カナダ珈琲コーヒーの謎  THE CANADIAN COFFEE MYSTERY
宇野眞和   

  1

 暖かく、のどかな日和ひよりだった。その日の午後の喫茶カナディアンは、お世辞にも「満員御礼」と言えるような状態ではなかった。しかしそれは時間帯が中途半端だったためで、別に店の立地条件や経営方針に問題があったわけではない。そのときの客数は、店内にいる六人の人物から、カウンタでさっきから何度も同じグラスを磨いているマスターと、今日七回目のあくびをしているウェイター、そしてカウンタの奥にある厨房からスープ皿を運んできたウェイトレスを引いた人数だった。
「お待たせしました」
 満面の営業スマイルを振りまき、ウェイトレスが一番奥の席に座ってお冷やを飲んでいる男のテーブルに皿を運んだ。
「ああ」
 そのちょびひげを生やした小太りの男は、まるで睡眠不足であるかのようにたるんでいる目でウェイトレスを見ながら、皿を受け取った。男はスプーンを手に持ち、スープをすくい、口に運んだ。
 ウェイトレスはカウンタに戻ると、横にいるウェイターに耳打ちした。
「ねえ、いつも来てるあのお客さん」
「あの男の人?」
 ウェイターは、苦虫をかみつぶしたような顔でスープを飲んでいる男を見た。
「そう。なんかさ、目がいやらしんだ。嫌だな、ああいう人」
「仕方ないよ。我慢我慢。本人は別に悪気があるわけじゃないかも知んないじゃん」
 マスターは、グラスを磨きながら横目で二人のやりとりをうかがっていた。
「すみません」店のもう一方の隅の席に座っていた小柄な若い男が、さっと手を挙げた。「注文をしたいのですが」
「やっと決まったか……」ウェイターは盆を小脇に抱え、その男の席に向かった。「はい、何にいたしましょう?」
 その男は、童顔で前髪を目の上でそろえて切っていて――いわゆる坊っちゃん刈り≠ニいうやつだ――まるで七五三帰りの子どものようだった。男はメニューを指さしながら、
「何か甘いものがほしいのです。この、フルーツパフェとチョコレートケーキといちごゼリーでは、どれがもっとも甘味が強いのでしょうか?」 
「……どれと言われましても……」
「この店では甘味の測定を行っていないのですか? それでは結構です。あなたはどれがお好きですか?」
「私が……ですか?」
「そうです」男は平然と言った。「どれです?」
「私なら……チョコレートケーキ、ですかね……」
「ではそれをお願いいたします」
 男はメニューを閉じると、そのまままっすぐ前方を見たまま固まった。
「はい、かしこまりました」
 ウェイターは一礼をして、カウンタに戻った。
「チョコレートケーキお願い」ウェイターはウェイトレスに言った。「何か変だよ、うちに来る客は」
「ホント……」
 ウェイトレスは苦笑いをすると、チョコレートケーキの準備のため、厨房に入っていった。

 小柄な男は、チョコレートケーキをひとくち口に入れると、カウンタのウェイターに向かってにこっと笑って見せた。ウェイターも、少し口元を引きつらせながら笑い返した。それからしばらくの間、男はまるでケーキを食べるのを自慢するかのように、にこにこ笑いながら店内をきょろきょろと見回しながらフォークを動かした。
 その反対側の隅の席のひげの男は、苦々しげな表情でスプーンをおいた。
「あああ、ごちそうさん。さげてくれ」
「あ、はい」カウンタにいたウェイトレスは、男のテーブルへ、空になった皿を取りに向かった。「おさげいたします」
「うん」
 男は、おしぼりで顔を拭きながらうなずいた。ウェイトレスは、皿を取ると、厨房に入っていった。
「ああ、それから、コーヒーを頼む」
 男はそう言うと、手元にあった残り少ないお冷やを飲み干した。カウンタにいるウェイターが返事をした。
「はい。かしこまりました」
 ウェイターは、カウンタに置いてあるコーヒーメーカーに向かった。その横では、マスターがひたすらにグラスを磨いていた。
「あのう」 
 店の中央辺りの席に座っていた上品そうな若い女性の客が、白い手袋をはめた手を小さく挙げた。コーヒーメーカーを操作していたウェイターは、彼女の方を向いた。
「はい。何でしょう?」
「あの、お紅茶をいただけませんでしょうか?」
「あ、はい」
 ウェイターは愛想良くなずいた。マスターは、カウンタの少し離れたところで自分の磨いたグラスを眺め、戸棚に置いた。ウェイターはその戸棚からカップを取り、コーヒーをれると、受け皿に載せ、小太りの男のところまで運んだ。
