KIDS![]() 《公開》2008年2月2日 東映 《監督》荻島達也 《出演》小池徹平 玉木宏 栗山千明 《HP》 1.ちょろっと感想(ネタバレなし) 『KIDS』、観てきました〜。 「超能力で傷を移動させることができる」・・・って、正直、心のヒンマガったワタシがその設定を受け容れられるか?ってのがビミョーだったんですが、・・・・やっぱりそこは無理でした。 「これは喩え話なんだから、ファンタジーなんだから」って必死で自分に言い聞かせながら、結局最後まで行ってしまった。 一方、映像の美しさや時折の含蓄ある台詞は素晴らしかったです。 おまけに役者陣の演技が出色。 玉木ファンとしては、彼の芝居にも今までにないような側面と底力を発見でき、頼もしいとしか言いようがない。 何より、素晴らしい変貌ぶりには驚嘆。 何せ、ワイルド・タケオのビジュ&キャラがまっこと、好みだ! 一瞬で陥落〜! 二の腕や背中がなんともおいしそう(笑)。 喧嘩場面ではナイス&タイトなボディがしなうような動きをふんだんに見せてくれるという、ごちそう三昧。 おまけに声音が「信長風」である以外は、これまでの作品の中で一番「素玉」(うどんころ、みたいだ・笑)に近いんじゃないかな? 特に、優しげな表情、自然でソツのない立ち振る舞い、身にまとった超俗的な空気感はファンイベでの姿と重なりました。 それに! フォークリフトが似合うぜ! 玉ちゃん、愛車にど〜よ? (笑) それからどうしても触れておきたいのは斉藤由貴演ずるアサト母の凄み。 人の子の親として、心にズシンと来ました。 後で読んだパンフレットでは原作者がトリイ・ヘイデンを薦めていたので、これが何の「喩え話」か分かった気が。 ただの博愛精神過剰な子じゃなかったのね。 「しまった!」と思いましたよ。 予想よりも遥かに「深い」映画だったことを付け加えておきます。 観終わった後にその「深さ」がヒタヒタと来ました。 さて、これから何回観に行くかな。そして何回泣くのかな & 何を考えるだろう。 まずはこの映画の感想をこんなところで。 2.真剣な?感想:ネタバレ・前篇 ところで『鹿男』、3話目ぐらいまでは正直言って「小川先生、『きゃわい〜い♪』ぐらいしか言うことがないわ〜、他の魅力がないわ〜、つまんない男だわ〜」って思ってたんです。 が、4話目から見所が出てきましたね〜♪ 藤原先生のまっすぐな姿勢を目の当たりにし、自分を省みているかのような小川先生。 「大和杯、取りに行きますから」という堀田イトの力強い言葉に打たれた小川先生。 よかった〜 「男」になってきた。 やっぱり玉木流の例のあのグラフを頭に思い描いて演じてるんですかね。 実感! やっぱオモシロイじゃん!このドラマ。 そんな『鹿男』の小川先生のヘタレな姿とは対照的な「つまんなくない男・代表」ガテン系タケオを玉木が演じた映画『KIDS』。 これも正直申しまして、初回観たときは途中まで全く真剣に観てませんでした。 ハイ・懺悔。 何せ、邪念、雑念、エロ念・・・・ スクリーンに 惜しげもなく! めくるめく! 素肌、玉肌、エロ肌・・・・ (↑ほら、3個目はワンパターンですから・汗) ほどよくお肉の付いた真性色白の二の腕やら、 数学史上最も美しい(←意味不明)逆三角形の背中やら、 乱暴されて洩れ出る「っう゛〜っ」っていうエロい呻き声やら、 (↑もう「エロ」言わないと気がスまなくなってる・笑) ・・・って、相変わらず何をネチネチ描写してるのか?と(笑)>自分 でも監督だって狙いましたよね〜、あのシーン。 ほれ、背中の傷をタケオが鏡で確認するとこですよ、 あれはずばり、「エ□」狙いだっ!(スパっと断言!) (↑ 四角=□で伏字にしても意味ないし!) でなきゃ、ナニ? あの部屋の無意味な暗さ? あの無駄にチラ見せ的な不自然な照明? スクリーン一杯のドアップは? ありがたや〜 誰かさんの顔にかかった髪の垂れ下がり具合、 半開きの!