ふぁーすときすというのは。海でもなく草原でもなく。喫茶店だった。
理数系だったそのひとが「いちど試してみるべきではないかと」言ったのだ。
どんな感じなのかということを。きちんとそれはレポートなのか実験なのか。
とにかくしてみるべきことだったからだ。そしてそれは案外と簡単なことであり。
いちど成功すると。もういくらでも出来そうだったから。もう一回やってみようと。
そのひとが目を輝かせて言うので。とうとう三回も試みてしまったのだった。
海岸通りのその店は『レオ』今もその町の潮の香のすぐそばに。あってほしい。
どんなに古びていようと。その扉がうまく開かなくても。そこにあってほしい。
わたしは還りたがっている。なんだかむしょうに還りたくてならない。
いま。ここにいて。今日が平穏に過ぎて。なにひとつ求める事もないけれど。
こころがとてもはるかな場所を見つめようと。はがゆいくらいにもがいている。
年をとることは素敵なことだと誰かが言ったんだ。
すこしも悲しいことではないのだと。それはほんとうのことだろうか?
わたしはせつなくてならない。どうしてこんなにせつないのかわからない。
わからないから。ときどきはこの哀しみを認めてあげたくもなる。
そのひとのくちびるはとてもとてもあたたかくて真綿のようにやわらかだった。
そのひとの名は「しゅう」といった。みんながそう呼んでいたけれど。
私は呼べなかった。彼はずっとずっと「しらいし君」だったからだ。
しらいし君はギターがとても上手だった。とても綺麗な細い指をしていた。
そしてギターを弾くときにはいつも目を半分くらい閉じては。うっとりと。
そのときまつげが風に吹かれたように。かすかに揺れるのが。たまらなく。
好きだった。真っ白な夏服の開いたボタンから誘うように見せる胸もとよりも。
それはどうしようもないくらい。好きでたまらなかったのだ。
まいあさ。ここに来るようにと。しらいし君は言った。
それは約束というのでもなく。先輩が後輩に義務付けるみたいな口調で。
私は逆らうことなど考えもしないで。あした。あさって。ずっとと思った。
クラスの誰よりも早く教室にカバンをおいて。階段を駆けるようにおりた。
ギター部の部室は鍵が壊れているみたいに。いつもかちゃんと鳴いて開く。
待っている時もあった。待たせていた時もあった。そこはいつもふたりだった。
なにも語らない。よく眠れたかとか朝ご飯食べたかとかなにもきかない。
私たちはほんとうに何も知らない。まるで行き連れに出会った旅人のように。
しらいし君はギターを弾いた。その指もまつげも。永遠であるように愛しかった。
そうして始業前のチャイムが鳴り響くと。幕をおろすように何かが閉ざされた。
その瞬間にきすをして。その瞬間に千切れてしまうか細い糸みたいにぷつんと。
しらいし君は遠かった。確かめたくても確かめられないことがいつも苦しくて。
私には実感というものがほとんどなかった。それはいつも夢のようだったから。
だからいつも欲しがったし。だからいつも求めていた。まるで空気を弄るように。
しらいし君のことばかり考えていた。そしてそれが私の『不安』そのものになった。
こんなにこんなにひつようなのに。ひつようでないなんてありえない。
だけどいつだって粉々になりうる。わたしはひびだらけのガラス細工だった。
それはずいぶんと昔のことで。もちろん携帯電話もパソコンもない時代だった。
その『むかし』という時間は。ひどく遠くとてもはるかな時のいちぶぶんとして。
消えてしまったものなのか。うしなってしまったものなのか。私にはわからない。
ただいえるのは鮮やかなのだ。鮮やか過ぎるくらい今もある時のカタチなのだ。
夏休みは気がくるってしまいそうなくらいさびしかった。
寝ても覚めても。しらいし君のことばかり考えていた。
どこかで待っていれば会える。そんな保証のようなものが欲しくてならない。
私はあてもなく町に出る。本屋さんに行く。レコード店に行く。
いつかの喫茶店にも行く。もしやと学校の裏門もくぐってみる。
どこにもいない。そのことがとても重くてとても辛くてならなかった。
私は青いバイクをさがす。校則で禁じられているおっきなバイクのことを。
西から東へ。東から西へ。もしかしたらこの道を走り抜けるかもしれない。
だけど。いない。どうしてもいない。しらいし君はどこにいったのだろう。
隣町に行けば見つかるかもしれなかった。その町のどこかに彼の家があるのだ。
それはどこなのだろう。どこをどう歩けばその家に行けるのだろう。なんだか。
とても迷路だった。シラナイということはほんとうに情けないほど悲しいことだ。
そうして毎晩手紙を書いた。あいたいあいたいあいたいとなんども続けて書いた。
だけど。いない。その手紙を受け取ってくれるひとがどこにもいない。
