ある雨の夜の事件の翌日
宇野眞和
第一幕
高校生の檜山裕太は、今、警察署の応接間にい
た。目の前には、いかつい顔をした中年の刑事と、若い刑事が座っている。裕太は応接間を見渡した。自分とこの二人の刑事以外でこの部屋にいるのは四人。全
員裕太の顔見知りの人たちだった。
裕太のすぐ隣に座っているのは、クラスメイトの村岡麻輝。
裕太のクラスで一番かわいい女子。はっきり言って彼のタイプだ。裕太は、彼女の隣に座れたことをひそかに喜んでいた。そしてその隣に座っているのが、同じ
く裕太のクラスメイトである、天川ユキト。頭はいい、スポーツはできる、おまけにルックスもなかな
かという、三拍子そろっている。裕太は勝手に彼のことをライバルだと思っている。その隣は裕太
たちの学校の英語教師、稲沢リサ子。メガネがよく似合う若い先生だ。生徒の評判も上々である。最
後、ソファの端にいるのが、学校の校長、中木良造。
ハゲ、ひげ、ちんちくりんの校長三点セットがそろった、パーフェクトな校長である。
「さて、みなさん、よくお集まりいただきました」
中年の方の刑事が言った。
「それで」言ったのは校長の中木だった。「刑事さん――」
「ああ、申し遅れました」中年の刑事は、中木の話を最後まで聞かないうちに言った。「私、殺人課警部の田崎原
司郎と申します。こっちは部下の海野君です」
田崎は若い方の刑事を見た。
「どうも、海野浩一です」
海野がおじぎをしたので、反射的に裕太たちもおじぎを返した。
「ええと、それで、田崎さん」中木がもう一度話しかけた。「どうして私たちがここに呼ばれたのでしょう? 確か、さっき刑事さんは殺人課だと……」
そうだ。裕太もさっきからそれが気になっていた。なぜ自分たちが警察――それも殺人課――などに呼ばれたのか。田崎はわざとらしくごほんとせきをした。
「はい。……皆さんは、神友敏樹さんという方
をご存知ですね?」
「ええ」中木が答えた。「うちの学校の国語の教師ですが……彼が何か?」
田崎は海野に合図を送った。それを受けて海野が言う。
「昨夜亡くなられました。何者かに殺害されたのです」
裕太はその言葉に、少なからず驚いた。他の四人も同じ様子だ。神友は、裕太たちにとっても好ましい人物ではなかった。特に裕太は、勉強ができないことで
よく神友に怒られていた。しかし、知っている人が殺されたとなると、やはり多少のショックはある。
「神友先生が?」ユキトがつぶやくように言った。「昨日も学校で会ったのに」
「殺されたって」稲沢が言う。「いったいどういうことなんです?」
「詳しく説明してください」
稲沢についで、麻輝が田崎たちに言った。田崎はたしなめるように、
「まあ、捜査は始まったばかりでして、詳しいことはまだ……」
「どこで殺されたんですか?」
中木が聞く。田崎は海野に目配せをした。海野は自分の手帳を見ながら言う。
「ええと、殺害場所は、中央公園のベンチの近くです。公園は被害者の自宅からはだいぶ離れた場所です」
中央公園は裕太もよく知っているし、遊び場でもある。まさかそんなところが殺人の現場になるなんて、なんだか不思議な気持ちだった。
「それで」稲沢が言う。「何が致命傷になったんですか?」
今度は田崎が手帳をめくり、
「ええ、直接の死因は後頭部を殴打されての脳挫傷。
たぶん、スパナのようなもので後ろからやられたんでしょう。何ヵ所かかなり殴られています。どういうわけかまったく見当はずれのところまで。――誰がどう
見ても、殺人です」
「何でそんなに何ヵ所も殴られたんでしょうか?」
ユキトが尋ねる。それに答えたのは海野だった。
「さあ、それはまだわからないな」
「警部さん」麻輝が尋ねる。「これは計画的なものとお考えで?」
田崎はちょっと考えて、
「う〜ん、私はそう思ってるんだがねぇ……」
ユキトがそれに続いて言う。
「たとえば金目当ての犯行や、強盗とかの線はないんですか?」
海野が答える。
「サイフとか、金目のものはすべて被害者が身に付けたままだったので、物取りの可能性はないでしょう」
次に中木が、身を乗り出して言う。
「それでも、通り魔的な犯行かもしれませんよ」
「いや、それもないでしょうな」田崎が言う。「被害者の死亡推定時刻は、昨夜の午後八時から十時の間。そんな時間に、被害者が一人で遠く離れた公園にいた
と考えるのは、少しおかしいでしょう」
「ひょっとしたら、どこか別の場所で殺されて、公園に運ばれてきたのかも……」
