朝から家には誰もいない。シングルを満喫できる絶好の機会である。

最近シングルにあこがれている。いいかげん家族の世話に飽いてしまったのかもしれない。
無性に自分の時間が欲しい。音楽を聴いたり、本を読んだり、ネットをしたり・・・
誰にも邪魔されずに浸っていたいといつも思う。
お腹が空いたら食べて、眠くなったら寝る。そんな暮らしだ。

昔、「独り暮らし」をしていた時には、あんなに寂しかったのに・・・
そう云えば電話もない部屋だった。
友達とおしゃべりしたくても、表へ出て少し歩かなければ公衆電話もなかった。
それに、いつでも相手をしてくれるような便利な友達もいなかった。

会社が終ると、暗い部屋に帰るのがいやでよく同僚と飲みに行った。
給料が安くていつも金欠だったので、「おごるよ!」と言われたら誰とでも付き合った。
今思えば・・「たかり!」だったのかもしれない。
もちろん全部「男」だ・・・。

ある日、同僚4人と居酒屋へ行った時、「飲め!飲め!」と囃されて・・・
大ジョッキ4杯の生ビールを飲んでしまった。まだ21歳の時だ。
それまでせいぜい350の缶ビールしか飲まない日常だったので、これはとても効いた!
足が立たなくなって、歩けなくなってしまった。
もちろんチャリにも乗れない。(自転車通勤だった)
「仕方ないなあ。。誰か送って行ってやれや!」同僚のYさんに指名されてKさんが・・・
「え〜〜!俺ですか?」としぶしぶ立ち上がったのだ。
Kさんは私の自転車を押しながら、あいた手で私を支えながら、アパートまで連れて帰ってくれた。
「ほら!鍵は!」そう言って、私をせかすと早くも逃げようとした。
私は・・・たぶんその時、とても寂しくてたまらなかったのだと思う。

「鍵が開けられないよ〜!鍵穴が見えないよ〜!」そう言って困らせた。
Kさんは迷惑そうな顔をしながら、しぶしぶ鍵を開けてくれた。
私は、ほんとはもう大丈夫なのにわざとそこでふらついてしまった。

Kさんはとても困っていた。そうなんだ・・・Kさんには好きな人がいる。
とてもキレイなひとだ。会社の近くの喫茶店に勤めている。

それから後のことは、あまり憶えていない・・ということにしておきたい。
ただ、朝目が覚めたらKさんが隣で寝ていた。。。

やばいことになった・・・
困ったことになった・・・

Kさん26歳の初夏のことだ。


--葛藤--



気まずい空気が漂う朝だった。何の言葉も生まれてはこない。

素面はまっしぐらに自己嫌悪へと進むのである。
Kさんは相変わらず困った顔で、「帰る・・」とつぶやき逃げるように部屋を出た。

煙草に火を点け考える。この夢ではない現実に対し、いかに対処すべきであるか。
果たしてこのような「あやまち」が許されるのであるか。
そして自己嫌悪の波に溺れるように、心がもがき始めていくのだ。


まだ一月も経っていない。
一緒に暮らしていた男は、
「オーディオは置いとくよ・・」
「自転車を買ってやろう!」
「最後に何が食べたい?」
ありったけの優しい言葉で、宥め、尽くし、そして出て行った。
「じゃあ・・・元気で!」
「忘れないよ・・・」

乗り越えられなかった壁の厚さと、世間の冷たい風のなかで何度も抱き合った。
その度に涙を流し、その度に確かめ合った。
それは決して無意味なことではなく、お互いが必要としていた「結果」だったのかもしれない。

まだ忘れていない。
だからこんなに寂しいのだろうか。


窓を開ると初夏の匂いがした。
白いシーツを剥ぎ取るようにはずしながら、ふと顔にあてたら…
ほのかにKさんのにおいがする、不思議な朝だ。


風が熱い・・・・・。


--夏--


月曜日の朝が来る。
笑顔を忘れては、仕事にならない。
いつもの制服で身だしなみを整え、自転車を飛ばした。
髪がなんだか鬱陶しくて、切らなくちゃ・・なんて思う朝だ・・・。

「おはようございま〜す!」
いつもの声がちゃんと上手に出ると、嬉しい。
Kさんは、早出だったのかもう仕事をしている。
なんとなく視線を送ると、向こうも見ていたので、ちょっと焦った。
それは少しも嫌な感じがしなくて、なんだかほっとする視線だった。
だから、いつものように「ご苦労さま!」と声をかける。

何か話さなくてもいいのかな、と一日中考えていたのに、結局何も話せないで仕事が終る。
もう帰らなくてはいけない・・・。
謝らなければいけないなと思っているのに、言葉が詰まったように躊躇っている。
話しかけてくれたらいいな、などど身勝手なことを考えている自分は、なんだかとても滑稽だ。