「お待たせいたしました」ウェイターは、コーヒーをテーブルに置いた。「お冷やはどういたしましょう?」
「ああ、もう下げてくれ」
「かしこまりました」
 ウェイターは空になったグラスを持って、厨房に入っていった。流しでは、ウェイトレスがたまっている食器を洗っていた。ウェイターはその中に空になったグラスを加えた。
「これもお願いね」
 ウェイトレスは、見るからにおっくうそうな表情になった。
「えー。もう、ちょっとはこっちも手伝ってよ」
「まだ紅茶淹れなきゃいけないんだよ」
 ウェイターは、にやっと笑いながらカウンタに戻った。ウェイトレスは、その背中に向かってあかんべ≠した。
 店の中では、坊っちゃん刈り≠フ男が、きょろきょろするのに飽きたのか、チョコレートケーキを普通に三分の一ほど食べ、ひげの男は猫舌なのか、ゆっくりゆっくりとコーヒーを飲んでいた。ウェイターは戸棚から紅茶用のカップを出し、女性客の注文に応じる準備をしだした。

 紅茶がテーブルの前に置かれて間もなく、女性客は「すみません、お化粧室は?」と、洗い物が終わりカウンタに出てきたウェイトレスに尋ねた。ウェイトレスはひげの男の席の奥を指し、「あちらです」と答えた。
 女性客は優雅――少なくともウェイトレスの目にはそう映った――に立ち上がり、バッグを手に持ち、化粧室に向かった。ウェイトレスがカウンタに戻ると、ウェイターが話しかけてきた。
「なあ、一昨日新しい紅茶カップのセット仕入れたじゃない、あれどこだっけ?」
「えっと、厨房の棚じゃなかったっけ」
 マスターは、横目でちらちらと二人の様子を見ながら、きゅっきゅっとグラスを磨いていた。ウェイターが言う。
「ちょっと出してきてくれない? なんか戸棚に余分なスペースができて気持ち悪いんだ」
「えー? 自分でやんなよー」
 ウェイトレスは顔をしかめた。
「お願い」
「……はいはい」
 ウェイトレスは、しぶしぶ厨房に入った。
 小柄な男がケーキを食べ終わり、カウンタに向かってまたさっと手を挙げた。
「すみません」
「――はい」それに反応したのはウェイターだった。彼は、男の前まで歩いた。「何でしょうか?」
「ソーダをいただけませんでしょうか?」
「ソーダですね。かしこまりました」
 ウェイターはきびすを返した。
「ちょっと待ってください」男が呼び止めた。「やはりコーラにします」
 男は、にこっと笑った。ウェイターも笑顔――明らかに作り笑いだ――で応じた。
「……コーラですね。かしこまりました」
「なるべく甘めにしてくださいね」
 そのとき、反対側の席の方から、女性客の声があがった。店内の者もその方向を見た。
「すみません」
 女性客は、慌てて、バッグから口紅の跡がついた白いハンカチを取り出し、ひげの男のテーブルを拭いた。化粧室から出たところで男のテーブルにぶつかり、コーヒーをこぼしてしまったようだ。
「いやいや、どうぞお気遣いなく」小太りの男は女性客に言った。「幸い、まだたっぷり残ってますから」
「本当に申しわけありません」
 女性客はハンカチをしまうと深々と頭を下げ、自分の席に戻った。男は残ったコーヒーを、ちびちびと飲み直しだした。店内の者は、そのテーブルから目を離した。途中で止まっていたウェイターもカウンタに戻った。それから少しして、ウェイトレスがカップを持って厨房から出てきた。
「はい。洗っといたよ」
「サンキュ」
 ウェイターはカップを受け取ると、戸棚の、中途半端に空いたスペースにそのカップを並べた。
 
 マスターは、まるでそのためだけに生きているかのように、相変わらずグラス磨きに精を出していた。ウェイターは戸棚に置いてあるカップを整理していた。ウェイトレスは空いているテーブルを拭いていた。小柄な男は、運ばれてきたコーラにストローで息を吹き込み、ごろごろと泡をつくって喜んでいた。女性客は、誰が描いたかわからないような絵を見ながら、上品そうな手つきで紅茶を飲んでいた。
 何ごとも起こりそうにない雰囲気だった――。
「――あの……、お客さん、大丈夫ですか……?」
 ウェイトレスの、震えるような声がした。店内の全員が、ふっと声の方を向いた。ウェイトレスはひげの男のテーブルの前で、不安げな表情で立ちすくんでいた。ひげの男は、苦しそうにテーブルに伏していた。そして次の瞬間、男はうう、という低い声を漏らし、一度大きく天井を仰ぐと、ぐっ、という鈍い声と共に、勢いよくテーブルに倒れ込んだ。