ぽってりした唇・・・ はぅ〜〜ん おまけに自分も喧嘩シーンではつい 「やった〜、チンピラ、キタ〜〜〜〜〜〜ッ!!!!!」 ってワクワクしてまして(汗) そんな玉腐ァンの期待に沿うべく!(??????????????)、 スクリーンでのたうちまわる玉肢体・・・・ (あ゛〜〜、「のたうちまわる」って、「肢体」って、言うてしもた〜・嘆) いやあ〜、あの長身でのアクションって、見応えがある上に独特なイロ気が・・・ ってどこまでソノ線を引っ張る気か! ・・大体ワタシは一体ドンナ映画を観てるつもりだったんでしょうか?(恥) 一応(笑)、喧嘩シーンのBGMのせい、・・・でしょう・・・(←無理やり) 無駄な色気もアリの任侠モノ(笑)サウンドだもん。 も〜〜ワクワク!(←だからアブナイって・汗) そんなわけで、玉木映画は玉木腐ァンには1回では理解不能。 ついつい、 「あ、足の爪が伸びてるわ」(=車椅子で廊下を行くシーン)とか、 「目つきがエ□いわ」(病院で横に寝てるアサトを見つめてるシーン)とか、 「病院服姿が、露出した膝が、不思議にエ□いわ」(屋上のシーン)とか・・・ (また「エ□」ばっかりになってきたので、以下略・笑)。 イラんとこに注意が行ってしまって、ストーリーが見えない&聞こえない(苦笑) まずこの映画としての造りに対してイチャモンから。 残念な点がいくつか。中でも所謂「突っ込みどころ」が至るところにあるせいで、ノッてきたところで気分が萎えてしまいます。いちいち取り上げませんが、これは『ミッド〜』と同じ。初回観たときは中盤まで 「このファンタジーに入り込めないワタシって、どこまで性根が腐ってるんでショーネ?」 などとツマラナイだじゃれを考えて気を逸らしながら観てしまっていた。 そして玉ちゃん! (←名指しだよ、愛ある故の・笑) 事故シーンで叫ぶところ、重要な台詞のはずなのに何言ってるか聞き辛いよ〜!! ワタシは耳鼻科逝きか? (2回目で判明、「親に頼れなかったら、友達に頼れ!」だったかしら) そして突っ込みどころ以外にも、ところどころの脚本のダサさ&表現のクサさは「ダッセ〜よ!」とお笑いピン芸人のネタになりそうで、大真面目に作ってるスタッフの努力を考えると気の毒になりマス。 初めてアサトの能力を目にしたタケオの台詞「傷口が・・浅く?」とか、アサトの取って付けたような「えっ?」とか、事故現場の長い長いスローモーションとか。 突然シホがアサトと仲良くなってたりとか、突然、公園を整備し始めるタケオとか、突然、橋の上で脱ぎ始めるアサトとか・・。 「突然」が多過ぎるヨ! 余談ですが徹平君、“クマちゃん”の縫いぐるみのように意外にお肉がむっちり付いてますねえ。 (↑当HOLICの某スタッフにあらず・笑) もう少し痩身のほうが幸薄感が出てよろしかったかと。 でもどうやら作劇上、アサトには幸薄感よりも透明感の方が優先だったらしく、不感症に思えるぐらいに感情の起伏のない抑えた演技でしたね。ちょっと生身の人間としてはリアリティに欠けるんじゃないかと思いました。 そんなことを考えながら、「これは何かの喩え話だよねえ、きっと」と観ていたら 途中までてっきりアサトは病的に博愛精神過剰なだけ、とか、「天使だもんね、フっ、陳腐な話だ」とか思ってたのに、こうして目が醒めました。胃が痛くなるくらいに。 まあ、難しいことは考えずにサラっと流せばそれなりに楽しめるストーリーだとは思います。 撮り方もキレイなら、出てくる人たちもキレイ。あのダイナーもキレイ。 現実味のないくらいの映像のキレイさと、ヒネリのない展開、程よい(?)バイオレンス。 雰囲気だけを楽しもうとしても充分楽しめるはず。 でも単なる雰囲気映画では決してなかった。 