その手紙をどこに出せばいいのかさえ。知らないのだから救いようもない。
わたしは絶望的だった。わたしほど悲しいひとはいないと。私は信じていた。
ひとはどうしてひとを想うのだろう。ひとは願って願いつかれるまで願って。
そうしてどこへたどりつくのだろう。一心であることは星の瞬きのようであり。
一心であることは。ときには奇跡のようにまぶしいことでもあった。
わたしにもともだちがいて。だけどともだちはいつも途惑っていたから。
わたしのカタチに触れることをためらい。わたしの扉をたたくことを迷った。
だからわたしから扉をあける。そうするとほんとうにほっと微笑んでくれる。
待っていてくれたのだと思う。ともだちはけっして遠くないところにいたのだ。
彼女は電話帳の『白』で始まるページをひらき。とにかくぜんぶよっと言って。
しらいし君の家をさがした。なんだか母親みたいにいっしょうけんめいだった。
だいじょうぶきっと見つかる。それは私にはとうてい臨めない勇気そのものだった。
そしてとうとう見つかった。だけどやはり『るす』だったのだけれど。
ともだちがメモしてくれた電話番号が。しっかりと繋がる糸のように思えて。
この糸さえあればとすごく嬉しかった。この糸を辿ればきっと逢えると信じられた。
その夜。わたしはがんばった。心臓が震えすぎて裂けてしまうくらい緊張しつつ。
きっとびっくりするだろうなって思った。きっと喜んでくれるに違いないと思った。
「なに?」ってしらいし君が言った。わたしはいっしゅんにかたくなる。
凍りつくのとはちがう。なにか得体の知れないモノに雁字搦めにされたみたいな。
悲しいのともちがう。それは真っ暗で。それはとても深い闇の中の出来事だった。
ひとにはみんな『つごう』というのがあるらしかった。
つごうは。もしかしたらとてもたいせつなもので。かんたんにはこわせない。
それには微笑む顔もあって。ちょっとどうしようもなく困惑顔のときもある。
だからそれはほんとうに誰にだってあるから。みんなみんな機会を待っている。
だけど息が詰まりそうになった。しらいし君が見知らぬひとみたいに思えた。
あいたいとか。声がききたいとか。そういうのがわたしの『理由』だけれど。
素直であってはいけない理由とか。正直であってはいけない理由とかそれが。
わたしの『ふあん』をどんどん育てようとしていた。
だけどわたしはがんばったんだ。がんばったけど涙がとまらないだけなんだ・・。
わたしはおそらく。夢をみるのがとても得意で。それはときには現実にもなって。
わたしというひとをわたしににせて。わたしというひとをそこに描こうともする。
しらいし君のバイクのうしろで。そこから振り落とされまいとしがみつきながら。
鏡川を渡る橋の道をあちら側へと突っ切って走った。潮のにおいのする風のなか。
鏡川は。かつては鏡のように透き通った川だったらしい。
よくは知らない。どうしてかって。私はそんな鏡の水を見たことがなかったから。
かといってそこにどれほど汚れたものが渦巻きながら澱みながら。つつと流れて。
いるのかも知らなかった。知らないほうがいいこと。見なければそれで済むこと。
そういうことがそこにはきっと溢れていたのかもしれなかった。ごく自然にそこに。
微笑んでいたように思う。たしかにその日。彼はすこしはにかんだ顔をしながら。
たったひとつの宝物をそっと差し出すように。私のてのひらにのせてくれたのだ。
言葉は風がさらっていった。さらわれた言葉はもがきもせずに空にとけていった。
みちは遠いほどいい。どんなにかそう願ったことだろう。どこまでもはるかに道なら。
「じゃあね・・」って言う。「またね・・」って言わない。またぷつんと何かが切れた。
そこは何処だったのだろう。私はどうしても思い出せないでいる。
そこから歩いた。ひとりで歩いた。道はたしかにそこにあったのだから。
その夏は誰かの息でくもってしまった鏡のなかの不確かな出来事のように。
それが幻みたいに現れては消える。夢ではないことを確かめるようにぎゅっと。
私は。くちびるをつよくかんだ。
たとえばシャボン玉のように。かすかな息で生まれることができる。
そうしてそれは空に向かって。ほんの少しの旅をすることもできる。
ほんとうにつかのまのことだ。辿り着けもせず留まりもせず宙に頼りながら。
ころがるようにいそいでいく。そのかたちそのものが命であるかのように。
それは。見失ってはいけないことだったのだ。
その夏の蝉時雨がやまずにいて。くりかえしねじを巻くようにふたりに降った。
その音にかき消されないように息をしながら。どうしてもという理由のなかで。
確かめてみなければいけないことを。なんだか追い詰められたようにそのことを。
ふたりしてさがした。これなのではないかと言って。そうなのかもしれないと。