「きゃー!」
 ウェイトレスは叫び声を上げ、尻餅をつきそうなくらい後ろに大きくよろめいた。
「落ち着いてください」
 坊っちゃん刈りの男がそう言いながら、倒れた男のテーブルに早足で向かった。マスターは磨いていたグラスを持ったまま、ウェイターは戸棚の扉を開け放したまま、彼のあとから男のテーブルに近づいた。女性客は、自分の席から動かなかった。
「お下がりください」
 小柄な男が言った。喫茶カナディアンの面々は、反射的に彼の言葉に従い、テーブルから離れた。女性客はただ自分の席で、今起こっていることを驚きの表情で見ていた。男はひげの男の顔を持ち上げ、自分の顔を近づけるとそれを凝視した。
「……亡くなっていますね」男は平然と言った。「アーモンド臭がします。青酸カリですね。早く警察に連絡してください」
 一同は状況が飲み込めないのか、一瞬ぽかんと口を開けたままだった。
「は、はい」
 ようやくウェイトレスがおぼつかなげな足取りで、電話に向かって駆けだした。男はテーブルに目を移した。そこには、備え付けの、醤油、ソース、つまようじ、タバスコ、塩、コショウ、砂糖、きれいに立てて並べられているナプキン、そして、コーヒーが三分の一ほど残ったコーヒーカップと専用のスプーン、受け皿、未開封の小さな容器に入ったミルクが置いてあった。小さな男はそのコーヒーカップに鼻を近づけた。
「この中に混入されているみたいですね。殺人の可能性があります」男が、嬉々とした表情で言った。「皆さん、店の外には出ないでください。あと、このテーブルにも近づかないようにしていただきます」
「あのう、失礼ですが、あなたは……」
 ウェイターが、おそるおそる男に尋ねた。男は上着の内ポケットから黒い手帳を取り出すと、にこっと笑いながら言った。
「申し遅れました。わたくし、警察の者で、殺人課の星野ほしの桜司おうじと申します――」

  2

 やがて喫茶カナディアンは、警察の人間で晴れて「満員御礼」となった。星野桜司が現場の指揮を執っているようだった。彼は、同僚と思われる男から書類を受け取り、しばらく一枚の写真を見たあと、にこにこ笑いながら関係者――店の者三名と女性客――の前で事情を説明した。
「――それではご説明いたします。やはり亡くなった男性は青酸カリによる中毒死で、テーブル上のコーヒーには多量の青酸カリが混入されておりました。ご存じかと思われますが、この毒はたいてい摂取してから長く時間をおかずにその効き目が現れるものです。それで、亡くなった男性の着衣、持ちものなどを調べた結果、それを入れていたらしき容器や包みなどは発見されておりませんので、本人以外の人間が混入したものと考えております。何か異論はございませんか?」
 集められ、イスに座らされた一同は、どうしたものか、という表情を桜司に向けた。しばらくして、女性客がおどおどしながら口を開いた。
「それは……、私どもも容疑者ということに……」
「はい」桜司は、少年のようににこりとしてうなずいた。「それで、この亡くなった男性なのでございますが、どなたか彼の素性をご存じの方はおられませんか?」
 桜司は一同を見回した。マスターが小さく手を挙げ、ここ数時間で初めて声を発した。かなり落ち着いた口調だった。
「私が存じております」
 桜司はマスターを指した。
「こちらのマスターでございますね?」
「はい。阿藤あとうと申します」
 桜司はにこっと笑って阿藤マスターを見た。
「はい。どうぞ、おっしゃってください」
「ええ。亡くなったのは、この界隈で不動産業をやってらっしゃる運天うてん六平ろっぺい様でございます」
「随分お珍しいお名前でございますね」桜司は、ピクニックを明日に控えた小学生のように、楽しそうに言った。「運天さんはこのお店にはよくいらっしゃったのですか?」
「はい」阿藤はうなずいた。「何年も前から、連日お見えになられておりました」
「連日とおっしゃいますと、毎日と考えてよろしいのですか?」
「はあ、ほぼ毎日、と申しても、差し支えはないものと……」
「その通りでございますか?」
 桜司は、ウェイターとウェイトレスに尋ねた。二人は同時にうなずいた。
