法紀(のりのり)教授の研究室
  
   
宇野眞和
  
   
   法学部の法紀(のりのり)教授は、刑法学を担当している、この大学で二番目に若い教授だ。ちなみに一番若い教授とは歳が二ヵ月離れている。法紀教授はつい先ほど教授会を終え、研究室に戻ってきたところである。彼の研究室は総合研究棟の四階にあるため普段はエレベータを使用しているのだが、運悪く調整中だったので、仕方なく階段で上ってきた。だから今はとても不機嫌である。教授はふちなしメガネの中心部を指で押し上げた。
  (だいたいエレベータが一つしかないのが問題なのだ。いらないところに予算を使う余裕があるのなら、まずは周りの環境を整備すべきだ……)
   法紀教授は自分のデスクに向かうと、目の前のパソコンのスイッチを入れた。立ち上がるまで時間がかかったので、天井を見上げて待った。そのあと壁にかかってある猫型の時計に目を移す。
  (あと四十五分で次の講義か……。今日は十分ほど遅れていこう)
   ポーンという軽快な音とともに、デスクトップの画面が表示された。が、まだマウスポインタの時計が表示されていたので、次の行動に移るのには時間を要した。ようやく時計が消えたので、メールソフトを起動し、メールのチェックにかかった。二十通ほどメールが届いていたが、面倒くさいので読むのは後回しにした。次にワープロソフトのアイコンをダブルクリックし、今朝書きかけていた新しい論文の下書きを呼び出した。ひと通り目を通して、漢字の変換間違いが二ヵ所あるのに気づく。
  (このままにしておいてもおもしろいかな……)
   一瞬考えたが、一ヵ所は直し、もう一ヵ所はそのままにしておくことにした。発表したとき、何人に指摘されるかが楽しみだ。
   法紀教授は会議に行く前、コーヒーを飲みかけていたのを思い出した。デスクの後ろの出窓に置いたまま出かけてしまっていたのだ。教授は半分ほど中身の残っているコーヒーカップを手に取った。
  (まずい……)
   冷めたコーヒーはアロエを生でかじったように苦かったが、従来の貧乏性がたたって、全部飲み干した。そのあと、教授はパソコンをいじって、大学のネットワークにログオンした。UNIXを介してカレンダを見る。三日後にまた会議の予定が入っていた。今月に入ってもう四回目である。くだらない。せめて紅白にわかれて点数を競い合うような構成にすれば少しはおもしろくなるだろうが……。
  (そうだ、今日の夕食はパスタにしよう)
   そのアイディアが出たとたん、教授の顔には笑みが浮かんだ。日常生活において食事ほど斬新な変化と発見が難しいものはない、というのが彼の持論だった。
  (次の講義まであと三十分。……十五分遅れていこう)
   法紀教授は時間までネットで情報収集でもしようかと考え、ワープロとメールのソフトを閉じた。そしてブラウザを起動させる。
   そのとき、ドアをこんこんとノックする音が聞こえた。
  「はい、どうぞ。開いてます」
   教授はデスクに向かったまま応えた。すると静かにドアが開いた。教授はドアを開けた人物が誰であるかを見た。
  「失礼します」
   それは法紀教授のゼミ一回生・江槌里奈(えづち りな)だった。髪の長い、細身の女の子である。彼女は、部屋の入り口に立ったままだった。
  「江槌君か。何か用事か?」
  「はい……」
   里奈は小さくうなずいた。
  「入ってきなさい」
   教授が促すと、里奈は静かな足取りで部屋に入ってきた。教授はパソコンをスタンバイ状態にした。
  (遅刻は二十分だな……)
  「そこのソファに座りなさい」
  「はい」
   里奈が座ると、法紀教授も自分のデスクを立ち、彼女に向かい合うようにソファに座った。
  「どんな用件だ?」
   教授が問いかけると里奈は少し困ったような顔をした。
  「あのう……」
  (今日の講義は休講だな)
  「どうした?」
  「実は……ちょっとご相談したいことがあるのです」
   美奈は、小さな声で話す。ゼミのときでもそんなにおしゃべりな子ではない。どちらかと言うとおとなしい、清純な感じである。
  「なんだ?」
  「はい。本当なら、警察に相談するべきなんでしょうけど……」
  「なら警察に行けばいい。私は捜査機関ではない」
  「はい、そう思ったんですが、できるだけことを大きくしたくなくて……」
  (内々に、か……)
  「どんなことだ?」
  「はい、実は」里奈は眉根を寄せながら話しだした。「最近に始まったことなんですが、あの、誰かにあとをつけられているような気がするんです……」
  「ストーカかい?」
   里奈ははっと教授の顔を見たが、すぐに小さくうなずいた。
  「はい――そうなんです」
  (今日の彼女の服は赤系統が濃いな……)
  「しかし、ストーカならばなおさら警察に相談した方がいいと思うのだが」
  「はい。でももし私の被害妄想だなんて言われたら、なんて思うと……」
   里奈は指をもじもじさせ、いかにも不安げな表情を浮かべていた。
  (もしガードレールが全部紙粘土でできていたらどうなるだろう?)