そう言ったのは稲沢だった。また海野が答える。
「遺体には、運ばれてきたような形跡はありませんでした。被害者があの公園で殺害されたことは、ほぼ間違いありません」
質問には間髪入れずてきぱきと答える。警察もなかなかやるもんだ。そう裕太は思った。
「檜山君、どうかしたのかね? 考え込んで」
田崎が裕太に話しかけた。どうやら、よっぽど難しそうな顔をしていたのだろう。裕太は、はっと田崎を見た。
「えっ?」そして、申し訳程度に笑った。「いえ、別に、なんでもないです、へへ」
裕太は、ここで、今はじめて口を開いたことに気づいた。田崎は、裕太の返事を聞いて、
「そうかい。ええと、そして、被害者は、車で現場までやってきています」
「どうしてそれがわかるんです?」
麻輝が言う。
「被害者の車が現場に残っているからだよ」と田崎。「たぶん、被害者は誰かと一緒、もしくは誰かに呼び出されて現場にきたんだろう――もちろんここで言う
誰かとは、犯人、という意味ですが……」
「じゃあ、犯人は顔見知りですか?」
稲沢が聞く。田崎は、肩をあげながら答える。
「可能性は大きいです。それに、スパナのようなものを用意していたのですから、おそらく計画的な犯行でしょうな……」
「計画的犯行か……」
裕太はつぶやいた。
第二幕
「あの、警部さん」
中木が田崎に話しかけた。
「はい、なんでしょう?」
「ずっと気になっていたのですが、なぜ私たちがここに集められたのでしょう?」
「そうです」稲沢が後に続く。「どうして私たちが呼ばれたのですか?」
田崎は海野と顔をあわせ、ばつの悪そうな顔をした。
「う〜ん……わかりました、白状しましょう。今日、皆さんにお集まりいただいた理由は――あなた方全員が、それぞれ、被害者の神友さんを殺害する動機をお
持ちだからなのです」
一同の顔に、驚愕の表情が浮かんだ。裕太もそういう顔をしてみたが、ある程度予想をしていたこ
となので、顔に出したほど驚いてはいなかった。殺人が起きて警察に呼ばれているとしたら、それくらいの覚悟を持っておかなくてはならない。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」ユキトが詰め寄った。「じゃあ、俺たち容疑者ってことなんですか?」
「いや、容疑者という表現は……」田崎が弁明する。「適当じゃありませんな。一応、参考人ということになっているのですがね……」
「しかし、同じようなものでしょう」
中木がきつい口調で言う。まあ、その通りだろう、と裕太は思った。田崎は中木の言葉に、表情を変えないまま言った。
「お気を悪くされたのも無理はありませんな。確かにあなた方は、事件の重要な容疑者です」
「まあっ。失礼極まります」
稲沢が批判をした。海野は、ポケットから小さなカセットテープレコーダを取り出し、テーブルの上に置いた。
「そういうわけですので、これからの皆さんとの会話は、このテープに収めさせていただきます」
「それって、結構ひどくないですか?」
麻輝が不機嫌そうに言う。田崎は平然として、
「そうですか? ――ええと、それでは話の続きをさせてもらいます。神友さんの遺体は、公園の周りを巡回していた警察官によって、午後十時に発見されまし
た」
「つまり?」
稲沢が尋ねる。
「死亡推定時刻の八時から十時までが、犯行の推定時刻であると考えて間違いはないと思います。そこで、その時間帯、皆さんは何をしていたのか、お聞かせ願
えませんか?」
「現場不在証明ですか?」
裕太が言った。海野はうなずく。
「ええ。教えてください」
「それでは」田崎は手帳を開きながら、「まず、中木さん、あなたは昨夜の八時から十時まではどこにいらっしゃいましたか?」
「私は、自宅におりました」
「どなたかそれを証明してくださる方はおられますか?」
「いえ……」中木は困ったような顔をした。「あいにく、昨日は妻が旅行に出かけておりまして……」
「では証言してくださる方はいないのですね?」
田崎が念を押すと、中木はうなずいた。
「はあ、そうなりますな……」
「わかりました。では、次に稲沢さん、あなたはどちらに?」
「私は」稲沢は答える。「自宅でテストの添削をしていました」
そうだ、一昨日英語のテストがあったんだ! 裕太はドキッとした。全然できなかったやつだ。どうでもいいことだが、いったい自分は何点取れているのだろ
う?