「ああ、お二人のお名前をお聞きしておりませんでしたね。お教え願えますか?」
 まずウェイトレスが、伏し目がちに答えた。
中瀬なかせあきです。ここでウェイトレスをしています」
 続いて、ウェイターが自己紹介をした。
大原おおはら和樹かずきといいます。ウェイターです」
「どうもありがとうございます。これでお呼びしやすくなりました」桜司は笑顔を絶やさずしゃべった。「あなたのお名前もお聞きしてよろしいですか?」
 桜司は女性客の方を見た。女性客はゆるんでいた白い手袋をはめ直した。
「あ、ええ……。崎田さきたと申します。崎田加奈かな……」
「お美しいお名前でございますね」本気なのかお世辞なのか、よくわからない言い方だった。「さてさて、本線に進路を変更いたしましょう。中瀬さん、あなたが運天さんの異変に気づかれたのでしたね?」
 あきは、顔をしかめてうなずいた。
「ええ。急に青ざめて、苦しそうにテーブルにうつ伏せになったんで、どうしたのかと」
 桜司はうんうんとうなずいた。
「先ほども申しましたように、運天さんがお飲みになっておられたコーヒーの中には、多量の青酸カリが含まれておりました。このコーヒーは大原さん、あなたがお淹れになったものですか?」
 和樹は、困惑したようにうなずいた。
「ええ、そうです……。僕の役割ですから……」
「あなたがコーヒーを淹れて、運天さんのテーブルに運ばれた?」
「……はい……。まさか、僕が毒を入れたなんて考えてるんじゃないでしょうね? ちょっと、冗談じゃないですよ!」
 桜司は、きれいにそろえた前髪を触りながら、和樹に説明した。
「まあまあ。しかし、運天さんの手元にあるコーヒーに、彼がしっかり目を開けて――ご本人の目はそれほど大きくはなかったですが――それを飲んでいる状況下で犯人が毒を盛ることは、まず不可能だと思われますし」
「だから僕が毒を入れて運んだと?」
 桜司は、意図不明な笑みを返した。
「まあ、他にも考えられます。例えば、淹れられたコーヒーではなく、コーヒーメーカーのポット自体に毒が仕込まれていたという可能性もございます。もっともその考えは、鑑識がコーヒーメーカーに残っているコーヒーを検査した結果により、すでに消去されております。間違いなく、毒はコーヒーがコーヒーメーカーから流出されたあとに混入されたのです。あしからずご了承ください」桜司はとにかくうれしそうに話した。「それに、あなたがコーヒーをお淹れになったり、運ばれている最中にどなたかが毒を入れるという神業を行った、ということもあり得ないでしょう」
「まあ……そりゃあ……そうですけど……。僕じゃないですよ……!」
 和樹は、悔しそうな顔をしていて、まだ何か言いたげだった。桜司は、阿藤の方を向いた。
「念のためにお尋ねしておきます。阿藤マスター」
「はい」
「あなたは、大原さんがコーヒーをお淹れになっているとき、何をされてらっしゃいましたか?」
「私はカウンタでグラスを磨いておりました。それだけが私の仕事のようなものです」
 阿藤は軽く微笑んだ。
「どうも。では、中瀬さん、あなたは何をされておりましたか?」
「私は……、お皿をさげて、厨房で洗ってました」
「お皿? 運天さんのテーブルからですか?」
「はい」
「お皿だけですか、おさげになったのは?」
「はい? ええ、そうですけど……」
「はい、承知しました。そして、崎田さん、あなたは?」
 加奈は、小さく首を傾けた。
「私は、あちらの席に座っておりました」
「そう言えば」桜司は、思い出したように言った。「確か、あなたは、運天さんのコーヒーをこぼされておりましたね」
 加奈は、少し顔をこわばらせた。
「……ええ、はい……」
「こぼされたあとのことは私も拝見しているのですが、どういった経緯でこぼされたのですか?」
「お化粧室から出て、自分の席に帰ろうとして、そのときに手を亡くなった方のテーブルに当ててしまって、それで……」
 桜司は、うっすらと笑いながら人指し指をあごに当てた。
「……はい。どうも」桜司はそう言うと、指を数回鳴らした。「わからないことがあるのです。青酸カリはアーモンド臭がいたします。運天さんはなぜその臭いに気づかなかったのでしょうか」
「運天様は」阿藤が答えた。「鼻が不自由だと以前この店でおっしゃっていたことがあります。それでおそらく」
 阿藤はあきと和樹に視線を向けた。桜司は二人に尋ねた。
「そうなのですか?」