しらいし君は言った。だけど確信がなかった。それはあまりにもぎこちなくて。
そのことが私ではなく彼をもっともっと苦しめていることに。気付かないふりを。
していたのかもしれない。私はなにを望んでいたのだろう。そのことのなにが。
私を救ってくれたというのだろう。まるでぬかるみのなかで泳ぎたがる魚のように。
もがいていた。息苦しく。もう還れないのではと不安になるくらい遠いところで。
ほんとうの水がほしくなる。ほんとうの雨がほしくなる。ずぶ濡れになるくらいに。
「帰る・・」としらいし君が言った。それはとても深刻に思い詰めたように言った。
バイクの音がして。なんだか逃げるようにそこからずっと遠くに消えていくのを。
耳を塞ぐこともせずにぼんやりと聴いていた。なんだかふっと懐かしくさえ思った。
彼の心臓のおとだ。ふるえながらもなにかを訴えるように激しくて哀しくて。
これが僕の『理由』だよって。その音がどんなにかそれを伝えたがっていたかを。
私はまだ知らずにいた。
わたしは絵が描けないけれど。もしも描けるのだとしたら。
その夏の背景は。その夏のかたちは。それはどんな色でどれほどの存在で。
瞳とか指先とか。ふと振り向いた仕草とか。背中とか髪とかくちびるとか。
それはおそらく絵のかたちをした時の断片のようなものかもしれない。
切りとられている。もうすでにそれは切り抜かれた空間のような夏のことだ。
夏休みが終わり学校へ行かなくてはならなくて。私はひどく憂鬱だった。
なにかを始めなくてはならなくて。それが本当の始まりなのかわからなくて。
たまらなく予感めいたことから。逃げてしまえたらどんなにいいだろうと思った。
鍵はもう壊れたふりなどしてくれない。鍵はその役目をついに思い出してしまう。
開けられないのではなくあかないのだ。それはとても頑固な拒否なる音を生じる。
もう聴けない。それがどんな曲だったのか思い出せないというのに恋しくてならない。
「さあはやくそこからにげなさい」と始業のチャイムが哀しい声のように言った。
抜け殻がいいか死骸がいいかと問われたら。どっちを選べばいいのだろうか。
私はツクツクボウシがいい。どんなに限られた命でも声をかぎりに鳴いていたい。
だけどどうしても私を抜け殻だと名付けたいのなら。粉々に千切れて風になろう。
そうして死骸だと名付けたいのなら。何日も雨にうたれて土そのものになりたい。
けれども。いったい誰にわたしのかたちがわかるというのだろう。
わたしが蝉だという確信など誰にもない。わたしにだってそれはないのだから。
ほんとうは。ほんとうのことを言ってしまいたい。「わたしは知りたくない」のだ。
放課後。しらいし君に会った。なんだかきりりっとして爽やかな顔をしていた。
まるで化学の研究レポートを発表するみたいに背筋をぴんと伸ばして立っていた。
そのくせ声は聴きとれないくらいか細かったけれど。聴かなくてはいけないことが。
波みたいに渦みたいにわたしの足元からわたしの髪からなにもかもを濡らしていった。
終るのだという。もうお終いなのだという。それが彼の発表だった・・・。
ひび割れてしまいそうなガラスのうつわは。みずを注がれることをひどく怖れる。
ひとしずくふたしずくほどの粒の雨だって。その落下に身構えていなくてはならない。
けれども涙がふってくる。それは躊躇わずそれは容赦なくそこに降り積もろうとする。
わたしは割れなかった。どうしてだかこんなに怖いのに割れてはくれなかった。
ひび割れたぶぶんを何度も指先でなぞってみたけれど。血さえ出てくれはしない。
そのことがどんどん私を追い詰めていく。絶望的なのだ。もうここにはいられない。
どこにいこう。そこにいけばもしかしたら私を粉々に砕いてくれる何かがあって。
私こそが落下していくのを待っていてくれるのかもしれない。行かなくてはすぐに。
私はとても急いでいた。そこは『みず』だった。そこは蒼くそこは深く『みず』だった。
欠片になったじぶんを思う。もしかしたらきらきらと光る貝のようにそこにいて。
悲しい声も波の歌声だと思って。いくつもいくつもそこで耳を澄ましていられる。
もう誰も私を思い出さないでいてくれて。私も誰も求めなどしない。すべてが蒼く。
そこなら絵の描けない私にだって。なにもかもを蒼く塗りつぶすことが出来るのだ。
わたしは行った。三度も行った。それなのに落下しない。どうしてだろう・・。
どうして落下できないのだろう。かんたんなことだ。落下すればそれでいいのに。
わたしは割れない。このままじゃいつまでたっても私は割れてくれない。
悔しくて辛くて情けなくて。苛立って悶々として。もうほんとうにすべてが嫌で。
そんなある日に。あれは何の授業だったのだろう。視聴覚室でフィルムを観ていた。