明くる日、髪を切りに行った。
「ホントにいいの?もったいないよ!」
「ばっさり切ってもいいよ!」
美容師さんは、少しだけハサミを入れてから深呼吸をした。
「じゃあ!切るよ!」
パラパラと床に落ちていく髪は、何を知っているのだろう?
まだ何かを憶えているのなら、早く忘れなさい!
鏡の中で生まれ変わって行く。なんだか別人のようだ。


「おはよう!Kさん!」
Kさんは、一瞬驚いた顔をして呆然としている。
もう今までとは違うんだよ・・と心で叫んでみる。
Kさんが照れくさそうに笑った。

「涼しそうで似合うよ!」
「うん!すっきりしたよ!」

髪が踊っている。楽しそうにはしゃいでいる。

夏も好きだなと思う・・・。

--誘惑--


Kさんが愛車を洗っている。見ているととても興味深い。なんだかドキドキする。
決して洗車機にはかけない。洗車ブラシも使わない。
柔らかいタオルで撫でるように隅々まで洗っている。
アルミホイ−ルは軍手を嵌めて、奥のほうまで指を突っ込んで洗っている。
几帳面な人だなと感心する。

クルマは最近買ったばかりの『セリカ』だ。色は濃いベ−ジュで少し地味だ。
でも赤いセリカは似合わないだろうと勝手に決めている。
そう云えば、前のクルマもセリカだった。よっぽどセリカが好きなんだな。
観察ついでに近くへ行って、何気なく中を覗いてみた。
塵一つ落ちていなくて、なんと足元には室内用のスリッパがあった。
「土禁か・・」

「なんだ!帰らないのか?」
そう聞かれたら、返答に困る。あれ以来、特に進展がなかった。
ただ毎日が慌しく過ぎて行く。もう忘れてしまったのかもしれない・・・
時々、目が合った。何かを言いたそうで、何も言わない。それは少し酷だなと思う。
好きな人がいるのは事実だから、やはり迷惑をかけてしまったのだろう。
ここは潔く、私も忘れてあげるべきかもしれない。でも、なんとなくそれは寂しいことだった。
せっかく気分が前向きになったのに、また後戻りするのは辛いなと思う。
忘れたいことが沢山あり過ぎて、誰かの力を借らなければ歩く勇気が萎えてしまうのだ。
とても卑怯だと思う。誰でもいいのか?と聞かれたら、否定は出来ないと思う。

「カレ−ライス嫌い?」
「なんで?好きだけど・・」
「じゃあ!今から作るから、食べに来る?」

Kさんは、一瞬固まった。水道から溢れ出る水が、足元を濡らしている。
タオルからしずくがぽたぽたと垂れて、絞って欲しそうに私を睨んでいる。

「気が向いたら行くよ・・」
ぽつりとつぶやく。そして、ぎゅっとタオルを絞った。
なんだかとても力を込めて、これでもか!これでもか!と呟くように、絞った。


私は自転車を飛ばす。 
絶対に気が向くに決まっている!
だって、夕焼けがこんなに眩しいもの・・・。


--作戦--


おいしいカレーの作り方。
それは出て行った男の秘伝である。そうとは知らないKさん・・お許し下さい。

気が向いたKさんのセリカが駐車場に見えた。おお!さすが!ピカピカなのだ。
窓からこっそり観察する。迷いながら来るのか、飛び跳ねて来るのか、それが問題なのである。
Kさんは、なんだか辺りを気にしながら小走りにやって来た。
人目が気になるがとてもお腹が空いていると見える。よしよし!それでいいのだ!

「あら!気が向いたの?」
「ちょっとね・・腹減ったし・・」

向かい合って座ると、なんだか「ままごと遊び」のようだ。私はおかしくてたまらない。
だって、絶対に来ると思っていたから、ご飯もいっぱい炊いたのだ。
もし来なかったら、自分独りでは食べきれない。毎日カレ−を食べて過ごさなきゃいけなくなる・・。
 一口食べてKさんは唸る。
「ううう・・辛い!!」
その顔がまた、とてもユニ−クである。扇風機だけの部屋で、だんだん汗ばんでくる。

「辛いけど・・うまい!!」
「クセになりそうでしょ?」
「なるかもしれないなあ・・」

Kさんは、おかわりをする。なんと、お皿の隅には人参がキレイに並べられている。
子供みたいな人だなと思うと、なんだか嬉しくなる。黙々と平らげて、ゴクゴクと氷水を飲む。
見ているだけで楽しくて、ほっとする光景だ。