 二人は、顔を見合わせてうなずいた。桜司は次に加奈に尋ねた。
「あなたもご存じでしたか?」
 加奈は、勢いよくかぶりを振った。
「いいえ、とんでもありません。そんなこと……」
「失礼ですが、このお店にはよくいらっしゃるのですか?」
「私ですか? ええ……たまに……」
「そうでございますか。どうも失礼をいたしました。さてさて、おかげさまで疑問が一つ解けました。そこで次の問題なのですが、臭いはわからなかったとしても、青酸カリは味覚に与える刺激が非常に強い毒でございます。そこのところが解せないのです」
「それは」また阿藤が答えた。「その前に飲まれた、当店の特製スープが原因かと」
「特製スープ、でございますか」
「はい。体に良い薬草などを多量に使用しておりまして、そのう、大変、苦み、と申しますか、かなりの刺激がありますゆえ」
「舌が麻痺して、あとに飲んだコーヒーの味の異変がわからなかったと?」
「はあ」
 阿藤はうなずいた。続いて桜司が尋ねる。
「調理をされたのはどなたですか?」
 あきが小さく手を挙げた。
「私です」
「マスターのおっしゃったことに間違いはございませんか?」
「はい。あのお客さん、いつも健康のためだ、って我慢して飲んでましたけど……」
 桜司は、次に和樹に聞いた。
「運天さんは、いつもスープのあとにコーヒーを注文されていたのですか?」
「ええ。そうですよ」
 和樹はぶっきらぼうに答えた。桜司はさらに質問を続ける。
「ミルクの容器は未開封で、専用のスプーンも使用した跡がないようですが、彼はいつもブラックだったのですか?」
「ええ、はい」
 桜司は、今度は一同に向き直った。
「運天さんは、今日、このお店で他に何か口にされましたか?」
「スープを運んだとき、お冷やを飲んでましたけど」
 少し間があったのち、あきが答えた。桜司は、ぴくっと眉を動かした。
「お冷や?」
「ああ、そうです」和樹が言った。「僕がコーヒーを運んだときには、もう空になってたんで、さげました」
「お冷やを? お冷やだけをおさげになったのですか?」
「はい」
「他には何も口にされていませんか?」
「ええ」
 桜司は少し考えると、あきと和樹を見た。
「お二人にお聞きします。お冷やとスープのお皿以外、運天さんのテーブルから何かさげられましたか?」
 二人は、困惑したような表情で顔を見合わせ、首を横に振った。桜司は、満面の笑みで礼を言った。
「どうもありがとうございました。おかげさまで犯人が判明いたしました」
 桜司はそう言うと、ポケットから一枚の写真を取りだし、にこにこ笑いながらそれを眺めた。一同は、突然の桜司の発言に当惑しながら、彼の次の行動を待った。すると、桜司は急に体の向きを変えた。
「申しわけありませんが、ハンカチをお借りできませんか、崎田さん?」

  3

「どうも皆さん、お待たせいたしました」数時間後、別の刑事から書類を受け取った星野桜司は、その間ずっと拘束されたままだった一同の前に、再び立った。「それではこれより、事件のご説明をさせていただきます」
 うれしそうな桜司とは対照的に、一同の表情は複雑だった。
「まず、コーヒーを運天さんのテーブルに置く以前に、その中に青酸カリを混入できた人物を絞り込んでいくと……」桜司は、大原和樹を見た。「大原さん、あなた以外にはそれができる可能性のある方はいらっしゃらなくなります。他の方だと、チャンスがございませんし、あなたがコーヒーをお淹れになっている目の前で毒を入れることは、まず不可能でしょう」
 和樹は、焦って言い返した。
「ちょっと、ちょっと、待ってくださいよ、僕、あの人殺してなんかいませんよっ!」
「落ち着いてください。まだ話は終わっておりません」そう言うと、桜司はポケットから、一枚の写真を取りだし、一同に見せた。それは、テーブルの上を写した写真だった。「運天さんのテーブルを写した写真でございます。よくご覧ください」
 一同は、目を凝らして写真をにらんだ。
「……あのう、失礼ですが、これが何か?」
 中瀬あきが質問した。
「ご理解いただけませんか? よーくご覧ください」
 テーブルの上には、醤油、ソース、つまようじ、砂糖、コショウ、塩、タバスコ、ナプキン、コーヒーカップ、ミルク、受け皿、スプーンが載っていた。
「……わかりません」
 崎田加奈が言った。
「テーブルの上にあるもので、何か足りないものはないですか?」