「誰かそれを証言してくださる方は?」
海野が聞く。稲沢は、少しはにかみながら、
「いません。ここ八年は一人暮らしですから」
「はい」田崎はうなずいた。「じゃあ、次は檜山君」
自分の名前が呼ばれたので、裕太ははっとした。
「えっ、はい?」
「君は何をしていたのかな?」
昨夜の八時から十時か。何してたかな? 裕太は考えた。
「昨日は……家にいました。えっと、ゲームして、飯食って、風呂入って……」
「へえ……」田崎はもういい≠ニいう表情を作った。「で、証言してくれる人は?」
「ええと、家族が一緒にいました」
「なるほど」
そう言って田崎は、メモを取った。
「でも、家族の証言って、あんまり役に立たないんでしょう?」
裕太は平然と言う。田崎は顔をあげて、
「え? ああ。そうだよ。よく知ってるね」
「ま、そのくらいは」
といって裕太は自慢げな顔をしてみせた。田崎は視線を裕太から麻輝に移した。
「次に、村岡麻輝さん。君は、昨夜はどうしていたのかね?」
「私は」麻輝は答える。「私も自分の家にいました」
「証人は?」
「家族の者しかいませんが……」
「はい、なるほどね……。わかりました。では、最後に、天川君、君は?」
「僕も家にいました」ユキトが答える。「ずっと勉強してました」
「へえ、まじめだね。誰か証言してくれる人はいるかね?」
「いえ……」ユキトは表情を曇らせる。「両親は共働きで十二時過ぎまで帰ってきませんでしたし……、誰
もいません」
「なるほど……おや?」田崎はユキトの顔を目を凝らして見た。「君、その顔の傷、どうかしたのかね?」
裕太もユキトの顔を見る。左のほほに、ひっかいたような傷があった。ユキトはその傷をさわりながら、
「え? ああ、ちょっと昨日、猫にひっかかれまして……」
「へえ、そう……」そして田崎は、自分の書いたメモを、何度か見直した。「ええと、これで皆さん全員のアリバイを確かめたわけですが、えー、中木さん、稲
沢さん、天川君は証人なし。檜山君、村上さんは証人はご家族の方だけ。しかし家族の証言は信憑性に
欠ける場合があります。ということは、皆さん全員、アリバイが成立しない、ということになります」
……全員現場不在証明不成立か……。裕太は思った。
第三幕
「警部さん」
麻輝が田崎に話しかけた。
「ん? なんだい?」
「私たちに神友先生を殺害する動機があるっておっしゃられましたよね」
「言ったが、それが何か?」
「それも教えていただけませんか?」
「ぜひ知りたいです」
稲沢も賛同する。
「ぜひ知りたいわ」
田崎は、一同を見渡した。
「皆さんもお聞きになりたいですか?」
裕太をはじめ、一同はうなずいた。田崎はそれを見ると、
「……わかりました。それでは、私がこれから皆さんの動機を言いますので、それが真実であるかどうか、皆さんお答えください」そして田崎は手帳を開いた。
「まず、檜山君」
裕太はドキッとした。俺からかよ!? なんだろう? 思い当たる節はないし……。
「はい……」
裕太はとりあえず返事をした。田崎は続ける。
「檜山君、君は被害者から、成績が悪いことで、ずいぶん怒鳴られていたそうじゃないか」
はあ? 裕太は拍子抜けしてしまった。そんなことが動機だって!? 裕太は顔をしかめながらもうなずいた。
「ええ、まあ……」
「それも並たいていのしかり方じゃなかったと聞くから、だいぶうっぷんがたまっていたんじゃないのかい?」
確かにいつも怒られてましたよ。頭悪いですからね。言うこと聞いてませんでしたからね。でも、だからって……。
「そんなことで人を殺したりなんかしませんよ」
裕太は半分あきれ顔で言った。いちいちそんなことで人を殺していたら、裕太は今ごろ大量殺人犯だ。しかし、実際動機というものはそんなものだろう。どん
な小さなことでも、当人にとっては人を殺しうる原因になる。
次に田崎は、麻輝に目線を移した。
「そして、君の動機だが、村岡麻輝さん」
「はい……」
麻輝は小さくうなずいた。
「君は以前被害者とずいぶん口論をしたそうだね。テストで名前を書くのを忘れて、点数がなかったとかで……。それからだいぶ被害者との仲が険悪になったら
しいが。これは本当かい?」
「ええ、はい……」
「それが普通なのよ、村岡さん」
稲沢が、教師らしく言った。
「だって、くやしかったんです……」
「それで殺した?」
田崎がすかさず言う。麻輝は、あわてて否定する。
「ち、違いますっ! それとこれとは別ですっ」
「そうかい。しかし、テストってやつは今後の進路を考えるうえで一番重要視されるからね……。だが、口論をしていたことは認めるね?」
「……はい……」
麻輝が肯定すると、田崎はユキトを見た。
「次は君だ、天川君。君は、もともと被害者とは折り合いが悪かったということだが……」
「それだけですか?」
「話は最後まで聞くものだよ」そして、海野を見た。「海野君、続きは君が言ってくれ」
「はい。天川君、君は生徒に批判的だった被害者とは、かなり仲が悪かったと聞いているけど、それは本当?」
ユキトはうなずいた。
「ええ」
「じゃあ、君が今度生徒会に提出するはずだった案を、決定直前に被害者の独断で却下されたのも事実だね?