食器を片付けながら、私は苦笑いをしている。
このお皿も、スプーンも、出て行った男の忘れ物なのだ。
料理が好きで、食器を集めるのが趣味だった・・・。

今頃、独りで何を食べているのだろう。
鼻歌を歌いながら、フライパンをかき混ぜていてくれたらいいなと思う。
そして独り言のように「いただきま〜す!」と手を合わせて
「うまいな・・」と呟いてくれたらいいのになと思う・・・・。


好きだけでは越えられない壁がある。一緒にいたくてもいられない理由がある。
ふたりで苦しんだ日々が・・・なんだかとても遠い日のように思える夜だった。


--悪女--


夜が一人歩きを始めた。追いかけて行かなければ、取り残されてしまいそうで焦る。
ささやかなきっかけを探してる。たとえば・・視線。たとえば・・ため息。

生ぬるい風が部屋中に溢れ、笑顔も話す言葉も逃げ惑うように宙を舞う。
いつもの癖で煙草に火を点けようとして、やっと視線がぶつかる。

「煙草・・キライだから・・」
「あっ!ごめん・・・」

少しだけ気まずい。でも気を取り直して微笑む。微笑めば何かが見えてくる。
そして度胸が芽生えて来る。

「すぐに帰るの?」
「いや・・まだもう少し居てもいいよ・・」
「少しだけ?」
「いや・・それはわからないけど・・」

Kさんは、明らかに狼狽している。我ながら意地悪だなと思う。
悪い癖だけど、そんな時間がとても好きだ。そして、ひとつひとつの仕草を観察してみる。
言葉で伝わらないことをしっかりと見つける。

また視線が逃げている。逃げるなら追いかけてあげよう。
ほらほら、今度は何処に行くの?こんな狭い部屋の中で、追いかけっこしたって無駄よ。
きっと負けるのはあなただから・・・。

帰っては欲しくない。夜は心細くて不安だから、誰かが側にいないと寂しくてたまらない。
時々、天井が落ちて来そうなくらい恐い時がある。いつも側にいた人が居ないのだ。
寝返りをうつと触れた肩がどこにも見当たらない。枕を抱いて泣き続けた夜もある。
だから帰らないで欲しい・・・・。

「抱いてもいいよ・・・」

やっと視線が捕まった。その視線はとても悔しそうにもがいている。
罠に嵌った動物が、助けを懇願するように思いつめている。
たぶんもう逃げられない・・・。

「いいのか?ほんとうに・・・」
 
耳元で、何度も繰り返す声が聞こえる。呟くように苦しそうに・・・。


--素直--


悪女は素直になりたいと思う。『素直』とはどんなかたちをしているのだろう?

好きなのか?と問い掛ける。答えはまだわからない。
わからないのにこれでいいのか?それさえも答えられない。でもとても心が安らいでいる。
寂しいと思う時間が、たとえ一時間でも消え失せてくれたなら、素直に嬉しいと思う。

「あたりまえ」の事ではないはずなのに、Kさんは何も聞かない。でも、私は少し良心が咎めている。
本当の事を言わなければ後悔するかもしれない。でも壊れるのがたまらなく恐い。
いつも確かめられているのを感じる。それは・・少し苦痛だ。
それは、私が比べているからだ。最初から最後まで、ずっと比べている。
その違いの落差に幻滅している自分が憎くなるくらいだ。
いったい私は何を求めているのだろう・・。
感づかれているな・・と、ある夜思った。告げることは容易いかもしれない。
でもきっと傷つくのが目に見えている。
言ってはいけない・・言ってはいけない・・何度も心で呟く。

「忘れられないのか?」

とうとう切り出されてしまった。一瞬からだが冷たくなって、涙が溢れ出てしまう。
素直になってはいけないのに、正直に頷く。沈黙が痛いくらいに肌を刺している。

薄暗い明かりの中で、拳を握り締めている姿がはっきりと見えた。
私にはどうすることも出来ない。心とからだが真っ二つに分かれているのかもしれない。
それはとても汚れているふたつの私だ。
Kさんは背中を向けるとすぐに、肩を震わせた。
信じられない光景が私を襲っている・・・。
泣くのは女だけだと思っていた。なんてひどいことをしてしまったのだろう。

穢れた汗を洗い流すように、ふたりで泣き続けた。
夜は愛しいものであって欲しい。
いや・・こんなに愛しかったのだ。
 
その夜やっと、私は素直になれた。


--孤独--


いつの間にか、週末を待っている私。火が点いているとしか思えない私。
消えるのが恐くて、風に煽られてまた燃える。風は休んではいけない。
強ければ強いほど炎が燃え広がる。
雨が叩きつけても、鎮火する訳にはいかないのだ。