ちいさな生物がいてその生物がもうひとつの生物と出会って。新しい命が生まれていく。
そういうのがとても素晴らしくて。これが命なんですよって。そんな映像だった。
ように思う。よく覚えてなどいない。私にはそれがとても鬱陶しくつまらなくて。
もううんざりだった。嫌なのだとにかく。いったい私にどうしろというのだろう。
割れなくて。粉々になれなくて。たまらなく壊れたくてならないわたしにだ。
「おい・・」っとその時。真後ろの席から私の名をちいさく呼ぶ声がした。
咄嗟に反応した私に。そのひとは。そのクラスメイトは平手打ちをしたのだった。
「そんなに死にたければ早く死ね・・」と彼は言った。とても小さな声で呟くように。
たぶんそれは誰にも聴こえなかっただろう。それはほんとうに一瞬の事だったから。
視聴覚室に灯りがもどったとき。そこはあまりにも平然としていた。
誰も私の頬の痛みを知らないように見えた。ざわざわと席を立つひとばかりだった。
やすおか君は何事もなかったように。友達とふざけながら何かをしゃべっていた。
わたしはとても混乱していた。いったい何が起こって何が変ったのかすこしも。
理解できないでいた。
ただひとつだけわかったことは。『わたしは死ねないひと』という事実だけだった。
その事実は。頬の痛みが心地良く感じるほどの。ささやかな希望のように思えた。
わたしは痛かった。わたしは途惑っていた。けれど確かにそこで生きていた。
朝に夕にふっと風の変化を感じる。それは忘れていたことを耳打ちするかのように。
不自然ではなくより添うようにしながら共存をしたがる。揺れる影のようなものに似て。
もう秋なのかもしれないと私は思った。
けれど誰もそこに線などひかないのだ。ここまでとかここからとか。だから。
私にだってそれは区別できない。ただここだからそこからへといかねばならない。
気がつけば『死ねない』とはそれほど重要なことではないように思えた。
かといって『死なない』こともそれほど大切なことにも思えずにいたのだ。
うすぼんやりとしていた。あたまとかこころとかどんなふうで何を考えて。
なにを行動すればいいのかよく理解できず。ぐるぐると渦みたいな世界にいた。
友達はどうしてみんな笑い合っているのだろう。みんな楽しそうな笑顔で。
頼みもしないのにレコードを貸してくれたり。漫画を見せてくれたりしては。
ひどくおせっかいに思える時もあったし。逃げてしまいたいと思う時もあった。
わたしの殻は固くて。どうしようもなく固くてならない。おまけにいびつで。
割れ損ないのヒビだってある。いつまでもそのヒビに拘っているようにも思う。
けっきょくわたしはそのヒビが好きなのだ。もしかしたら誇らしいのかもしれない。
悲劇ぶって。とことんそのヒロインを演じていたいと思っていたのかもしれない。
ある時。「これ読んでみたら」って一冊のノートが私の手元にまわってきた。
誰かが始めた交換日記のようなもので。もう何人かがいろんなことを書いていた。
日付だけで名前はない。誰かが雄叫びのような声を書けば。誰かが宥めている。
筆跡を隠すためなのか左手で書いたような字もあった。悩みもあれば辛いことも。
なんだかふっとこころがかるくなる。そこはとてもあたたかいもので満ちていた。
そうして回し読みしているうちに誰かがそっと机に隠す。そして誰かがカバンに入れる。
だから。わたしもカバンに入れた。とにかくそうして家に帰りたかったのだ。
私はわたしを隠さなかった。隠す必要はないと思ったのかよくわからない。
隠せやしないと諦めていたのとも違う。私はわたしに同情して欲しかったのかも。
しれない。
それは今おもえば。ほんとうに愚かなことだ。
けれどその愚かさがなければ。わたしは前へ進めなかった・・・。
季節が変るように。私も変らなければならない。
わたしはもう夏ではない。
わたしは『ひと』を求めていた。それはとても傲慢で貪欲なくらいに『ひと』を。
なぜならば私は救われなければならない。たぶんきっとおそらくどうしようもなく。
その圧迫として歪みきった世界から脱出しなければならないと思いつめていた。
もう苦しみたくなどなかった。胸が張り裂けそうなくらい絶望的なジジツから。
逃げてしまわなければいけない。そうしてそこで何事もなかったように微笑み。
毎日をあっけらかんと楽しく。あしたがいつも待ちどうしいくらいになりたい。
どうしてだろう。どうしてそれをじぶんのこころの限りで成そうとしなかったのだろう。
どんなに嘆いてもよかったのだ。もっともっととことん苦しみ抜いてもよかったのだ。
死に急ぐこともなければ。生き急ぐこともなかったはずなのに。
私はその誰もが読むであろうノートに。私のありのままの姿を書いた。
私はひどく悲しくて。私はひどくさびしくて。私は助けを求めていて。