「そうですけど、それだけで殺人まで……」
「わからんもんだよ、君」田崎が割って入ってきた。「ある意味、君は全生徒に対して恥をかいたことになる。こいつは屈辱的
だよ。それに、最近の高校生は何をするかわからんからね」
「でも……やってません」
「ふん」田崎は鼻を鳴らした。「次、稲沢さん」
「はい」
「あなたは、以前、被害者の神友さんとお付き合いをなさってましたね?」
そのことは裕太も知っていた。ちょっと前、学校で話題になったことがある。だから、稲沢の場合は、なぜここに呼ばれたのかは予想がついていた。
稲沢はメガネを押し上げながら、静かに肯定した。
「はい。少し前まで」
「ところが、神友さんに新しい恋人ができたために、ふられたそうですね」
「ええ」稲沢は、冷静に答えた。「それは本当です。でも、それは私たちの合意のもとでの結果です」
「しかし、だいぶ根に持っていたのではないですか?」
「いいえ」稲沢は首を振って否定する。「私、いさぎよい方なんです」
「なるほど……。では、次、中木さん」
「はい。警部さん、私には神友先生を殺す動機はありませんよ」
中木はハンカチで額の汗を拭いた。田崎はにやりと笑った。
「神友さんは、かなり荒っぽい指導の仕方をしていたため、再三教育委員会から注意されていたそうですね」
「え、ええ、まあ……」
中木はしどろもどろになりながら答えた。確かに神友は、生徒に対して親身になるタイプではなかった。彼に目をつけられて涙を流した者は、一人や二人では
ない。田崎は続ける。
「しかも神友さんはその注意には従おうとしなかった。そうなると、苦しい立場にたつのは、教育委員会と教師との間にいる校長です。神友さんは言うことを聞
かない、上からは管理責任を問われる……。かなりストレスもたまっていたでしょう?」
「いえ……そんなことは……」
「人間ってのは、追いつめられると何をするかわかりませんからね……」
中木はハンカチで何度も額の汗をぬぐった。田崎は皆に向かって言う。
「さあ、というわけで、皆さんは、神友さんを殺害する動機をもっておられるのです」
「かなり強引だけど……」
ユキトがぼそりと言った。田崎は、
「うん? なんだって?」
ユキトは首をふった。
「いえ、なんでもありません」
「あ、そう」そして田崎は、思いついたように言った。「あ、海野君、もう一度報告書に目を通しておきたい。持ってきてくれないか」
「はい、わかりました」
そう言うと、海野は部屋を出て行った。
「ああ、そうだ」田崎は、思いついたように言った。「一つ皆さんにおうかがいしたいことがあったんです」
「なんでしょう?」
中木が尋ね返した。
「神友さんなんですけどね、タバコ、吸われていましたか?」
「はい、吸っておりました。職員室でもいつも」
裕太は、神友がいつもポケットにタバコを入れていたことを思い出し、つぶやいた。
「そう言えば、タバコ臭かったなあ」
「一部の生徒の間では、あだ名はニコチンでした」
麻輝が、顔をしかめていった。
「確かに、へビィ・スモーカでした」
稲沢も、神友のタバコ好きを認める。
「でも、それがどうかしたんですか?」
ユキトが尋ねた。
「いや、たいしたことではないんですが、現場に、使い終わったブックマッチのかすと、踏みつぶされたタバコが一本落ちていたもので……」
ブックマッチとは、マッチが紙にくっついていて、一本ずつ切り離して使うやつだ。ということはそのかすとは、切り離して使用したマッチ棒の燃えかすのこ
とで、踏みつぶされたタバコとはすいがらを踏みつぶしたものだろう、と裕太は思った。
田崎は、ひと息置くと、皆に問いかけた。
「ええと、神友さんは、いつもマッチでタバコに火をつけていたのですか?」
「はあ……」中木が答える。「確か、いつもマッチだったと思います」
「よくどこかのお店でもらってきてたようなやつを持ってました」
ユキトが言った。次に稲沢が思い出したように言う。
「あ、でも、車に乗っているときは、備え付けのライタを使っていました」
「ふうむ、なるほど、そうですか。それで、そのタバコなんですが、被害者のポケットから同じ種類のタバコが出てきたので、被害者自身が現場に捨てたものと
思っています」