もう比べてはいないはずなのに、からだはいつも反抗している。過去の絆が憎くなるくらいだ。
早く逃れたくて、夢中で走り抜けているような感触が付き纏っている。
でも、いくら走り抜けても満足出来なくて、悔しくてたまらない。
Kさんが悪いのではない。それは多分、私のからだが隅々まで冒されているからだ。
吐息や指先や、突き上げてくるものを拒否しようと企んでいるのかもしれない。
どうしていつまでも私を束縛するのだろう。もうひとつからだが欲しくてたまらない…。
 
逆らい続けるからだを懲らしめるように、私は嘘をつく。
そんな嘘が溜まれば溜まるほど、Kさんは満足する。
決して私を疑うことをしない。それが痛いほど愛しくてたまらない。
いつかきっと・・そう願うだけで無視できるからだの存在に、日に日に慣れていく。

週末が空白になるのは、とても寂しかった。だんだん我儘を言うようになる。
どんなに遅い時間でも、必ず埋めてもらわなければ気が狂いそうだった。
そしてそれがエスカレートしてしまった水曜日があった。

「土曜日まで待てないのか!」
ご機嫌斜めの声が聞える。
私は電話ボックスの中で、蹲っている。気がふれた女のように泣きじゃくっている。

「今日はダメだ・・行けないよ!」
「どうして?ねえ・・どうして?」

何度も同じ言葉を繰り返している。
来られない理由は正当で、我儘が許されないことも充分わかっているのに、
気持ちを抑えることがどうしても出来ない。

「お願い・・助けて・・」

震える声で最後に呟くと、返事を聞かずに受話器を戻した。

アパートに帰っても、サンダルが脱げない。
ドアを開けたら、部屋の中から得体の知れないモノが襲い掛かって来そうだった。
恐くて寂しくてたまらない。いつも暮らしている自分の部屋なのに、どうしたと云うのだろう・・。

玄関に蹲り、ドアにもたれかかって・・・泣き続けた。
助けて・・助けて・・助けて・・・。


--抱擁--


待っている。待っていない。いや・・待っていたい。

通り過ぎていくクルマの騒音に耳をじっと傾けている。違う・・違う・・違う。
通り過ぎてはいけないのだ。ブレ−キを踏んで!お願い止まって!
足音が聞こえる。とても急いでいる。確かに知っている足音だった。
それは階段を駆け上がって来る。
コンクリ−トの壁にこだまして、ドアさえも壊してしまいそうなほど響く足音。
鍵を掛け忘れたドアが、震えている。突然の訪問者ではないというのに、何を怯えているのだろう。

「いったい何があったんだ?」

そんな言葉も忘れた訪問者は、いきなり私を抱きしめる。
泣き疲れ、泣き濡れ、顔さえも見ることが出来ない。からだが千切れてしまいそうだ。
全身の力が抜けて気が遠くなってしまいそうだ。

「ばかだ・・ばかだよ・・」

呟きながら頬擦りをする。くすぐったくて少し痛い頬で・・・。
私は言葉が見つからない。何もしゃべることが出来ない。だって・・・口が無い。
ずっと塞がっているのだもの。熱くてたまらない・・・火傷してしまったようだ。


からだが反応している。今までとは違う何かが、電流のように流れている。
それはずっと待ち望んでいたことなのかもしれない。意識が遠ざかっては戻る。
確かに存在している指先が魔法のように私を操っている。
見知らぬ世界でさ迷っている魂が、もうひとつの魂を探すように、走り廻っている。


汗が雫になって落ちて来る。とてもリズミカルな雨粒のように落ちてすべる。
 
「逢いたかった・・・」吐息がふと安らいだその隙に、言葉が漏れていく。


--錯覚--


いつもと違う朝が来る。「暮らし」に似た、つかの間の時の流れだ。
こんな風に目覚めるのは、何日ぶりだろう。もう一月は経ってしまっている。
朝食の準備をしたり、ワイシャツを出したり、替わりばんこに洗面台に立つ暮らし。
ずっと続くと思っていた現実が、いつの間にかまぼろしになってしまっていた。

そう・・・いつも聞かれた。
「今夜は何を作ろうか?何が食べたい?買い物ちゃんとしておけよ!」
ふたりはモスグリ−ンのマ−クUに乗る。ほんの5分の朝のドライブだった。
「そうだ!今夜はステ−キを焼こう!」
思い立ったように頷くひとだった。

いけない・・・また比べようとしている。
もう比べないって決めたのに、どうしていつも突然に思い出してしまうのだろう。
これ以上何を望んでいるのだろう。
無理をしてまで走って駆けつけて来てくれたひとに、これでは申し訳がないではないか。