とにかくわたしは悲劇なのだ。もうこんな役からは下りてしまいたい。
おりてしまえばいいのにそこからとびおりようとしないおろかなひとだ。
いったいわたしはそれいがいのなにさまのつもりだったのだろうか・・。
『ひと』をもとめてしまったせいで。『ひと』が名乗りをあげてくれる。
そんなことがどうしてまかり通ったのか。いまだによく理解できないでいる。
そのひとは休み時間を待ちかねたように教壇に駆け足で行って立った。
みんなよく聞けと言わんばかりに声を張り上げて『宣言』というのをした。
「とにかくきょうから俺がめんどうをみることになったから」と言った。
ただし先輩達の卒業式が終るまでだ。それでいいな?と私に問いかけもした。
いいもわるいもない。それはほんとうに思いがけない出来事だったから。
嬉しいのかさえよくわからなかった。途惑いつつもなんとなくそれがよかった。
ただ。しらいし君のことを笑顔で見送ってあげられたらどんなにいいだろうって思った。
もうほんとうに私から遠くなり。受験勉強を頑張って志望の大学に合格して。
卒業式の時には。在校生の列のあいだを花吹雪をあびつつ。ふっと私を見つけて。
あのわたしの大好きな仕草で。ふっと目を閉じる揺れるまつげで。「さよなら」って。
言葉なんていらない。言葉なんてもうほんとうに必要でないくらいの微笑がほしい。
わたしはもうだいじょうぶなんだよ。もうなにも気にしなくていいから。いって。
そこにはもうほんとうに秋の風が吹いていた。
わたしはそこから始めようと決心をする。もしや純粋ではないのかもしれない。
けれど。そんなきっかけがなかったら。どうしても前へは歩めないように思えた。
わたしは望みどおりに救われたのだろう。
だけど。そのわたしのおろかなたくらみのかげで。
誰かが傷ついていた。そうなのだそれがとてもじゅうだいなことなのだ。
自分がいちばん傷ついていると信じているものこそ。
とてもたやすくまわりのひとを傷つけることができる。
おろかなのは。そのことに気づくことができないことにちがいない・・・・。
私は『いま』気づいた。こうして書きながら。ながいながい歳月の末に。
傷ついた誰かの深い悲しみを感じている。
あのあとすぐに。例のノートが忽然と消えたのだった。
あのノートは燃え尽きてしまったのだろうか。
それとも木っ端みじんと破られて波に攫われてしまったのだろうか。
それとも『いま』も誰かがそっと。大切に持っているのだろうか・・。
ごめんなさい。みんなのあたたかな居場所を。わたしが汚しました。
救われるっていうことは。夢ではないかとふと疑ってしまうくらい夢に似ている。
なにもかもが一転してしまったようにも思う。ああだったことがもうそうでなく。
そうだったことが仮面をはずして踊リ始める。踊り子は無我夢中で踊り続けては。
破れたトゥシューズのことを忘れる。
その秋の日の体育祭は。それはそれは楽しかった。
そのひとは嘘をつかない。そのひとは誓いにとても忠実であったから。
いくつもの筋書きを作っては。そのシナリオ通りに実行し完結を目指した。
二人三脚をする。『子連れ狼』という競技があって私は一輪車に乗せてもらう。
カーブのところでスピードを出し過ぎて転げ落ちた。けれど手を差し伸べてもらい。
またぐんぐんとゴールを目指した。風をきっていく。風はほんのり潮のにおいがした。
三年生がどんな競技をしたのか。しらいし君が走ったのか転んだのかもしれない。
けれど。私は何ひとつ憶えてなどいない。おそらくたぶん。見ることを忘れたのだ。
もしかしたら。見ないことさえも夢。だったのかもしれない。
修学旅行には二人分のお弁当を作った。新幹線のなかでそのひとはそれを。
みんなに自慢した。そしていつも以上にはしゃぎだして。おにぎりが転がる。
それはほんとうに愉快に転がっていったのだ。海苔についた小さなほこりが。
笑い顔みたいに見えた。ころころころとみんなが笑う。私もころりっと笑った。
東京に着くなりの自由時間に。そのひとは地下鉄に乗ろうと言い出す。
二人だけでなくみんなと行った。「俺はこう見えても東京育ちやきな」って。
土佐弁で言った。田舎者たちはみんな尊敬の眼差しで彼の後を付いて行った。
地下鉄は不思議だった。風景が見えないせいで。ながいながいトンネルみたい。
そしてさらに不思議だったのが。一度も降りずにもとの駅に帰ってしまえる事だ。
「ねえ、なんで?どうして?」って訊いたけれど。田舎もんはこれやきな〜って。
そのひとは本当に愉快そうに笑った。私はますます彼という人を尊敬してしまう。
あくる日は。東京タワーに行った。なんだかひとがたくさんいた。
東京ってすごいなって思った。ひとひとひとが見知らぬ顔で通り過ぎていく。
ちょっと立ち止まってしまったらすぐに迷子になってしまいそうだった。