「短気でしたからね」
稲沢がそう言うと、部屋のドアが開き、海野が入ってきた。
「警部、持って来ました」
田崎は振り向くと、海野の持ってきた書類を受け取った。
「ああ、ありがとう。ええと、というわけで、皆さんにはもうしばらくここにいていただきます。まあ、楽になさっててください」
はああ……つらいな……。裕太は憂鬱になった。
第四幕
昨夜の八時か……。裕太は、犯行推定時刻であるその時間帯のことを思い出していた。そう言えば……。
「急に雨が降ってきたな……」
裕太は、つい思ったことを声に出していた。
「なんだって?」
それを聞いた田崎が尋ねた。裕太は自分のひとりごとが聞かれたので、少し気恥ずかしかった。
「え? いや、昨日の八時って言ったら、急に強い雨が降ってきたな、と思いまして……」
「ふうむ」田崎はうなった。「確かにそうだったな。そう言えば被害者もずぶぬれだった。天気予報では終日絶対に降らないと言っていたが……」
「それに」海野も話に入ってきた。「そのせいでめちゃくちゃ気温が下がりましたよね。寒かったなぁ」
「ああ」田崎はうなずいた。「そして問題は、そのような状況の中で、被害者は誰と一緒にいたのか、ということだ」
そして田崎は、裕太たち一同を見渡した。
「ええと、ちょっと私たちは席をはずしますが、皆さんはごゆっくりしていてください」
そう言うと、田崎と海野は部屋を出て行った。残された裕太たちは、一斉にため息をついた。
「あああ、つかれた」
麻輝が言った。
「ほんと」裕太は麻輝に賛同した。「まったく、ついてないな……」
「こら、檜山君、不謹慎よ」
稲沢が注意した。裕太はぺこりと頭を下げた。
「うわ、すみません……」
「うーん」その横で、麻輝が小さく背伸びをした。「あっ、痛っ」
「どうしたの?」
裕太が心配そうに聞く。
「うん、ちょっとこの間から肩が痛くて……。もう大丈夫」
「しかし」中木が言う。「先生が殺害されたとなると、学校側にとっても大変なスキャンダルになりますね。今後の対策も考えておかないと……」
「まあ、校長先生まで……」
稲沢があきれたように言う。
「昨日の神友先生の様子ってどんなだった?」ユキトが一同に問いかけた。「何か変わったことはなかったかな?」
「変わったところねぇ」麻輝がつぶやいた。「いつも通りだったと思うけど……」
「別に何も気がつかなかったわ」
稲沢も麻輝に同調する。
「誰かと会うようなそぶりはなかったですか?」
ユキトがさらに質問する。
「うわぁ、天川君なんか刑事みたい」
麻輝が楽しそうに言う。ユキトも、にっこりと笑う。
「そうかな」
裕太はそのやりとりを見てムッとした。なんだよ、天川のやつ、いい気になりやがって……。
中木はユキトの質問に、ちょっと考えてから答えた。
「うーん、わからないねえ。第一、人の行動なんか、あまり気にしないからねぇ……」
「全然わからなかったけど……」
稲沢も首をかしげながら答える。中木はちらりと左手の腕時計を見た。
「ああ、もうこんな時間か」
「あ、校長先生」ユキトが中木の時計を見ながら言う。「いい時計ですね」
「え? ああ、まあそんなに高価なものじゃあないけどね……。よく、レンズに傷がつくんだよ……」
「でも」麻輝が言う。「神友先生って生きてるときはなんかうっとうしかったけど、いざ亡くなってみると……」
「さびしいもんだね……」
ユキトが後に続ける。
そんなやりとりをしているうちに、裕太はトイレに行きたくなってしまった。
「ちょっと、僕、トイレ行ってきます」
そう言うと裕太は、席を立って部屋を出た。
ドアを開けたところに、田崎と海野が立っていて、話をしていた。裕太は、そういえばトイレの場所を知らなかったので、二人に聞くことにした。
「あのう、すみません、トイレってどこですか?」
二人は振り向き、海野がその質問に答えた。
「ああ、トイレは、この廊下をまっすぐ行って、右に曲がったらすぐにあるよ」
「どうも」
裕太はおじぎをして廊下を歩き出したが、二人が話しを再開したので、それがどんな内容なのかが気になり、会話が聞こえるようにゆっくりと歩いた。
「……うーん、じゃあもう一度、現場の状況を洗いなおすところからはじめよう」