気を取り直して台所に立つと、「朝飯はいいよ・・」 言い難そうにKさんは言う。
「毎朝行ってるから、行かないと変に思われるからな・・」
そう言って、急いでワイシャツを着る。ネクタイを手早く結ぶ。
そうなんだ・・・。あの喫茶店に行かなくちゃいけないんだ。朝も昼もずっとあの店。
忘れていた事をこんな時に思い出すのは嫌だなと思う。
長い髪をふわりと背中に流して微笑む女のひとが、突然私を呪縛しようとする。

「先に出るから・・」
クルマのキ−を奪い取るようにテ−ブルから取り上げると、少しだけ気の毒そうに私を見る。
こんな時に見せる笑顔を、私はまだ見つけられない。

「いってらっしゃい!」
どんな顔に見えているのだろう。笑顔に見えていたら嬉しいと思う。

また独りの朝食が始まる。ト−ストを焼いて、コ−ヒ−を淹れる。目玉焼きも作ろう!
夢だったのかも・・なんて思うと不思議でたまらない。

あらあら・・枕が落っこちてる。
 
窓をいっぱいに開けて、髪の毛を払い落とす。
また来る癖に・・・そう思うとおかしくなって、私はくすくすと笑った。


--挑戦--


最近のKさんは、とても不思議。予約なしで入室を繰り返している。
合鍵を作ってあげた。そんな秘密めいた鍵なんて、きっと初めて持ったのに違いない。
まるで、鍵を開ける時の「がちゃり」っという音を聞きたくて、はしゃいでいる子供のようだ。
一度、内側からノブを押さえて、引っ張っても開かないようにいじわるをしてやった。
ふたりで引っ張りっこして遊ぶのだ。笑顔と笑顔がぶつかり、嬉しい合図のようにキスをする。
そのまま服を脱いでしまうこともある。

Kさんは、はっきり言って未熟だと思う。あまりにも経験が浅すぎる。
だから、教えてあげなければいけないことがたくさんある。
私よりも五つも年上なのに、今まで何をしていたんだろう。
初めてのことに挑戦する時は、かなり愉快だったりする。
まるで高い跳び箱に挑戦する男の子みたいに息を大きく吸ったりして、私を笑わせたりする。
うまく出来たら何度も挑戦したりして、飽きてしまうほど同じことを繰り返す。

「ん?ここじゃないな?こっちかな?」
「やだ・・何やってんのよ・・」

ロマンティックなんてほど遠いくらい、いつも修行に励んでいる。そしていろんなことを覚えていく。
私にとって、それはとても都合の良いことだ。痒い所に手が届くのは快感なのだ。
時たま痛いけど…大目に見てあげよう!

深夜に忍び込んでくる時もある。いつもマージャンの帰りだ。
煙草を吸わないのに、からだ中ににおいが染み付いている。
私はいつの間にか煙草を止めていた。でも煙草のにおいってとても好きだ。
どんなに夜遅くても、たとえ夜が明けようとしていても、拒否はしない。
学びたいのなら学んでもらわなくては・・といつも思っている。

ドライブへ行ったり、映画を見たり、たまにはそんな時間も欲しいなと思う。
一度だけ映画を見に行ったことがある。はっきり言って、趣味が合わない。
見たくもない映画を見てため息をつく。
Kさんは、ラストのテーマ曲が流れ出すと、すぐに席を立つひとだった。
私は、どんな映画でもラストのテーマ曲を聴き終わりたいひとなので、ちょっとむっとする。

「早く帰ろう!」

外食もしないで家路につくと・・また同じことの繰り返しだ。
確かに私には火が点いていると思う。
でも私の火よりも燃え上がっているものが、不確かに存在している。

聞いてあげよう!どうして欲しいの?私がどうしたらあなたは嬉しいの?

背中に爪を立ててみる。

「痛っ…」

微かなうめき声が、私は楽しい。いじめがいのある奴だと思うと嬉しくてたまらない。

夏はまだまだ・・これからだ。

--家族--


「もうすぐ花火だね!」
小京都の祭が、近づいて来る。

去年の夏は、何処で花火を見たのかしら・・何も憶えていないのが不思議だ。
そうそう・・お盆休みだったから、独りだったんだ。
きっと部屋の中で音だけ聞いていたのかもしれない。

「どうしても帰らないと・・」
生まれ故郷へ帰って行くひとを、手を挙げて見送っていたのかもしれない。
「ちゃんと、飯作って食えよ!」
そんな言葉も聞いたような気がする。

男の母親に、一度だけ会ったことがある。
暮らし始めた言い訳のように私を連れて行くと言った。
四時間もかけて遠くの町へ行く。
そこは私がよく知っている町だった。
懐かしい潮風に再び会えるとは、夢にも思っていなかった。
二年前逃げるように捨てた町は、あの頃と少しも変わらない海色の空で私を迎えてくれたのだ。

男の母親は、値踏みするように私を睨んでいる。
緊張で身体が固くなり、出された食事も咽喉を通らないくらいだ。
「この子が選んだ人だから、仕方ないけど・・」
そう言って、許そうとする気配を見せる。