そして動的な映像表現センスの点では稚拙さを否めないこの映画の深さを下支えしているのは、実は、技巧を凝らして造り込まれた雰囲気ではなく、登場人物の内面を見事に&静かに炙り出した俳優陣ではないでしょうか。 役者の存在って大きい (前篇;おしまい) 3.ネタバレ・中篇 恒例、まずは無駄話から。 『鹿男・第五話』、屋上のシーンです。 堀田イト「先生は大和杯、欲しくないんですか!?」 小川先生「欲しい!」 ・・・・・!!! この瞬間、TVの前で 「そんなこと言われてもぉ〜〜、でへ、でへ、で゛へへっ〜〜〜・・」 と照れていたカンチガイなワタシ。 ・・・あ、今、うっすらと殺意を抱きましたね? え? うっすらどころではない? 失礼、失礼。 で、本題です(汗)。 『KIDS』 “言葉は時折甚だ無責任に定義する” それを実感させられることが多々、あります。 この映画の原作者を乙一と知り、本読み友達に聞いたところ、アッサリ「ああ、ライトノベルの人ね」との答え。その口調は「安直なストーリー展開」と吐き捨てているかのようでした。他人の言葉を丸呑みにはしないけど、私ならやっぱり手を出さない分野の小説だなぁ。評して「せつなさの達人」だなんて、苦手だぁ〜〜、勘弁してくれ〜〜!(←ヒネクレもの) (ちぇっ、それを言うなら東京及び東京近郊以外在住の玉木ファンは全員、「せつなさの達人」だヨ!) しかしごく平凡な人々の日常は安直な展開そのもの。ヒネリも何もありませんよね。この映画だって、アサトの超能力騒動(?)を除けば感心するくらいに凡庸なストーリーじゃないですか。出会いと友情と、閉塞感と突破と。リアリティって結局そんなものかも知れませんが。 ところが、観終わってしばらくたつといろんなものがヒタヒタと押し寄せてきました。 それが何だろうと考えてみると、一つには「キャラの魅力」ってのがありました。実写にして&生身の人間が演じて、初めて浮かび上がるもの。 特に玉木ファンとしては、『ミッド〜』の落合役で感じた物足りなさがタケオ役で埋め合わされた感じ。 更に(登場人物の格付けの違いもあるんでしょうがそれ以上に)タケオのキャラが玉木自身の持ち味にピシっと嵌(はま)って共鳴した感じ。 残念ながらご本人は「作品中で『玉木 宏』として見られるのはヤだ」と語っています。 でも「ヤだ」と言われるともっとやりたくなる(←良い子はマネしましょう)のがドS(=ワタシ)の性分。この映画『KIDS』のなかでは「素玉」と思しき瞬間がふんだんにあって、それがタケオという人間を魅力的に見せていると感じました。監督が彼をキャスティングした理由には確か「身体の線のキレイさ」があったということですが、この監督は彼の見た目のキレイさ以上の「持ち味」に、撮ってる最中に気付いたんでしょうか、ちょこちょことあるアドリブらしきシーンのノリは完全に本人のものでしたよね。 <素玉観察ポイント、その1> 怪我をしたアサトに絆創膏を貼ってやってるシホ。突然イイ雰囲気になってるこの二人を交互に見つめるときの、ぬぼ〜っとしつつ幾分「キョトン」なタケオ。 この「ぬぼ〜」感は「素玉」のものだと勝手に思ってマス。 <素玉観察ポイント、その2> 公園整備中の三人。シホが青ペンキの缶を開けたときに飛び散ってタケオの顔に付いたそのペンキをアサトに付けて、「ダサッ!」と言う玉木タケオ。おフザケ絶好調です。 人見知りなわりには人なつっこいという不思議なキャラはタケオだけのものかしらん♪ <素玉観察ポイント、その3> 白樺高原でゴーカートに乗ってるときのタレメン全開&エクボ満開なはしゃぎぶりはどう見ても「素玉」。 後ろから追突しましょう(オイ・汗) <素玉観察ポイント、その4> 拘置所にいる母親に初めて面会に行くアサト。彼が「何て言えばいいか分からない」というと、タケオは「そういうときは自己紹介から始めればいいんだよ、そういう親子がいたっていいじゃないか」と。 