「足りないもの、ですか?」
 阿藤マスターが、顔をしかめながら言った。
「はい。喫茶店にはなくてはならないもの――おしぼりがないではないですか」
 誰かが、あっ、という小さな声をあげた。桜司は話を続ける。
「しかし、ないわけはございません。おしぼりを出さない喫茶店はありませんし、それに第一、私は、美味なるチョコレートケーキを食べているとき――お恥ずかしい話、きょろきょろいたしておりまして、そのときに――運天さんがおしぼりを使用しているところを見ております。そして、中瀬さんと大原さんは、お皿とお冷や以外はおさげになっておられないとおっしゃられました――もちろん、運天さんご本人の持ちものからも見つかっておりません――。では、一体どなたが、何の目的でおしぼりをテーブルから持ち去ったのでしょう。後者の問いに関しては解答は明快です。おしぼりに相当な価値を見いだすことはまずありません。となると、おしぼりがテーブルに置かれていることは、持ち去った人物にとって不都合だったから、と考えるのが適当でございましょう。そして前者の問題に対しては、殺人現場で不都合なものを隠そうとした人物。すなわち、運天さんを殺害した犯人であると言えます」
 桜司が一人で楽しそうにぺらぺらと説明している間、一同はただ呆然とその様子を見ていることしかできなかった。桜司はさらに続ける。
「では、なぜ犯人はおしぼりを持ち去ったのでしょう? なぜおしぼりが犯人にとって不都合だったのでしょうか?」
 桜司は、一同に問いかけている様子だったが、誰もその質問に答えようとしなかった。
「阿藤マスター」
 突然名前を呼ばれた阿藤は、さっと桜司の顔を見た。
「はい、何でしょう?」
「おしぼりとは、そもそもどのような用途で使用するものでしょうか?」
「それは――手を拭いたり、場合によっては、顔を拭いたりするものでしょう」
「そう。そうです。実際、私が見たとき、彼は顔を拭かれておりました。しかし、なぜそのようなものが犯人にとって不利益になり得ましょうか? そこで私は思案いたしました。手を拭く、顔を拭く、という行為は、何かを拭き取る、という目的が主でございます。そうなると、可能性としては運天さんが手や顔を拭いたときに、犯人にとって何か不都合なものが付着した、と考えるのがもっとも自然でございます。何かご意見はございますか?」
 誰も何も言わなかった。桜司は続けた。
「では何が付着していたのでしょう? それは、この場所が飲食を中心とする喫茶店であるということ、そして犯人が、そのものが付着したとある程度確認、あるいは予測できるものでなければならない、という点を考慮すれば、自然に行き着きます。すなわちそれに符合するものは、運天さんの口元に残っていた、彼が今日このお店で口にしたものです。人はものを口にしたあとは、口の周りに心ならずもついてしまった食べ物の痕跡を放っておくことはまずありません。そして犯人が運天さんが食べ物を召し上がったあとおしぼりで顔を拭いているのを目撃した場合、口元についていたものがおしぼりに付着したと容易に考えられるわけです。それでは彼は今日、このお店で何を口にされたでしょう? お冷や、スープ、そしてくだんのコーヒーの三点でございます。この中のどれが犯人にとって都合が悪かったのかはこの時点では不明ですが、しかしここで言えることは、犯人にとって、それらの飲食物の痕跡は、我々に調べられてはならないものだったということです。では、その理由は何でございましょうか?」桜司はしゃべり疲れた様子もなく、始終笑顔だった。「中瀬さん、いかがお考えになります?」
 ぽかんとした顔で桜司の話を聞いていたあきは、急に自分にふられて、はっとした。
「え? さあ、私には……」
「ようございますか。これは毒殺事件でございます。つまり、運天さんがこのお店で召し上がったものと毒とは切っても切れない縁があるのです。運天さんは青酸カリによって毒殺され、コーヒーの中には多量の青酸カリが含まれておりました。どなたでも運天さんはコーヒーに入っていた毒で亡くなったと自然に考えます。その考えが成り立った上で、犯人が、運天さんが召し上がった飲食物の痕跡が残るおしぼりを調べられたくなかった理由とは、一体何でございましょうか?」
「まさか……」
 加奈が眉根を寄せた。桜司はにこりと笑った。