「もう決めたから・・」
男は少し、おどおどしながら告げる。
上手に出来た『工作』を母親に見せる時、誤まって一部を壊してしまった時のようだ。

この町は、私を知りすぎている。たくさんの秘密が埋もれている。
それが掘り起こされるのは時間の問題だ。


「どうした?何を考えているんだ?」
私は我にかえる。
「花火さ・・うちの家族と見に行こう!」
思いがけない言葉が贈られてくる。
「毎年、おやじの川船で見に行くんだ!いいぞ、川から見たら最高だ!」

「うん・・それいいね!」
素直に頷く。

川面に写る大輪の花が、どんなにか心を熱くすることだろう。
私はそんな風景に溶け込めるのだろうか・・。

さらさらと水の音が聞こえる。幼い頃に聞いていた懐かしい川の流れだ。

--過去--


夢ではない現実が、目の前に準備されている。家族というかたちが懐かしく思える。
父がいて母がいて弟がいたのは、遠い昔の幻だったような気がしている。

19歳の時、新しい「家庭」が出来た。反対する父を説得したのは弟だった。
「姉ちゃんの好きにさせてやれや!」
その一言で父は頷いた。16歳の弟が立派なおとなに見えて、あんなに頼もしく思ったことはない。
幸せにならなくては罰があたる・・・。

やがて、しっかりと締めたはずのネジが緩み始める。そしてそれは、ある日突然抜け落ちる
転がり落ちたネジが見えなくなる。手探りで探してもどこにも見つからなくて焦る。

「おまえのせいだ!」

そんな言葉に慣れてしまった自分が愚かしく無様で、私はいつも優しいものを探している。
手を差し出してくれるものに、しがみついてしまう。たとえそれが許されないことでも走ってしまう。

優しい男が、抱きしめてくれる。

「だいじょうぶ・・だいじょうぶだから・・」

一度触れてしまえば、どんどんぬかるみの中に埋もれてしまう。
何もかも失ってしまうかもしれないのに、目の前の優しさに逆らえない自分が生まれてしまう。

すべてを失ってはじめて、愚かな自分が憎くなる。
気がつけば、背中を押されていた。

「もうお終いにしよう・・もう逢わないほうがいい・・」

帰る場所がない。帰る家がない。着の身着のままで列車に乗った。
母さんに逢いに行こう・・・。二十歳になったばかりの冬の朝だった。


Kさんは、黙って私の話を聞いている。

「忘れよう・・そんなことはもうどうでもいい」

今まで知っていることよりも、もっと知りたくないことを聞かされたというのに何も責めない。

「花火・・見ような!」

人差し指で眼鏡を押し上げながら、せいいっぱいの笑顔でずっと私を見つめている。


燃え続ける夏は愛しい。汗が汗を抱きしめている瞬間が私は好きだ。
言葉はいつも濡れている。濡れているからよけいに愛しい。


--安堵--


ありのままでいいのだろうか・・ふと不安が走る。
過去のトラウマが私に囁く。意地悪に薄ら笑いを浮かべて、執拗なほどに追い駆けてくる。
またバレる・・調べられる・・事実はごまかせやしないのに・・バカな奴だ・・

それでも私は負けたくない。髪を梳く、薄くルージュをひく。
心臓がパクパクしている。さあ・・落ち着いて・・これは挑戦なんだ。


夕暮れの川は太陽の残り香に包まれている。水が匂う。ずっと昔から覚えている懐かしい匂いだ。
幼い頃の私が見える。父に手を引かれて腰まで水に浸かったら、父が肩から水をかける。
「いいか!鼻つまんで潜るんだぞ!」
大きく息を吸って座り込むと、どっと水にのみ込まれそうで恐い。父の手がすっと離れる。
一瞬パニックになって慌てて浮き上がる。
大きな声で父が笑う。
「それじゃあ!いつまでたっても泳げないぞ!」
私は浮き袋にしがみついている。取り上げようとする父に涙で訴える。
「いやだ・・これがないと恐いもん・・」
熱くなった河原を父と帰る。その時はおやつのことだけ考えて心が躍っているのだ。

肌を焦がす太陽。どこまでも澄んだ川。青く濃く続く空。私のふるさと。


初めての川船だった。何艘もの船が川岸で準備をしている。
明らかに酔っている見知らぬ人達が一斉に私達を見ている。
Kさんが照れくさそうに笑い返している。
「おお!やるねえ!」
囃し立てる声も聞こえて来る。恥ずかしくて顔が上げられないくらいだ。
とにかく頭を下げて会釈を繰り返していると、目的の船に辿り着いた。

そこには『家族』が居た。
「よく来たねえ!」
思いがけない笑顔が私を手招きする。
ゆらゆらと揺れる船に恐る恐る乗り込むと、安堵の気持ちがどっと押し寄せてくる。
「さあ!出発進行!」
船外機がブルブルと音をたてて、川の水を蹴散らしていく。
水が躍っている。嬉しそうに飛び跳ねている。

それはかつて見たことのない光景だった。
花火が上がるたびに空と川がひとつになって、光が大きな花のように満開になる。
耳を劈くような破裂音が胸に響き続けている。

パラパラと音をたてて光が空から降ってくる。

流れていけ・・ずっと遠いところに流れていけ・・・。
『わたし』という名のちっぽけな『過去』よ!