そこでそのひとは。おもちゃの指輪を買ってくれた。200円だけどきらきらで。
涙がこぼれそうになるくらい嬉しかった。「やっぱカタチとか大事やき」って言う。
わたしはそういうカタチになったのだろうか?なれたのだろうかよくわからない。
とにかくわからないということは。わかるのかもしれないという希望に似ている。
こうしてずっとそのひとのそばにいた。まるで金魚のふんみたいなわたしだった。
けれど。さいごのさいごに独りきりになった。帰りの新幹線を待つ東京駅で。
私はとうとう迷子みたいになってしまった。そのひとの後ろ姿を見失ったのだ。
友達の姿もなかった。先生もどこにもいない。いるのはやはりひとひとひとばかり。
私はけっきょく。所詮かもしれないけれど。ひとりではどこにも行けなかった。
雑踏が苦手でおまけにひどい方向音痴でもある。その場所から動けば本物の迷子になる。
しかたなく集合場所のちかくの売店で。文庫本の立ち読みをすることにした。
どんな本でもよくてどんな本でも読むふりをした。そこはとても居心地がよかった。
心細くはあったけれど。独りだという事実になぜかこころが満たされる思いがした。
もっとさびしくあれ。もっと悲しくあれ。もっともっと。ああどうしてだろう。
どうしてわたしはこんなにも独りを愛しむのだろう。殻がわたしを包んでいる殻が。
ぎゅっと私を締めつけようとする。その痛さがその圧迫とした空気が愛しくてならない。
まだ壊れたいのだ。おそらく粉々になれないことが苦しくてならないのだ。
ひとりふたりみんなが帰って来る。そのひともその輪のなかにいるのを見つけた。
彼は完璧でなかったことを詫びようとしたけれど。どうして私が責められようか。
わたしはほんとうのことのように微笑んで言った。
「迷子になったよ」 「おまえほんまにアホやなあ」ってそのひとも笑った。
そうして秋が深くなる。
もっとふかいふかいところにわたしは落ちていった。
その町の冬は雪のことを知らずにいた。それは時々風に舞って噂話のように。
耳を冷たくさせたりもしたけれど。誰もそれを信じようとはしなかったから。
いつもいつも。それは泡のように消えていった。
そんな冬の朝。教室にそのひとの姿を見つけられなかった。
わたしはとても不安になってしまう。そしてひどく焦ってしまう。
なんだかそれはあの時に似ていた。あの時の海のように波がすぐそばで動いている。
わたしはとても怖かった。押し寄せてくるものに向かうことが怖くてならない。
それは規則正しく打って。弾けて。打って。砕けて。打って打って引いていく。
逃げるのじゃない。行くのだ。そう思った。
そこにいた誰かが叫んだ。それは怒鳴り声のようでもあったし見ず知らずの。
ひと達が一斉に後ろ指をさしているような。とても居たたまれない場所のようで。
わたしはもう。駆け出していた。ひたすら行くのだ行くのだと思って走った。
そしてそのひとに会えた。熱が出てしまってふうふうしながら寝込んでいたけれど。
私を叱った。まったくどうしようもない奴だなと叱りながら。ちょっとだけ微笑んだ。
私には後悔というものが欠落していて。それがいつ襲ってくるのかも考えもせずに。
まるで立入り禁止の立て札を読むことの出来ない。一匹の野良猫のような姿だった。
そこにいけばあたたかい。そこにいれば優しい風にあえる。そこで眠ろうって思った。
ほんとうにあたたかだったのだ。ほんとうに優しかったのだ。そして眠ったのだ。
明くる日。わたしたちはひとりひとり。生活指導部に来るようにと言われた。
そこは体育教官室でもあり。噂によると殴られるひともいる。停学や退学や。
とにかくそこはもっとも相応しい処分を受けるべきところであるらしかった。
だけど私は知らない。私のなにがいけなくて。なにが間違っているのか知らない。
そのひとが先に行き。少し顔色を変えて帰って来たけれど。詳しくは何も言わない。
ただいっしょうけんめいいつもの笑顔を見せながら「行ってこいや!」って言った。
わたしは行った。そこでこんこんと「いけないこと」について説明を受けた。
だから。それはほんとうにいけないことなのだろう。だけど反省など出来ない。
気がつくと涙があとからあとから溢れてくる。
「せんせい。どうしてもあいたかったんです」って泣きながらうったえた。
「おまえは本気で惚れているのか?」と教官が訊いた。
わたしはうなずいた。それ以外になんて応えればいいのか。それがきっと真実で。
真実というのは。いつだって思いがけないものなのかもしれない・・・。きっと。
わたしはおそらく歩んだのだろう。もう振り向かずにすむようにちゃんと前へ。
どんなふうにしろどんな方法にしろ。もうその道しか歩む道はないように思った。
行ってはいけないところ。それはどこだろう?