いいじゃん、いいじゃん、玉木タケオみたいな友達! いい奴じゃん! <素玉観察ポイント、その5> 病院屋上で、シホに「戻ってきたのか、・・・バカだな」っていう言い方が、何とも力が抜けててカッコよすぎ〜!! ホント、憎らしい、憎らしい! 何やっても何言ってもサマになり過ぎだヨ! このあっけらかんと、さっぱりとした味。決して口達者じゃないこの人がポロっと吐く言葉の軽妙な味わいがオモシロい。これぞ「素玉」のオモシロさ、センスだと思うんですよ。 ああ、ワタシも「バカだな」って言われたい〜〜♪ それからもう一つ(って永遠に続いちゃうじゃないか!)。 連ドラ『のだめ〜』の千秋で、やたらチマチマ歩く人だなあ、と思っていたら、あの歩き方まで演技だったとは! そうよ、思い出すに素玉はタケオのあのカッコいい歩き方&走り方だった〜〜! 全国の偏平足の方々に勇気を与えるシーンです!(←・・・・汗) で、どうしてこんなに「素玉」を力説したいかというと、(狙ったことじゃないかも知れませんが)タケオがアサトに心を開いていってるプロセスを感じさせませんか? それも決してベタベタした友情じゃない。言うならば「カッコいい友情」。 もう一つ。タケオは単なるガテン坊やでもないってとこ。強い意志と洞察力、ウィットのある「自由人」な感じがしました。 「ろくでもない街」と言いつつ、そのろくでもない街の公園の整備を始めてしまう、ポエマーな「自由人」ぶり。 そして決して群れず、街のチンピラ相手にいつも一人のタケオ。 実はこれ、俳優・玉木 宏の持ち味だとワタシが勝手に思ってるものの一つ。 「孤高」 (中篇;おしまい) 4.真剣な?感想:ネタバレ・後編 またまたウダウダと四方山話から。 みなさま、『KIDS』鑑賞時に流れる系列映画会社の予告篇のなかに『スシ王子』があったのをお気づきになりました? その監督・堤幸彦さんは本『KIDS』の荻島達也監督の“師匠”でらっしゃいますが、いくら荻島監督ご自身が乙一のファンであっても、「アイドル映画」として企画されたことは隠しようがありませんねえ(汗)。 さらにこの監督が歴代助監督をつとめてこられたチームの面々を見ても、やはり「あらら〜」な顔ぶれ。 誰でも「オトナの事情」のために意に沿わぬ仕事をさせられるのは辛いものがあります。まあ、PV映画といっても『殴者』のような作家性のある作品もありましたが、この映画の中で“暗雷”までもが無駄に脱がされなくてヨカッタ(←半分ウソ、半分残念デス) ・・・という自分自身、あれれ〜? 中篇ではアサトとタケオの友情を中心に書くはずだったレビューが、いつのまにか素玉話に・・・(大汗) でもこの二人、一見するとタイプ的に友情が生じなさそうな組合せなのは確かに難点。 外見上はC3PO×R2D2(@スターウォーズ)みたいだ!(殴) やっぱり“元”肉食の鹿化俳優×その“M”マネのような ダブルC3PO が見た目にはしっくりくるわ〜(殴×2) まあ大目に見てもこの映画の中のタケオはアサトに対してアニキ分的友達なんですよね。それもまた、この二人の俳優の年齢差とキャラ差から妥当な線なのか。シホとの仲を取り持っているときの包容力あり過ぎな表情といったら! キャスティングの段階で無理やりな誤算(打算?)があったのかも知れません。 さてさて、映画ではこの三人の友情を描いたシーンはファンタジー=絵空事を思わせるキレイ仕立ての映像×現実感ないくらいの抑えた芝居なんですが、アサト&タケオの親子関係を描くシーンでは一転してモノクロ×生々しい人物像。 それでもこの監督はモノクロであっても輝度を抑えた映像にすることで、その残酷さ・陰惨さを和らげようとしたのでしょうか。しかしそのせいか、友情や絆というテーマに隠れたもう一つのテーマの印象が薄くなってしまったかと。 