--命--


「今夜は帰らないの?・・」

私は聞かない。花火の余韻がまだずっと残っている。
光が乱れ踊り、狂ったように 宙を舞っている。
 
髪をまさぐる。耳に熱く息を吹きかける。そして唇を噛む。
Kさんは、か弱い動物のようだ。目を開けることも忘れて放心している。
私は、そんなか弱いものが好きだ。好きだからそうしている。

「こんなことは初めてだ・・」

蚊の鳴くような声でKさんが呟く。

「じっとしてて・・動かないで・・」

足の爪を噛むと、暴れる。くすぐったくてたまらないけど、我慢しようとする。

「わたしも初めてだ・・」

「嘘つくなよ・・・」

部屋は薄っすらと明るい。見えるっていうことは素敵なことだと思う。
嬉しいのか嫌なのか・・はっきりさせなくては気が済まない。
だから調べさせて欲しい。
 
やがてか弱い動物は、逆らおうとする。力まかせに私を押さえつけようとする。
今度は私が調べられる。その時は目を閉じなくてはいけない。
 
「暑いな・・・・」
「暑いね・・・・」

そんな言葉は不必要だ。
か弱い動物たちは、咽喉を潤すように汗を飲む。
互いの汗がどんな味なのか知りたくてたまらないのだ。

「熱いな・・・・」
「熱いね・・・・」


ふたりは高い山の上にいる。太陽に手が届きそうなくらい熱い場所・・・。
そうしてそこで小さな『命』を見つける。

確かにふたりで抱き上げようとしている『新しい命』だ。
 

--秋--


少し熱っぽい。急に涼しくなった夜のせいかなと思う。
微かな疲労感を伴う朝だ。そして独りで目覚める朝だ。

コ−ヒ−の香りがとてもきつい・・・。
週末まで待てない。早く話さなくてはと思う。
決して初めてではないから、もう分かっている。確かに身体が変化している。

あの時もそうだった・・・。そしてあの時も・・・。

18歳の春のことは一生忘れられない。
小さな命が、必死で生きようと叫び続けていた。
卒業式の時だって、お腹の中ではしゃぎまわって私を困らせた。
制服のブラウスにお乳が滲んで、ひんやりと冷めていく感触は・・・
他の誰にも分からない私だけの秘密だ。
守りたいと思っている。でも、それを許さない人がいる。
男は世間体を重んじる。そのくせ私をいつも抱く。
ただそれだけの目的で遠くの町にだって行こうとする。
私を支配し、束縛することで満足しているのだ。
私が許せないのは、『新しい命』に愛情を注いでくれないことだ。
ただ、出来てしまったことは仕方ない。
いつもそう思っているのが分かるからだ。
だから簡単に『殺人』の計画が出来るのだと思う。
親の言うなり、社会的な将来、そればかり大切に生きている人だ。

「どうせ結婚するんだ!また生めばいいさ・・」

そうして、処分された『小さな命』
その子はバケツの中に落ちた。すでに私の中で殺されて、死んでしまって落ちた。
お乳が張って、雫のように流れている。私は一晩中泣き続ける。
懺悔と後悔の重い石を、身体中に埋め込まれてしまったように重苦しい朝を迎える。



迷っている。Kさんにどこまで話せばいいのか・・・。
私は生みたい。もうニ度と後悔はしたくない。
きっと喜んでくれる・・・そう信じることで救われる。

ふたりで見つけた『新しい命』だもの、生きていて欲しい。

Kさんは一瞬驚いて見せて、そして少し自慢気に言う。

「やったぞ!俺がお父さんだ!」

-冬--


生みたいという願いと、生めるという実感で、安堵する日々が続いている。
未来がある命とは、なんと尊いものだろう。



殺した命と、亡くした命が、交互に話しかけてくる。
とても悲痛な泣き声が聞こえたかと思うと、か弱く消えそうな泣き声がする夜もある。
何の供養もしてあげられない『ふたつのちいさな命』が「生まれたい」と囁く。