田崎がそう言うと、すぐに海野が思い出したように言う。
「あ、そうだ、それで思い出した。警部、鑑識から連絡がありまして、例のブックマッチのかすから、被害者の指紋が検出されたそうです」
「そうか」
裕太はそこで立ち止まった。ブックマッチのかすから指紋? ちょっと待てよ……。そして裕太は振り向くと、自分の感じた疑問を、二人の刑事にぶつけた。
「よくマッチ棒の燃えかすから指紋なんてとれましたね」
田崎は顔をしかめて裕太を見た。
「マッチ棒の燃えかすだって?」
「違うんですか?」
裕太が尋ねると、海野は笑いながら、
「ああ、君もかん違いしてたんだ。僕も最初聞いたときはそうだと思ったよ。マッチ棒の燃えかすだって」
すると、田崎は不機嫌そうな顔で、
「私が何か、誤解を招くようなことでも言ったかね?」
海野は、裕太に説明する。
「ブックマッチは知ってるだろう? マッチが紙にくっついていて、一本ずつ切り離して使うマッチ。それで、警部の言ったかす≠チていうのは、マッチを使
い切ったあとの、マッチのくっついていた紙のことだよ。その紙が落ちていたんだ」
「私はちゃんと『使い終わったブックマッチのかす』と言ったはずだ」
田崎が怒ったように反論する。裕太は、もう一つ気になったことがあったので、田崎に尋ねた。
「じゃあ、踏みつぶされたタバコというのは?」
「それはそのままだよ。ただ、火がつけられていなくて新しかっただけだ」
「新しかったですって? それも知りませんでしたよ。すいがらだと思ってましたよ」
「君たちが勝手にかん違いしただけだ。私は別に嘘を言ったわけでもない」
「まったく……」
待てよ、と言うことは……。裕太は手をあごに当てて考え込んだ。突然裕太が黙り込んだので、田崎は心配そうに話しかけた。
「おい、君、どうかしたのかね?」
そして裕太は、はっと顔を上げた。
「警部さん……」
第五幕
裕太は、田崎、海野と一緒に部屋に戻ってきた。
「お手洗い、行ってきたの?」
麻輝が聞いてきた。
「え?」裕太は、トイレのことなどすっかり忘れていたが、とりあえず返事をした。「ああ、うん」
田崎は、こほんとせきをすると、皆に向かって言った。
「えー、皆さんに重大な発表があります」
「なんでしょう?」
中木が聞いてきた。田崎は、なんともいえないような表情で言う。
「実は、この檜山君が、この事件の犯人がわかったと言うんです」
一同は、田崎のその言葉に、はっと息を呑み、裕太を見た。
「檜山君、本当なの?」
稲沢が聞いてきた。裕太はうなずいた。
「はい」
「檜山君、しっかりとした確証があるんだろうね?」中木は念を押す。「もし間違っていたら大変なことになるんだよ」
「ええ、わかっています」
「それで、誰なの?」
麻輝が尋ねた。次に田崎が催促する。
「さあ、早く説明してくれないかね?」
「わかりました。まず、あのときです、ある人物が怪しいと思ったのは」
「いつ?」
ユキトが尋ねた。
「ほら、警部さんたちが神友先生が殺されたことについて状況を説明していたとき。あのとき、ある人物が神友先生の死因を、こう尋ねました。『何が致命傷に
なったのか』。――『どうやって殺されたのか』ではなくて『何が致命傷になったのか』。まるで神友先生が何度も頭を殴られたのを知っているような言い方
じゃないですか? その人物は神友先生が何度も頭を殴られているのを知っていたから、致命傷になった部分だけを尋ねることができたんです」
「で、その人物とは……?」
海野が聞いてきた。
「はい。あのとき警部さんに『何が致命傷になったのか』と聞いたのは……稲沢先生、あなたです」
皆の目がいっせいに稲沢に向けられた。裕太はさらに付け加える。
「稲沢先生、あなたが神友先生を殺害したんです」
稲沢は困惑した表情で、
「檜山君、なんてこと言うの? 私が神友先生を殺しただなんて……。冗談でしょう?」
「いいえ、冗談ではありません」
「ひどいじゃない」稲沢は否定する。「そんなのただの言葉のあやでしょう。そんなことで人を殺人犯呼ばわりするなんて……」
「まあ、彼の説明も聞こうじゃないですか」
田崎が制止する。裕太は続けた。