以下、今回はそのもう一つのテーマについて。 まずはアサトの「超能力で傷を移す」所業。 このアサトの純真無垢さに説得力を持たせる仕掛けがなされていないせいか、まずは彼の行為の動機、そして彼自身に感情移入できないことが映画として致命的かと思います(注:ワタシの性根が曲がってるせいかも知れません)。 アサトは「子供ってちょっとした傷が多いんだ・・・ほっとけなくって」という台詞で、「傷を自分に移す動機」を説明しましたが、初回鑑賞時、これでワタシはまず引きまくりですよ。「アホかいな」としか思えませんもん。 でも、でも! ですよ。家へ帰ってから「原作でも読もうっか」とネットで調べた各書店による原作(正確にはノベライズ本)レビューにはこんな記述が! 「・・・自らに傷を移し続けるアサト。それが彼の辛い過去への贖罪行為だと知ったタケオは・・・・」 あれ? アサトが行きがかりの子供たちの傷を爽やかなニコニコ顔で自分に移す行為を「贖罪」だと言ってるのでしょうか? それをリアルタイムで嗅ぎ取るのも、遡って「そういうことだったのか!」と合点するのも、難しくなかったですか? そもそも当初はアサトに「贖罪」の意識はなかったのかも知れません。なぜならこのアサト、タケオの傷をチンピラに移したことがきっかけで、かつて自分の母親に傷を移したことをフラッシュバックして衝撃を受けたかのようなシーンがあったからです。これは原作との齟齬でしょう。 事故シーン中のは確かに贖罪行為、それも自殺クラスの贖罪だと思いましたが。 おまけに、本作で「傷」は身体への傷という面と、心への傷という2つの面を持っていることを忘れてはならないと思います。 この「傷を移す行為」は、ときに「(心の)痛みの共有」の象徴でもあり、「傷も痛みも半分ずつだね」とは、「友情」そのものの姿であるはず。 更に、(映画では語られてませんが、おそらくはその特殊な能力or“普通でなさ”が原因で)ずっと友達がいなかったというアサトにとって、「痛みの共有」=「人とのかかわり・つながり」だったのかも知れません。つまり、人とのかかわりへの餓えを癒す手段であったとも取れます。もちろんそれは完全に一方的で自己完結的な行為なのですが。 とまあ、「傷を移す」という行為を多義的に捉えると面白いかと思います。ほら、タケオも事故のときに叫びました、「辛かったら友達に頼れ!」って(「親に頼れなかったら云々」じゃなかったわ、失礼失礼)。そうしてアサトの傷を半分、もらいましたよね。 ガマン弱いワタシはあのシーンで思いましたよ、「痛みを半分、引き受けてもいいような友達が何人いるかしら」って。 そんな訳で(どんな訳で?)友情が生じなさそうな組合せだとか文句タレておきながら、実は、この事故時のシーン、アサトのもとへ這っていくタケオの姿には、二人の間の友情の強さを感じていつの間にか感動しまくりのワタシなのでした。そうそう、ノベライズ本のタイトル『KIZ/KIDS』は「絆」の掛けことばにもなっていたんだった! この二人の絆は親からの虐待という共通の過去の事実に強められていた、というところでしょうか。 親子関係ってほんとに千差万別。 世の中には軽く“あイタタ”な親子関係から、親子間の“確執”レベルへ、さらには「虐待」に至るまでと、様々な親子の姿がありますね。 過保護や過干渉ですら子にとっては「傷」でしょうし、もしかしたら子育て自体が何らかの「傷」を子供に与えているのかも知れない。この『KIZ/KIDS』のタイトルからはそんなことまで考えてしまいます。 アサトとタケオに共通の「虐待」という過去。 でも実はそれだけじゃない。 アサトへの虐待の原因は“普通でない”ことでした。 この「普通でないこと」を更に深読みできることは、原作者ご推薦のトリイ・ヘイデンの著書を考えれば、そして本当の原作『傷』での二人の置かれた環境を知れば明らかでしょう。 