亡くした命は、まだかたちになることも出来ずに、どす黒い血の塊になって流れた。
夫だったひとが一晩中側にいて、悔しそうにすすり泣いていた。
あの時は、まだ未来があった。夢もあった。なのにいったい何が無くなってしまったのだろう。
あのひとは、いつも言葉を探していた。一緒に探してあげればよかったのかもしれない。
私は迷い続ける。あのひとは、気が触れたように暴力を振るう。
台所の包丁を持ち出して、私の髪の毛を掴むと、ありったけの暴言を投げつけて来る。
私は何処へ行きたがっていたのだろう。
まっすぐ前を向けば、きっと幸せな日々が訪れていたに違いないのに・・・。

夫の親友が気遣って、毎晩訪ねて来てくれた。そして監視をするように三人で食事をする。
軽く冗談を言い合ったり、仕事のグチを漏らしたり、つかの間の安らぐ時間を過ごす。
そして帰る時が来ると、そっと私に目配せをする。その目はいつも私を安心させてくれた。
きっと朝までだいじょうぶ・・・。

優しさに飢えている。そんな自分に気がついた時はもう手遅れだった。
真夜中に裸足で外に飛び出す。暴力を振るわれるまでに逃げ切らなければならない。
必死で夜道を走り抜けた。

優しい男は何度も呟く。
「俺はあいつを裏切ってしまったんだな・・」
私はただ泣くことしか出来ない。

無事に子供が生まれていたら、何かがきっと変わっていたと思う。
私が女ではなくて母親になっていたら、あのひとはもっと優しくなれていたと信じたい。

        

その日は、22歳の誕生日だった。
Kさんと私は入籍をする。夫という名の男と、妻という名の女が暮らし始める。
すっかり冬のにおいのする川のほとりで、私は目覚めた。

Kさんの寝息が暖かい朝だ。


--旅立ち--


『暮し』それは同じ朝を迎え、同じ夜を過ごすこと。そして、『独り』を忘れること。

朝は気忙しく過ぎていく。今までとは想像もつかない生活が始まる。
Kさんの父母がいる。妹がいて弟がいる。いきなり居候の気分が付いてまわる。
そして、自由が失せていく。時間ばかり気になって、何も手につかない。

初めての朝・・。お弁当を作りたかった。卵焼きを焼きたいな・・と思った。
コーヒーが飲みたかった・・・。
使い慣れた台所用品は、無造作に箱に詰められたまましばらくは開けることが出来ない。
早くほんとうの暮しがしたいなと思う。

仕事も辞めてしまったので、何処にも出掛けられない。Kさんが出勤してしまうと独りぼっちになる。
6畳一間の部屋で、一日中待っている。とても落ち着かない不安な時間がたまらなく苦しくなる。
やっと帰って来た頃には、もう一家の夕食は終わっている。
独り食べずに待ってるのがなんだか気まずくなって、仕方なく食事を済ましてしまう自分が情けない。

早く部屋へ戻りたい。いつもそう思っている。ふたりだけでほっとしたい・・・。
『家族』は団欒を重んじる。今までずっとながいことそうして来たのだ。

挙式の話で夜が更けていく。
いくら私が再婚といえ、それは当然行わなければいけない儀式なのだ。
まして一家の長男だ・・・。
私は黙って聞いている。いくら入籍したといっても、まだ他人のままなのだと思う。


私には実家がない。父とは、もう2年も会っていないのだ。
私があの町を捨ててしまい、母を頼ってしまったばかりに、もう父と会えなくなってしまった。
新しい父が出来たという事実に素直に従ってしまったからだ。
義理という目に見えないちからを頼り、今まで生きて来られたからだ。


挙式の前夜、母の元へ帰る。義父の計らいで、とりあえず『実家』が出来た。
一度も会ったこともない親戚も揃った。結婚を儀式として執り行う準備が整ったのだ。

二度目の花嫁衣裳はやけに重くて、なんだか初めて着たような気がする。
少し目立ち始めたお腹を庇うように、帯が巻かれていた。
すでに始まっている暮しを、また新たな気持ちで始めなければいけない。
もう他人ではない新しい家族達と、父になろうとしているKさんがいる。


タクシーの後部座席で、現実を噛み締めている時だった。
赤信号で停止した交差点で、ふと窓の外を見る。
そこには見慣れたクルマが並列していた。
煙草を燻らしながら、じっと青信号を待っている懐かしい男の顔だった。

「あっ君・・・・」

思わず声が出そうになる。

「行くよ・・私・・今からお嫁さんになるよ・・・」

信号が青になる。
ひと足遅れたタクシーを、振り切るようにスピードを上げると・・・
クルマはどんどん遠ざかって行った。


       永遠の別れだ・・・・。そして私の旅立ちの日だ。








シングルの盲点

2001/初夏の記より

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