「そして、次に考えたのが、なぜ神友先生は何度も殴られて殺されていたのか、です。まったく見当はずれのところまで、どうして殴られていたのでしょうか」
「それと私と何の関係があるの?」
「昨夜、犯行推定時刻に、ちょうど雨が降り始めました。しかし、天気予報では雨が降る予定ではなかった。つまり、犯人にしてみれば雨は予想外の展開、不測
の事態だったんです。だからもちろん傘なんかの用意もしていなかった」
「だからなんなのよ?」
「殺害を実行するとき雨が降っていたとなると、犯人は雨にぬれながら犯行におよんだことになります。ねえ、警部さん」
裕太は田崎に問いかけた。田崎は級に自分に振られたので、少し驚いたようだった。
「え? ああ。殺された場所は、雨をよけられるような場所ではなかった。雨が降っている中で殺されたんなら、犯人もぬれていただろう」
「どうも。稲沢先生、わかりますか?」
「そこまではわかったわ。でも、それが何?」
「本題に戻りましょう。なぜ何度も殴られていたのか。全然見当違いのところまで。それは――犯人が目標を正確に定めることができなかったからです」
「どういうこと?」
海野が聞いてきた。
「こう考えれば筋は通ります。犯人はメガネをかけていた」
一同は、稲沢の顔にかかっているメガネを見た。
「メガネのレンズが降り注ぐ雨でぬれていたんです。だから視界がはっきりしなくて、何度も頭を殴ることになったんです。もしくはこうも考えられます。昨夜
は雨のせいで急に気温が下がりました。先生は殺人という行為におよぶため、興奮状態にあり、異常に体温が上昇していた。外の気温と体温との違いのせいで、
レンズが曇ってしまったのかもしれません。どちらにしても、犯人にとっては、正確に頭を殴るためには妨げ
になったはずです」
「甘いわよ、檜山君。それだけじゃ、犯人はひょっとしたらメガネをかけている可能性がある、ということを証明しただけにすぎないわ。私が殺したという証拠
にはならない」
すると裕太は、テーブルの上に置いてあったカセットテープレコーダを手に取った。
「これが証拠です」
そして、さっきまで録音状態にあったテープを巻き戻した。
「何?」
稲沢が不安げに尋ねる。
「とにかく、お聞きください」
裕太はレコーダのスイッチを押した。皆は耳をそばだてて聞き入った。レコーダからは、田崎の声が聞こえてきた。
『現場に、使い終わったブックマッチのかすと、踏みつぶされたタバコが一本落ちていたもので……』
裕太はスイッチを切った。
「だから何?」
「ちょっとその前に……」そして麻輝の方を見た。「麻輝ちゃん、『使い終わったブックマッチのかす』って、なんだと思う?」
「え? マッチの燃えかすのことじゃないの?」
「じゃあ、天川君、『踏みつぶされたタバコが一本』、これはなんだと思う?」
「えっと、タバコのすいがらのことじゃないかな」
「校長先生もそうお思いになりますか?」
中木はうなずいた。
「ああ、そう思ったけど……」
稲沢はしびれを切らしたように、
「ちょっと、何が言いたいのよ?」
「僕もはじめはそう思っていたんです。燃えかすとすいがら。でも、さっき警部さんに聞いたら、これはマッチを使い切ったマッチのついていた紙と、まだ火も
ついていない新しいタバコだとわかったんです。おそらく犯人と一緒にいた神友先生は、まだ雨が降る前にタバコを吸おうとして、新しいタバコを一本とブック
マッチを取り出し、そしてマッチがなくなっていることに気づき、火がついていない新しいタバコに見切りをつけ、ブックマッチのかすと一緒にその場に捨て、
タバコを踏むつぶした。もったいないことですが。ちなみに、ブックマッチのかすからは神友先生の指紋が出ています、彼が捨てたことは間違いありません」
「私は間違ったことは言っていない」
田崎が憮然と言う。
「はい。しかし誤解を招く言い方です。僕も麻輝ちゃんも天川君もそして校長先生まで誤解していました。警部さんの説明では、そう聞こえても仕方ありませ
ん。しかし、一人だけちゃんと正解を知っている人がいました。稲沢先生、あなたです」
裕太はまたレコーダのスイッチを押した。
『……被害者自身が現場に捨てたものと思っています』
田崎の声。そして次は稲沢の声。
『短気でしたからね』
裕太はスイッチを切った。