   法紀教授はふとそんなことを思いつくと、くすっと笑った。いや、笑ったつもりであり、実際に表情には出さなかった。
  「なるほど。それで、君は君のあとをつけまわす恐怖の追跡者の姿を実際に見たことがあるのかね?」
  「はい。一度だけ」里奈は小さく深呼吸した。「帽子をかぶって、サングラスとマスクをした、背の高いコートを着た男の人でした」
  「典型的な変装だな。その男は、どのような時間帯に現れるのかね?」
   里奈は小首をかしげて少し考えた。
  「ええと……だいたい、私が家に帰る時間です。たぶん大学の前で待ち伏せているんじゃないのかと……」
  (そう言えば正門の前にある柱は邪魔だ。いつも車を入れるときに障害になる。今度撤去の意見書を出そう)
  「では、ある程度君の生活状況を把握しているものの仕業だな」
  「ええ、たぶん……」
  「その男は君のあとをつけるだけなのか?」
  「はい。特に接触を持とうという様子はないみたいなんですが、気味が悪くて……」
   パソコンのファンが回る音がした。マシンの熱を外に放射しているのだ。教授はこの音が好きだった。いかにも機械っぽくて心地がよくなる。ただその空気に触れるのだけはごめんである。
  「君が大学から帰る時間というとだいたい何時くらいだ?」
  「夕方の六時すぎくらいです。日によっては変わることもありますが」
  (夕方のニュースが始まるころだな)
   教授は帰宅するのはだいたい七時前である。
  「その男は、毎日君をつけるのかね?」
  「ほぼ毎日です。たまにいないときもあります。そのときは安心して家に帰れるんですが……」
  (スペアのメガネはどこにしまったのだっけ?)
  「その男があとをつけだしたのはどのくらいの時期からなのだ?」
  「私が気づいたのが一ヵ月くらい前からです。でも、ひょっとしたらそれ以前からつけられていたのかも……」
  「男は君の家までついて来るのか?」
  「いえ、そういうわけではないんです。私が帰る途中に駅があるんですけど、その駅の前に来ると、いつのまにかいなくなるんです」
  「なるほど、駅までのストーカか。君の勘違いというわけではないのか?」
  「はい、最初は私も考えすぎかと思ったんですけど、でも偶然にしてはあまりにもできすぎていて……」
   法紀教授は窓の外を見た。大学のキャンパスが見える。毎日変わらない、同じ風景だ。無機質で飾り気がない。教授はその素朴さが好きだった。
  「ふむ……ところで、君はご家族とは同居をしているのか?」
  「ええ」
  「では、この件に関してはもう?」
  「それが、話すと余計に心配をかけてしまいそうで……。それに……」
   里奈は口を閉じた。教授は先を促す。
  「それになんだ?」
  「ちょっと前から父とけんかしているんです」
  「お父さんはサラリーマンか?」
  「はい。そうです」
   教授はメガネを指で押した。
  「では、君がお父さんにストーカのことを話したら、もう現れないだろう」
   里奈は驚いて目を見開いて教授を見た。
  「えっ? 何ですって?」
   教授は平然と話しを続ける。
  「ストーカの犯人は君のお父さんだ」
  「どういうことなんですか?」
  「君がストーカにつけられているとしたら、君はご両親にそのことを打ち明け、お父さんと話しをするきっかけを作れる。お父さんはそう考えたのだろう。つまりは君と仲直りがしたいのだよ」
   里奈は信じられない様子だった。
  「でも、そんな……」
  「君の帰宅時間の六時と言えばちょうどサラリーマンの帰宅ラッシュでもある。きっと会社の帰りに変装をして、君のあとをつけていたのだ。たまにストーカが現れないときがあったというのは、お父さんが残業か出張で君をつけられなかったんじゃないのかな? 思い出してみなさい」
   里奈は呆然としたまま教授の話を聞いていた。教授は続ける。
  「それに、君がつけられているのが駅までというのは、お父さんが駅のコインロッカにでも入れてある普段着に着替えて、変装用の服と道具を預け、家路につくためだろう」
   里奈はまだ信じられないというような顔つきだった。
  「とにかくお父さんと話しをしてみなさい。それでもストーカが続くようなら、つまり、お父さんが犯人ではなかったのなら、また相談に来なさい」
   里奈は小さく「はい」と返事をすると、礼を言って教授の研究室を出た。
   法紀教授は里奈が出て行くと、自分のデスクに戻り、パソコンをスタンバイ状態からビジィ状態に戻し、ウェブブラウジングにかかった。しかし十分くらい経つと、今が講義時間内であることを思い出した。
  (……面倒くさいが、まだしばらく時間がある。仕方がない、講義に行くか……)
   法紀教授はアプリケーションのウィンドウをすべて閉じると、パソコンのスイッチを切り、立ち上がった。教授は手ぶらである。いつも何も持たずに講義をする。それが彼の主義だった。エレベータが調整中であることを思い出すと、小さくため息をついた。
  (また階段か……)
   そして、ゆっくりとした足取りで研究室を出た。