「――おわかりになったようですね。そうです、ここで一つの仮説が成り立ちます。いわく、運天さんは、実際はコーヒーの毒で亡くなったのではないのではないか、という説です。犯人は、その証拠である飲食物の痕跡を残したくないがために、それを拭き取ったおしぼりを持ち去ったのです――。運天さんがコーヒーの毒で殺害されたとなると、犯人は大原さん以外に毒を入れられる可能性のある方はいなくなります。コーヒーを入れるのは彼の役目であり、真っ先に疑われるのは大原さんです。つまり、犯罪を大原さんになすりつけることが可能であり、そして犯人にその時点で毒を入れられないというささやかなアリバイ≠ェあれば、自分は安全であると考えた。それが犯人の狙いだったのです」
 和樹は、呆然とした表情で桜司を見ていた。
「しかし」阿藤が口を開いた。「いささか根拠が薄弱ですな。証拠がないでしょう。それに、事実コーヒーに毒は入っていたのでしょう?」
「はい。今の状態ではこれはただの仮説に過ぎません。そこでそれを立証するために私は」桜司はポケットからビニール袋に入った、口紅と茶色いしみで彩られたハンカチを取り出した。「崎田さんからこのハンカチをお借りしたのです。このハンカチには崎田さんがこぼされ、お拭きになった、運天さんがお飲みになっていたコーヒーがしみこんでおります。私はこれを鑑識にまわして検査していただきました。その結果、このハンカチのコーヒーからは、青酸カリはもちろんその他の毒物類とおぼしき物質も――コーヒーには多量に含まれていたにもかかわらず――、一切検出されませんでした。すなわち、崎田さんがコーヒーをこぼされた時点では、コーヒーには青酸カリは混入されていなかった、ということになります。そして犯人がそれ以後も、運天さんがお元気で、目を開いて手元にあるコーヒーを飲んでいる最中には毒を混入することなどまず不可能であると言えるでしょう――ちなみに、運天さんはコーヒーをブラックでお飲みになっておりますから、砂糖、スプーン、ミルクに毒が混入されていたという可能性はございません――。となるとすなわち、運天さんを死に至らしめた青酸カリは、コーヒー以外のものに入れられていたという結果に至ります。もっと言えば、毒が混入され得るものは、お冷やかスープのどちらか、ということになります。しかしお冷やではあり得ません。お冷やは運天さんがスープを飲んで舌が麻痺する以前に口にされていたというお話です。つまり、通常無味であるお冷やを最初に口にした時点で青酸カリの苦みに気づいたはずです。よって、青酸カリは、スープの中に混入されていたという結果が得られました。このお店のスープは大変苦いにもかかわらず、運天さんは健康のためと我慢して召し上がっていたそうですね。スープ自体が苦く、舌を麻痺させてしまうほどのものなのです、よしんば少しくらい苦みが違っていても、彼は健康のため≠ニ我慢してお飲みになるか、もしかしたら違いすら気づかなかったでしょう。これで状況は変わってきました。犯人は、スープに毒を入れることができ、そしてコーヒーの毒で殺害されたと思わせるために片づけなければならない証拠――毒の入ったスープを食べ終わったお皿などです――を処理できる人物、ということになります」桜司は一気にまくし立て、他の者に口を開かせるすきを与えなかった。「そして次の問題ですが、これがもっとも肝心です。すなわち、犯人は――犯行を自分以外の人物、つまりは、大原さんになすりつけるため――いつコーヒーに毒を入れたか、ということです。先ほども申し上げましたように、崎田さんがコーヒーをこぼされた時点では毒は入っておらず、そしてその後も、運天さんが目を開けて通常通り手元にあるコーヒーを召し上がっている間はとてもそんな行動はとれないでしょう。しかし、我々がテーブルに駆けつけたときにはすでに青酸カリは混入されておりました。つまり犯人が毒をコーヒーに入れられるのは、運天さんが通常通りコーヒーが飲めず、犯人のとった行動に文句が言えない状態、すなわちスープの毒によって苦しみ始めてから、我々がテーブルに近づくまでの間でしかありません――これについてはおしぼりについても同様です。この間でなければおしぼりを持ち去れる機会はございません――。結論を申します。それができるのはただお一人、あなただけでございます、中瀬さん」
