KIDS

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 関係ないようですが、みなさん、「動物占い」はお試しになられました?
 我らが玉木宏はそれによると・・・フフフ、笑えます。
 ラクダでも、鹿でもないんですが・・・・じゃ〜〜〜ん、「羊」です。
 特徴もぴったり、ひたすら笑える、あははのは。

 さて本作は:
 1995年度作品
 監督:ラリー・クラーク監督
 脚本:ハーモニー・コリン

 お気づきのように10年以上前の作品。玉木氏はリアルタイムで観られたわけじゃないでしょうね。今度の荻島監督の映画が観るきっかけになったのか、と勝手に(笑)推測できます。

 私、ラリー・クラークではぴんと来なかったのに、ハーモニー・コリンで「お!」と思いました。ヴィム・ヴェンダース(映画『パリ、テキサス』)つながりで聞いたことがある・・くらいなんですが。やはりこの映画、ニュー・ジャーマン・シネマの系譜上にあるかと思われ。

 手持ちカメラのぶれもそのまま、ピントのずれもそのまま(しかし色はひたすら美しい)、録音のノイズ・リダクションもかけずにそのまま、反響音・残響音、なんでもござれ。素人が撮ったドキュメンタリーのようなタッチと、口ごもるような登場人物のしゃべり方。
さらに室内セットに充満する生活感。

 まさに「生の」リアリティーなんです。

 玉木氏がよく使う言葉、「リアリティー」は、突き詰めてしまえばこんなに生々しいグロと悲しさに満ち溢れた世界になってしまわなければならないのか   そんな映画です。

 雑誌『CREA』で、担当Kikuchiさんの解説によれば彼はこう言ってます(以下、引用)
 「登場人物がエイズに感染することで本当の愛ってなんだろうって考える」
 これは明らかに言い過ぎです。というか、「考える」の主語は彼自身なんでしょうか?
 この映画では誰も何も「考え」ず、エイズにも無頓着で、「愛」の微塵も描かれてません。
 しかし「あなたにとって『究極の愛』に目覚めた映画とは?」と訊かれてこの作品を答えた俳優・玉木宏の感性に脱帽です。

 この映画のテーマは「セックス」そのものなんです。
 でもやはり、セックスの根っこにあるはずの「愛」を考えずにはいられませんから。

以下、ネタバレ:
 初っ端からディープ・キス。それも汁ッ気たっぷりの果実をむさぼるようなキスがえんえんと。このキスの一方の主、ヴァージン・キラーの主人公テリーはどうみてもミドル・ティーン、あどけなさの残るアホ面でユダヤ系とおぼしきご面相。お相手はまあ何て可愛らしい、ブロンド・ロングヘアでこれまたあどけないドール・フェイス。

 このお人形ちゃんをテリーは巧みにくどく。「心配しなくていい」「痛くないから」

 で、めでたく合体。 
 修行僧のような面持ちで(ほんと、痛々しいくらい、色気もエロ気も全然nothing。)ズコズコやってるテリーの姿にモノローグがかぶさる。
 「ヴァージンは最高」「病気もないし、アソコも臭くない」

 一仕事終えたテリーはダチ・キャスパーと合流して飲み物をサクッと万引き。
 アジア人の経営する店の店主も店員も、気付いても彼を追わない。
 そのけだるい諦念をカメラはちゃんと捉える。

 ゲットーのようなアパートに集まり、セックスの話に盛り上がってみたり、公園で群れてドラッグをやってみたり、仲間の一人を半殺しの目に遭わせたり、家に帰れば、ベロンとおっぱいを引っ張り出して乳飲み子に乳をやっている疲れた母親に遊ぶ金を無心するテリー。

 一方、もう一人の主人公ジェニーを含む女の子たちも、誰かの部屋に集まってあっけらかんとセックスを語り合う。「フェラはいやよ」「あの味がいや」「飲み込めば味はしない」
 その内容の赤裸々さを狂気じみていると感じるのは時代錯誤か。
 