そうしてその道の向こうで。まるで蜘蛛の糸のように待ち受けている現実のことを。
わたしは知らなかった。それがそのひとだけを雁字搦めにしてしまうことを。
蜘蛛の糸は『おとな』に似ている。無邪気だけがとりえの生きるものたちを。
それはいつもそこで平然としながら待ち構えている。捕らえたいのだろうか。
思い知らせたいのだろうか。諭したいのだろうか。消化してしまいたいのだろうか。
常識を重んじ。世間をひどくおそれ。ささやかに生きるものたちを束縛したがる。
そのひとは急に無口になった。そうしていつもこっそりと微笑むことをおぼえた。
5メートル後ろを歩けと命令することもあった。背中は背中というものはすこし。
さびしい。けれど北風に立ち向かうように歩くその後ろ姿が。好きだなと思った。
もう今までとは違う。きっとそれは私が巻き起こした冬の嵐のせいなのだろう。
そのひとは野球部の練習にしばらく参加させてもらえなくなり。私はというと。
私には何の処分もなかった。あるのは白い眼だけだった。誰かがささやいている。
よそよそしい風ばかりがいつも吹いている。友達は。同じクラスではなかったせいで。
なんとなく知っているのだけれど。なにも訊こうとはしなかった。
私のカタチを信じてくれる。詮索をしない干渉をしない。それが友達だった。
いつだって待っていてくれるのだ。けれど私はそこに向かわない。向かえない。
それが私なのだと。困惑をしつつ心配もしつつ。いつだってそっとしておいてくれるのだ。
私は孤立が嫌いではなかった。そして孤独はもっともっと好きだった。
立春の頃になると。海がとても優しくなる。海鳴りの聴こえない夜が幾日も続く。
なにを想って。誰を想って眠っていたのか。いまは何も憶えてなどいないけれど。
私は決して憂鬱ではなかった。いちにち一日に栞を挿み忘れたのかもしれない。
ここだとかそこだとかが。はらはらとおちていく。捉えどころのない空白の日々だ。
そんな頃『卒業生を送る会』そういうのをみんなでがんばろうって言う。
演劇をするのだそうだ。どんなのなのかちっともかいもくけんとうもつかない。
とうとう・・って思った。ついにその季節が来たのだと思った。
ひどくきんちょうをする。だけど私に何が出来るのだろう。何をすればいいのだろう。
わたしはもっと孤立していたかった。もっと孤独でありたかった。
それはほんとうに思いがけないことだったのだ。
もう孤立はさせないとみんなの眼が向かってきた。おまえ以外に誰がやるんだと。
口にこそ出さないけれど。気がつくとクラス中の眼がとても優しく微笑んでいる。
すくっとなった。わたしがうつくしいと信じていた風景は。自身の殻から見えた。
私だけに見えたそのひび割れた曲線の。幻想的な自傷めいた断層の波紋だったのかも。
しれない。
そのひとが言った。「これで決めろよ」と目だけの声で私に言った。
そうしてあの時と同じように教壇に駆け上がるようにして声を張りあげては。
そのシナリオを私に任せるのだと告げた。反対の者はいるか?って皆に問う。
誰ひとり反対はしてくれない。わたしはもうどこにも逃げられはしなかった。
これで決めるのだ。もうほんとうにこれがすべてなのだと思えるようになった。
その夜から何かに憑かれたようにシナリオなるものをせっせと書いた。
フォーク歌手を目指す18歳の少年の物語だった。彼は東京へ行くのだ。
主人公はクラスいちギターの上手いマサヒロ君。私はどうしても主人公の母親役。
例の彼は少年のお祖母ちゃんの役。とても愉快な樹木希林風のお祖母ちゃんだった。
そしてとうとうその当日。客席はとても暗くて。見えないことにとてもほっとする。
そのかわり舞台は照明でまばゆいくらいに明るかった。よっしやるんだって思った。
母親はアドリブをいっぱいする。みんながそれに咄嗟に応えてくれてなんとも楽しい。
母親は本物の庖丁までとりだす。和服の胸のところからそれをキラリと見せては。
「わたしを殺しなさい!殺してから東京へ行きなさい!」って叫んだ。
お祖母ちゃんがびっくりして転げまわる。早く幕をまく〜!と舞台係が焦りまくる。
そのようにして終った。ほんとうにきもちよく終ったのだ。
終るとは完璧なほど心地良いものだと。わたしはとても満足していた。
わたしはこのように傲慢で。かつほんとうに身勝手な生き方をしてきた。
そのひとはそれを最後にどんどん遠い存在になってしまったのだけれど。
わたしはすこしだけうらんだ。感謝の気持ちなどこれっぽっちもなくて。
わたしの好きなものはそうして去るものなのだと観念するように思った。
そのひとは私だけを空に逃がし。じぶんは蜘蛛の糸の犠牲になってくれたのだ。
彼の家庭環境や。どうしようもない差別のせいでひどくひどく傷つけられながら。
そのことを私に告げようともせずに。彼は『おとな』に消化されてしまったのだ。
わたしが。その真実を知ったのは。それから15年も経たおとなの頃だった。
「おまえの親父さんは、ほんとに怖かったぞ・・」って彼がおしえてくれた・・。
その日わたしは。ずっとうつむいてばかりいた。どうしてもどうしてだか。
顔をあげてまっすぐにそのことを見ることが出来なかった。矛盾している。
と思った。わたしは歩んだ確かに。もうそこになんかいられないくらいずっと。
はるかなところに立っていた。けれどわたしの心はどこに行ってしまったのだろう。
痛いのはなぜだろう。いったいなにが疼いているのだろう。ココハドコダロウ?