そしてそんな「普通でない子供を持った女」の地獄の凄まじさは推して余りあるかと思います。 「化け物を産んだ母親」扱いした夫を殺し、ついにはわが子をあやめる。あげくにわが子に「おまえなんか生まれてこなければよかった」と言わしめる、その地獄を。だからこの女を一概に「非道」「鬼畜」と片付けることは私にはできません。 ともかくもそのアサト母を演じた斉藤由貴のド迫力の鬼母芝居には完敗・号泣しました。聖母のような柔らかな微笑みを投げ掛けていると思っていたら、みるみるその眼が死んでいき、アサトの手の届かない鬼の世界の人に変化していく・・ こんなふうに、幾重にも織り込まれたメタファーと赤裸々な肉声を映した台詞を思えば、優れたファンタジーは常に巧妙な喩え話になっているのだなあと感心せざるを得ないのですが、この映画は果たしてそこまでの深みを表現できていたでしょうか。 表現しようとしていたでしょうか。 鬼母の忌まわしい呪詛を受けたアサトの表情、その抑えた芝居の動きの乏しさに、観客はリアリティを感じられたでしょうか。 それでも、例えば本作で傷のCGとメイクが素晴らしい出来であり、ヤケにリアルで生々しいことなどには私自身は拒否反応は覚えず、それどころか、二人の受けた傷を私たち観客側が生々しく共感できるという点で活字を遥かに超える威力があったことは想定外でした。この作品の場合、「共感」がまさに「痛みを分かち合う」ことでもあるように。 そして「ろくでもない街」とタケオが卑下してきたその街の人たちが、事故シーンでは互いに協力し、助け合っている姿を逃さずにスローで捉えた監督の良心的な視線にも頭が下がりました。たとえそのスローがちょっぴり古臭くてダサくても、です。 ここで見逃してならないのは、サンダル履き&普段着で生活感100%丸出しのしみったれたその姿がかえってこの「ろくでもない街」の素朴な生活者たちの飾らない素顔を実感させ、それをタケオが見つめているところをカメラが捕らえている点です。 タケオは何を思ったのか? そして観客側としては、この生活者たちはもしかしたらアサトやシホが眺めていた海の向こうの臨海工業地帯の勤労者かも知れない。そんなことを思ったりも。 シホがアサトを置いて逃げ出した先の都会の華やぎとは対照的な町です。 そして映画の終盤で観客はアサトとタケオのしなやかな強さと再生を目の当たりにすることに。 退院後、あの鬼のような母親に再び会うために拘置所を訪れたアサト。彼が拘置所の門の前にたたずむ後姿には言いようのない震えを感じてしまいました。 自分の母親の弱さすら受け容れるしなやかな強さをこのアサトは持っている。そのことに何より救いを感じたのです。 一方、このアサトを車で送ったタケオが思いついたように向かった先は父親の入院する病院でしたね。意識の戻らぬ父親に静かに静かに視線を投げ掛けているタケオの脳裏には何があったんでしょう。それに思いを巡らすだけで「ああ、この映画を観てよかった」と思えました。 確かに映画として“どうやって”表現するか、の側面では、手のウチが丸見えの手品を見せられた感すらあります。でも“何が”表現されたか、の側面では充分に成功していると思えます。 それはもちろん大部分が原作の力でしょうが、あのアサト×母との面会と、再び面会に向かうべく拘置所の門の前に立つアサトの後姿という二つの対比的なシーンは、映像として心に残る訴求力を持っていました。映画ならではの効果でしょう。 エンドロールに入る直前、音声の静まりかえったスクリーンに映し出されたのは青い空と、それを背景にして浮かび上がった白い角ゴシック体の『KIDS』の文字。この文字を見たときの清清しさは、この「子供たち」が親から受けた“傷”を克服できそうだという幸福の予感だったのかも知れません。 (後篇:おしまい) |