 ここで1989年のロブ・ライナー監督の『恋人たちの予感』のワン・シーンを思い出さずにいられない。「セックス抜きで、男と女の友情は成立するか」が真面目にテーマになった映画だったが、問題はヒロインのメグ・ライアンがレストランで女友達と「絶頂」を実演してみせたシーンだ。
 「何てサバけた国なんだろう!」 そう、私は思った。

 しかし、「セックス抜きで、男と女の友情は成立するか」がネタになるのも、もはや昔日のアメリカ。この国の文化の爛熟は高速で思考停止に向かっている。もう、「サバける」なんてレベルではない。おまけにそれを対岸の火事と眺めている場合でもないらしいのだが。

 そしてそんな火事場にいるコドモたちの姿を描きつつ、クラーク監督のカメラは自らのメッセージ(そんなものがあれば、だが)を声高に叫ぶ、というわけではない。
 コリンの脚本も、登場人物に彼らの心のうち(そんなものがあれば、だが)を語らせない。因みに彼らの台詞のほとんどは子役たちのアドリブのはずだ。

 ひたすらひたすら、たんたんとセックス、そしてドラッグの快楽を追い求めるこの子たちを、カメラもひたすらひたすら、たんたんと追う。
 
 しかし、どういうわけか、地下鉄構内、そして車内でテリー&キャスパーが遭遇する盲目のアコーディオン弾きと自閉症児らしきその息子、そして両手を松葉杖のように使いながら器を片手に物乞いに廻る下半身のない男の姿に、何と、キャスパーが何がしかの「人の心」らしきものを感じるのだ。 このシーンはさらっと撮られているにもかかわらず、後でズンと来る。

 ここで、肉体にハンディを持つ人たちの姿をテリーたちと並べることで、テリーたちも(シェークスピア風に言うと)「すべて女の腹より生まれ出し生身の人間」であることを思い知らされる。ああ、正真正銘、健康に生まれたはずのこのコドモたちの肉体は知らず知らずのうちにエイズとドラッグに蝕まれていくのだ。

 そう、運命は時に皮肉なもの。あろうことか、セックスの経験はテリーとの一回だけのジェニーが、友人に付き添って「ついでに」受けたエイズ検査で「陽性」と診断されてしまう。

 ジェニーはテリーを探して彷徨う。彼女の目的が何なのかも、やはり語られない。ただその暗い瞳と「死にたくない」という呟きを、カメラを通して目撃させられる。
 痛いシーンだ。

 彷徨った先で無理やりドラッグを飲まされ、朦朧とした頭でやっとテリーの居るアパートの一室にたどり着いたジェニーが見たのは、マリファナを廻し飲みしてつぶれた10歳にも満たない子供たちと、足元に折り重なる無数の半裸又は全裸の肉体と、新たなターゲットの女の子を我が物にしているテリーだった。

 うなだれて、ソファーに沈み込むジェニー。
 起きて来たキャスパーはそのままジェニーの身体を貪るのだった・・・。

 ここでカメラは紛れもないニューヨークのダウンタウンを映し出す。
 下ろされたシャッターの前にくず折れるようにしゃがんだホームレス、
 公園の木陰で太極拳にいそしむ腹の出たWASP系の男・・・
 光景はごくごく日常的だ。

 ラストシーン、
 何を知ったというのだろう、呆然とした顔のキャスパーがカメラに向かってつぶやく。
 “Jesus, Christ, what happened? ” 「マジかよ」
 お節介からは程遠いその訳が素晴らしい。
 軽薄と無知と堕落は時に同義に違いないのだ。

 どうだろう。
 この映画に描かれた世界の、本当は一部でなくてはならないはずのもの、
 なのに遥か彼方に切り離されて泣いている実体
          「愛」の姿を見定めることができるだろうか。

Tamaki Hiroshi fansite HOLIC