終日、きっとまた泣くんだろうと思っていたのに、ずっとはしゃいで笑ったまま終わった。それが意外で、平山の印象に残っている。
「うん。だって、みんなで思い出話にふけってたら、なんかもう、今じゃ笑えることばっかりでさ。いろいろあったけど、貴重な体験して、充実してたなーって。晴れ晴れした気持ちになっちゃって」
 言葉と一緒にこぼれる白い息さえ楽しむように真直ぐ前を向き、うんうんと一人頷く。そんな神波にふっと笑いを漏らし、平山も言葉を繋げる。
「確かにな。自分の歌がCDになるとかテレビに出るとか、考えらんねぇもんな、フツー」
「え〜? そう言う割には平山さん、『叫び』でさぁ、“偽ー善者〜の〜ぎょお〜列にぃ〜♪”なんて、すっげー歌い切ってたじゃないッスか。」
 神波は足を開いて立ち止まり、歌いながらカメラに向かって手を差し伸べる姿をやってみせた。それを横目で見ながら平山も言い返す。
「カメラの前じゃ化けまくりで、『star』なんて目がイッちゃってたのは誰だったかな〜。ライブでマイクスタンド振り回したのは誰だったかなぁ」
「う〜わ〜。だから、それを笑って勘弁してくださいよ〜」
 肩をすくめてよろけながら、再び歩き出した。
 さっきから二人とも、時折その歩みがあらぬ方向へふらりと出ていく。酒に酔った足取りというよりは、気分に酔った足取りで。真直ぐ帰ってしまうのが勿体無くて、いつまでもこうして話して歩いていたいからなのかもしれない。
「ま、笑い話だよな、俺らが徹夜でレコーディングなんてなぁ…、考えもしなかった」
「ホンット、なんだ?この生活って感じで。平山さんがこれ以上老け込んだらどうしようかと思ったもん、俺。徹夜明けとか、『おじいちゃん』なんて……」
「おい、お前、どうせ寝て起きたら忘れてると思って、言いたいこと言ってんな?」
「いや、でもほら、マジで疲れ切ってた時あったでしょ? 平山さんもだけど、俺もさ。とりあえず明日からはレコーディングの分は寝られるわけで…」
「……そうだな。あとは……ラストの『撤収』ライブまで全部終われば…、とりあえず、元の生活、か」
「……です、ね…」
 二人の声の温度が、すうっと下がったようだった。
「神波は、ちょうど仕事がこれからって歳だし、いい区切りだな」
「ん…。でも始まってからずっと生活の一部に入ってたから、野猿って。俺、野猿やる前って毎日どう過ごしてたんだっけ?って、ちょっと考えちゃった。」
「三年と少し…か。いつまでこんなこと続くんだ、って思った時もあったけど。あっと言う間だったとも思えるし。濃い時間だったことだけは確かだな」
「平山さん…、終わるって決まると……もっと、歌いたかったって気持ちに、なりません……?」
 神波は、足元を見て一歩一歩踏み締めるように歩きながら、問いかけた。
「…………。」
「俺もね、歌うの好きだし、気持ちいいし。……平山さんの歌、好きだしさ。けど、それがもう、新曲だ〜ってドキドキしながら聴いて、二人で練習して、歌って……ってやることもなくなるんだな…って、思…っと……っ」
 細く震えて詰まった神波の声に、平山はぎょっとして隣を振り返る。
「えっ。うっわ、おいっ」
「お、俺ッ…、ホント、野猿…好きで……っく、ひらぁまさ…と、うたうの……す、すきれ……」
 一歩後ろに立ち止まった神波は、顔を崩してしゃくりあげ、瞬きの度にぼろぼろと涙をこぼしていた。平山は神波の肩に手をかけ、目線の高さを合わせるように少々かがみながら向かい合う。
「神波ぃ、なーに今頃泣いてんだよ。みんなで飲んでる時は平気だったくせに……」
 ……こんな、二人の時に泣くなよお前……。
 うろたえ気味の平山をよそに、ゆっくりと夜明けの近付く路地の真ん中で姿の薄れていく半月に見守られ、神波はずずっと鼻をすすり、涙と一緒に喋り続けた。
「ごめ…んなさ…。なんか、酔いが醒めてきたら、せ…、切なくなっ…ちゃって…」
「いや、それまだ醒めてない。残ってるわ」
「歌……なんか、とにかく、何にもわかんないまま歌って…っ。ダメだっ…て、言われたってどうしていいか、わか…っわかんなくてぇ…。もう、どうしよ…っ、…て。悩んで、平山さんに話して、飲んで、歌って……」
 その手を置いた肩を震わせながらのたどたどしい言葉が、平山には痛いほど伝わる。