去るものはいつだってうつくしい。あえて言おう虚くしいのだといおう。
むなしいのではない。かなしいのでもない。断絶でも終局でもないそれは。
とても心細くそこにあった。まるで吹き消されてしまった蝋燭から湧く煙の。
その息の根が微かに音を吐き。そうしたあとに訪れるべき静寂のかたちだった。
卒業式が終った。それはほんとうにもうモドレナイという儀式でもあるらしい。
それはとてもただしいことだ。戻ることをしないからひとはみな歩んでいける。
しらいし君はどこに行くのだろう。遠いほどいい。けれど知らなくていい。
知らないということで救われる時だってある。無関係なのだもう知らないとは。
わたしはからっぽになった。なんだか空洞だった。入り口があり出口があった。
風が何事もなかったかのように吹き抜けていく。冷たさを忘れようと努力する。
それは。不確かな春のはじまりの風だった。
そうしてわたしはすこしあるく。新鮮なくうきをすう。すってはいてまたあるく。
そしてひとにあう。どうしてだかいつだってひとにあってしまうのだ。
そのたびにまた渦が巻く。ぐるぐるとおなじことばかりをくりかえしていく。
とりかえしのつかないこと。それをみずからえらんでしまうのかもしれない。
そうして傷ついたふりをする。傷つけたことを知らずにまたひとを求めてしまう。
わたしはいったいなにが欲しくて。なにが足らなくてなにを望んでいたのだろう。
また夏が来る。蝉の声を聴いたのだろうか。海はどれほど輝いていたのだろうか。
きゅうくつな夏だった。そこはひどく息苦しい夏だった。
これは感傷なのだろうか。もうとっくに過ぎ去ってしまった夏がここにある。
けれどもそれが遠いからといって。遠くのままに置き去りにしてはいけない。
漠然とそう思ったのだ。わたしは埋めたのだ。わたしの手でそこにわたしを。
もがきながら泣き叫んでいたように思う。その声が確かに聴こえたように思う。
わたしはわたしを生き埋めにした。それはわたし以外にはいない。
そうして走り去った。どれほど走ったのだろう。いくつもの夏が。
そこに積もった。見て見ぬふりをするのとは違うのだ。それこそが。
忘れ去るということではないだろうかと。わたしがそう決めたのだ。
だけど死んでなどいなかった。わたしはずっとそこで息をしていた・・・。
いま。わたしは打ちのめされている。わたしがわたしを打ち止まないのだ。
ひどく懲らしめられている。嘆けば嘆くほどその打つ手にちからがこもる。
逃げてしまえたらどんなにからくになるだろうと。いま思っている。
書く事が苦しい。たすけてほしい。わたしはどうすればいいのだろう。
収拾がつかなくなった。けれどなんとしても決着をつけたくてならない。
またこの手で埋めてあげればいいのだろうか。ほかにどんな手段があるだろう。
打ち続けるその手を振り払うことが出来ない。突き放すことがどうしても出来ないでいる。
その夏。それはおそらく青春となづけられる最後の夏だったのにちがいない。
思いがけずしらいし君にあった。大学の夏休みで帰郷しているのだという。
友達が路地を走って知らせに来てくれた。「はやく、待っているからはやく!」
わたしは。わたしだって走って行きたい。ほんとうに心からそう思った。
けれど思うようにはいかなかった。私はもうすでに籠のようなものの中にいて。
外から鍵をかけられているような窮屈な場所にとらわれていた。好きこのんで。
そうだった。それは自分からとび込んでしまった場所だったのだ。誰のせいでもない。
愛されるとはそういうことだと決めつけていたのかもしれない。
束縛されたかった。そうして保護されることで満たされたかったのだろうか。
懇願をする。命乞いするかのように手をあわせた。
どうしても行かなければいけない。必ず帰ってくるから「いかせて」と。
走った。飛べないのだもう。空はとてもとても遠いところにある。
しらいし君は。まぶしそうに目を細めた。そうしてふっとまぶたをとじた。
両手の指を絡めるようにしながら。その指先が微かに震えているのがわかった。
それからすぐに哀しそうな顔をしてみせた。わたしがもうわたしでないことを。
すぐに感じてしまったのだろう。「もう遅かったのかな・・」って呟くように言った。
遅かった・・ほんとうにそれは遅かったのだろう。
だから。だからどうすればいいのだろう。もう修正がきかない。
けれど。間違ってはいない。それが現実というもののカタチなのだから。
わたしはいつも与えられることだけを望んでいたように思う。
それはいつも。いつだってじぶんに同情してばかりいたからではないだろうか。
それを当然のことのように思っていたから。すこしもありがたみを感じずにいた。
思い通りにならないから。絶望して死んでしまいたいとさえ思ったのだ。
「死にたければ はやく死ね」と。
わたしを打ってくれたひとがいた。
そのひとの痛みも知らず。その恩さえにも気づかずにいて。
わたしを突き放してくれたひとがいた。
わたしを救ってくれてそして傷ついて。
けれど恨み言ひとつ言わずに。
それからもずっと見守ってくれたひとがいた。
わたしを思い出してくれたひと。
わたしに会いにきてくれたひと。
遅かったのは。あなたではない。遅かったのはわたしそのものなのだ。
ありがとうって。ありがとうを。こんなに遠い夏から伝えたくてならない。
わたしを打ってくれたひとは。二十歳で死んだ。
ある夜クルマに轢かれて死んでしまった。
まるで自ら死を選んだかのように。
泥酔したまま車道で眠っていたのだそうだ・・。
もうもどれない遠いところ。けれどもわたしは還ることが出来た。
これは感傷ではない。これは後悔でもない。これがわたしの記憶なのだ。
あした。あさって。ずっと。
永遠とは。わたしの魂の記憶になり。どれほどの時も越え続けるだろう。
またあえる。きっとあえるひとたちが。
そこでわたしを待っていてくれる気がする。
・・・完・・・