呪われた車


一九一四年六月二八日、セルビアのサラエボで オーストリアの皇太子である フランツ・フェルディナント の歓迎パレードが行われた。 使用された車は グラフ・ウント・シフト、当時では最新でもっとも豪華な車であった。 皇太子は後部左側に、その横に皇太子妃が座った。 前のシートにはボスニア知事と車の所有者、ハラック男爵が座っていた。
このパレードは多くの暗殺者に狙われていた。 車が議事堂に接近した時、ひとりの若者が爆弾を投げつけた。 暗殺は失敗に終わり、パレードはそのまま続けられた。 その数分後、無政府主義者の ガブリオ・プリンチップ の放った弾丸が皇太子の喉を射抜き、彼は帰らぬ人となった。

第一次世界大戦が始まる前日、世に言う サラエボ事件 である。

皇太子がパレードに参加するまでにも色々と奇妙な符合が存在していたようであるが、今回の話はパレードに使用された車の方である。 この中でハラック男爵だけが知っていた。 この車は今までに二人をひき殺し、運転手も重傷を負っていた事があるのを。

戦争が始まり、ハラック男爵は軍隊でもこの車を使用した。 しかし、この車を使用した将校が三人、敵の待ち伏せにあって殺されてしまった。 さすがにハラック男爵も気味悪くなり、二度と使うまいと車を納屋にしまい込んだ。
やがてこの車はセルビア政府の要人に買われた。 一九一九年、この車は汽車にぶつかり、彼は車から放り出されて死んでしまった。 しかし、車の方はほとんど無傷だったのだ。 彼の親戚は車を処分しようとしたが、ある医者がぜひ譲ってほしいと買い取ってしまった。 彼もまた事故で死んでしまった。 何でもない場所で突然 車が横転し、下敷きになったのだ。
次はスイスのレース選手がこの車を手に入れた。 彼は車を造りなおし、オルレアンで行われたフランス自動車クラブレースに参加した。 車は順調で 第三位まで順位をあげたが、その時 突然コースを外れて溝に飛び込んでしまった。 今度もまた車はほぼ無傷だったのだが、運転手は即死だった。
次の所有者はパリ郊外に住む農夫だった。 二年後のある日、彼は市場に向かおうとしたのだがエンジンがかからない。 彼は車を調べる為に車の前へと移動した。 すると突然 車が動き出し、彼をひき殺してしまった。 家族の者はすぐに安い値段でこの車を売り払ってしまった。 だが、そこでもこの車は事故を起こし、四人の乗客と所有者を殺してしまった。

最後の所有者は 車をストラスブールのガレージに入れたままにしてしまった。 新しい買い手も現れず、時が流れていった。 そして第二次世界大戦の時、多くの死をもたらしてきたこの車は 連合軍の爆撃にあい、その歴史の幕を閉じた。