 一同は一斉にあきを見た。彼女は、何ごともなかったかのように、平然としていた。桜司はあきに向かって言った。
「あなたは運天さんが苦しみだしたのをご覧になり、テーブルに近づき、彼が苦痛のため何も文句も言えず抵抗もできない状況下でコーヒーに青酸カリを入れ、おしぼりをとった後、彼に声をかけたのです」
 あきは、静かに口を開いた。
「……なるほどね」
 桜司は、一呼吸おくと、さらに続けた。
「あなたはスープに毒を入れることも、そしてそのお皿をさげてすぐに洗って処理することもできたはずです。実際、あなたはお皿をさげてすぐ洗浄いたしましたね。そして私が警察を呼ぶように提案いたしましたとき、電話をかけに向かわれたのはあなたでございました。そのときにコーヒーに混入した青酸カリを入れていた入れものやテーブルから持ち去ったおしぼりを処分することもできたはずです」
 少しの沈黙があった。
「そう……。私の負けです」あきはにこりと笑った。「それにしても、よくしゃべりますね」
「お褒めいただき恐縮です。おしゃべりついでによろしいですか?」
 あきはため息を一つついた。
「どうぞ」
「もう一つ状況証拠がございます。この崎田さんのハンカチです。犯人は飲食物の痕跡の残るおしぼりを持ち去ったにもかかわらず、青酸カリの含まれていないコーヒーがしみこんだこのハンカチという重要な証拠を野放しにしていました。普通なら、何らかの手段を講じて崎田さんからこのハンカチを手に入れようとする努力をしたはずです。しかし、どなたもそのような素振りを見せようとした方はおられませんでした。どうしてでしょうか。考えられる答えは、犯人が、崎田さんが運天さんのコーヒーをこぼし、拭いたことを知らなかったからです。その情景をご覧になっておられなかったのはただお一人。崎田さんがコーヒーをこぼされたとき、あなたは――」
「奥の厨房で紅茶のカップを探していましたから」
「先ほど崎田さんがコーヒーをこぼされた話をお聞きになったときは、さぞ驚かれたことでしょう」
「まあね。とんだアクシデントですよ」
 あきは加奈を見た。加奈はどう反応してよいかわからない様子で、もじもじと手袋をいじっていた。
「ご胸中お察しいたします」桜司が言った。「それと、おしぼりに関してですが――これは私が目にしたときですが――運天さんは、あなたがスープのお皿をさげられているときにお顔を拭いてらっしゃいました。あなたはそれをご覧になり、おしぼりにスープが付着して、そこから毒が検出されるのではないかと恐れ――少なくともあなたはそう考え――、おしぼりを持ち去られた。そうではございませんか?」
「何でもお見通しみたいね」あきは微笑みながら和樹を見た。「ごめんね。別にどうしてもあんたに罪を着せたかったわけじゃないんだけど、その方が都合よかったもんだから……」
 和樹はまだ理解しきれない様子だった。
「まさか……」阿藤が言った。「本当なのかね、中瀬君?」
「本当ですよ、マスター。すみません、お店の中で人なんか殺しちゃって」
 桜司は大きく背伸びをした。
「まあ、あと、青酸カリの入手経路など、細かなことをお聞きしなければならないのですが……。私はそういったことには全然興味はございませんので、あとで他の刑事さんにでもお話しください」
「はい。あーあ、なんかあっさり終わっちゃって、つまんないなあ」
 そこで桜司は、思い出したように言った。
「ああ、そうです。チョコレートケーキ、大変おいしゅうございました」
「どうもありがとう。でも、あれは近くのパン屋さんで仕入れたものです」
 あきはクスリと笑った。桜司もまた、笑いながら肩をすくめた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
 和樹が言った。
「はい、何でございましょう?」
「何だか、一気にしゃべられて、すっきりしないというか、後味が悪いというか……。まだ実感がわかないんだけど、まあ、一応理解はできました。でも、あきちゃん」和樹はあきに言った。「何であの人を殺したんだよ? 何か相当な恨みでもあったのか?」
「理由? そう……」あきは目線を上げた。「だって、もう見るの嫌だったんだもん、あの人のいやらしい目つき……」
 一同は口をぽかんと開けたまま、絶句した。その中で星野桜司だけは、満足そうに微笑みながらうなずいていた。


あとがきへ     戻る       トップページに戻る