 平山も同じだった。素人とプロの狭間のプレッシャー。慣れないレコーディングスタジオという空間にいつも置き去りにされるような感覚。 とんねるずの二人も他のメンバーもいない、頼れる人はいない。そんな中で…。どれだけの時間、神波と二人で話して、飲んで、歌っただろう。辛くて、疲れ果てて。だけれど、歌い切った瞬間の気持ちよさと充実感。自分の歌声を誰かが聴いて、何かを受け取ってくれる嬉しさ。そのすべてを、何度も何度も、このレコーディングスタジオからの帰り道、二人で噛み締めたのだ。
「そうやって歌うのがさ、俺らの歌だろ?」
「……俺ら…の…?」
「ああ。そういう俺たちだから歌えた歌。野猿ってのは。……だろ?」
「そ…う、かな…。」
「そ。」
 ……少なくとも、俺はお前といて、そう思えたんだよ。
 静かに力強く頷く平山の眼をじっと覗き込んで、神波の息は落ち着いた。赤くなった鼻を残し、手のひらで涙を拭った瞳も穏やかな表情に戻っていく。
「だったら、俺、歌ってよかった……」
「……うん。そうだな」
 平山はもう一度ゆっくり頷いた。身を起こし、神波の肩に置いていた手を浮かせる。ついでに、くしゃっと神波の頭をひと撫でして歩き出してから……眼鏡の脇から自分の目尻を拭った。
「なんか…、すいません、最後まで泣き言言って。俺、平山さんには弱音吐いて迷惑かけっぱなしじゃん…」
 泣いたことで本当に酔いが醒めてきたらしい神波が、その後に並んで小さく頭を下げる。
「全っ然。神波の弱音の一つや二つ、三つや四つ」
「いや、そんなに言っては…」
「でもまぁ、残りの涙は『撤収』までとっときなさい」
「わかってますッて。レコーディングは終わったけど、今度はライブのリハ。『撤収』までは野猿で突っ走るっすよ。もう、泣き言は言いませんから」
「よく言ったな。それ、忘れるなよ」
「もっちろん」
 二人は明るい顔を見合わせ、笑い合う。いつしか街灯は消え、入れ代わるように建物の隙間から朝日が射していた。
「ちょうどテレビで『撤収宣言』って言ってる時、最後の曲歌ってたんだよね、俺たち」
「後で携帯見たけど、正直、思ったよりも反響大きいっていうか……みんないろいろ考えてくれてんだなと思った。ちょっとびっくりしたよ」
「うん、なんかダブルで実感した。…それにさ、『撤収』って、イイ言葉だよね」
 眩し気に太陽を探しながら、神波が言った。まだわずかに潤んだ眼を輝かせている光を辿って、平山も、刻々と夜空を塗り変えていく光源を見つける。
「ああ。『野猿』にふさわしい終わりだよな。俺たちは、建て込んだものはいつか自分たちで撤収しなきゃ、そこに新しいもんは建て込めないし」
「でも、やってきた仕事はもう自分の一部だから、いつまでも忘れないし」
「そうだ、神波」
「ん?」
「『撤収』ライブのステージで、一瞬でもいいから二人だけで思いきり歌おう」
 眼を細めて朝日を浴びながら平山は軽く弾けるような声でそう言った。
「え? 何、いつも二人で歌ってる…」
 その意味が掴めずに、神波は大きく首をひねりながら顔を見上げる。
「いつもの割振られたやつじゃなくて。『叫び』のさ、俺のソロのとこ、歌いたくねえ?」
「歌い…たいっ…。え、マジで!?」
「マジ。二人でソロ。」
 ま、二人だと「ソロ」とは言わないけどな。そう心でツッコミながら平山は、さらに眼をキラキラさせて口を開けたままの神波に眼を細めた。
「う〜ぉ、歌う! ……や、でも、それはさすがに無理あるでしょ、ちょっと……演出とかさ…」
 飛び上がりかけた神波だったが、計算を重ねる貴明の演出を思い出して勢いをなくす。
 けれど平山は脳裏に浮かんだ貴明を軽くかわすように、いたずらっぽく眉を上げて見せた。
「だ〜いじょうぶだって。最後の最後で、やるんだから。やったもん勝ちよ」
「す…げ…、カッコイイ〜平山さん…。怖いもんナシ。…っつーか平山さんコエぇ…」
 ちょっと固まりかけた笑顔で眼を丸くして呟く神波に、平山はがっしりと肩を組んだ。
「『撤収』最後の『叫び』、こうやって前に連れ出すから、一緒に思いきり歌えよ」
「オッケー。……平山さん、ひょっとしてまだ酒残ってる…?」
「いーや、全然シラフ。」
「……俺も『撤収』、ラストは弾けよッ」
 ニッと笑い合い、二人はリズムを踏むような足取りで、朝焼けの中へ帰っていった。

  

END.

[ Last Recording ] 2003.05.12. 京

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