「『短気でしたからね』。このセリフを聞いたとき、どうも妙だと思ったんです。何が短気なのか。そこで、どうしたらこんなセリフが先生の口から出るか、考
えてみたんです。するとこの言葉を言えるのは、タバコが火をつけられず、吸われないうち、新しいまま捨てられたことを知っていなければならない。そうじゃ
なかったらこんなセリフは言えません。みんながかん違いするような警部さんの不充分な説明で、どうしてそれがわかったんですか?」
皆は稲沢がどんな言葉を発するのか、緊張した面持ちで待っていた。すると、稲沢は急に笑いだした。
「ははははは、馬鹿ね、檜山君。私はね、警部さんの説明で、ちゃんとマッチのことがわかったのよ。マッチを使い切ったあとの紙だってね。何しろ、警部さん
もそのつもりで言ったんでしょ?」
稲沢は田崎を見た。田崎は、ばつの悪そうな顔で視線をそむけた。裕太は話を続ける。
「しかし、『短気』と言うためには、タバコが火もつけられずに捨てられたことを知っていなければならないはずですよ」
「だって、マッチがなかったら火をつけることはできないでしょう? マッチがなくて一緒にタバコが一本捨ててあったって聞いたら、火がついていないってわ
かるわよ」
裕太は稲沢を凝視すると、ゆっくりと口を開いた。
「……いいえ、そうとは限りません」
「え……?」
裕太はまたレコーダのスイッチを入れた。稲沢の声が流れる。
『でも、車に乗っているときは、備え付けのライタを使っていました』
裕太はスイッチを切る。稲沢は裕太を見つめた。
「……どういうこと?」
「わかりませんか? ひょっとしたら、神友先生は車に乗っているときにライタでタバコに火をつけて、現場――公園のことですが――で吸い終わってすいがら
を捨てたのかもしれない。そして二本目を吸おうとしてマッチがないのに気づき、そのかすだけを捨て、吸おうと思っていた二本目のタバコは火がないと知って
そのまましまった、という考え方だってできるんです。あなた自身がその可能性を証言しています」
稲沢は無言でうつむいていた。裕太はその稲沢に向かって、静かに言った。
「あなたは、現場で神友先生が火のついていないタバコとマッチのないブックマッチのかすを捨てているところを、見ていたんです」
一同は、黙っている稲沢の言葉を待った。稲沢はしばらくすると、小さな声で言った。
「……もういいわ。あなたの言うとおりよ」
「……動機はやはり、ふられたこと、ですか?」
「そう……。くやしかったの。と言うより、プライドってやつ? 許せなかったの」
「神友先生はどうやって現場に?」
「私が呼び出したの。ふった女の言うこと聞いてのこのこ来るから……」
「あなたはどうやって現場に?」
「私は自分の車で。スパナ持ってね」そして稲沢は、少し上を見た。「でも、やっぱり雨が降ったのは計算外だったわね」
「もし降っていなかったら、どうでした?」
「うまくいってたわよ。一発でしとめてたわ」
「計画通りに行くとは限りませんからね」
裕太はさびしげに尋ねた。
「そうね……いい教訓になったわ。あと、あの人がマッチ取り出さなかったら……」
「口がすべりましたね」
「そうね……。散々よ。それに、まさかあなたに指摘されるとはね……」
「どうも」
裕太はぺこりと頭を下げた。稲沢はにっこりと笑った。
「今度から、コンタクトにするべきかしら?」
「また人を殺す予定があるのなら、おすすめします」
稲沢は小さくうなずくと、立ち上がり、田崎に言った。
「警部さん、もういいですよ」
田崎は稲沢に歩み寄り、
「じゃあ、あちらでお話しをうかがいましょう」
そして田崎と稲沢は、ドアに向かって歩き出したが、稲沢はその手前で立ち止まり、一同に向かって言った。
「ごめんなさいね」
二人は部屋をあとにした。それに続いて、海野が部屋を出ようとする。
「皆さん、ご協力ありがとうございました」
「あ、海野さん」裕太が呼びかけた。「テープレコーダ」
「あ。ありがとう」
レコーダを受け取ると、海野は部屋を出た。
「はあ、つかれた……」
裕太は、どっしりとソファに腰をおろした。
「すごいじゃない、檜山君」
麻輝が尊敬のまなざしで言った。
「いやぁ、そんなことないよ」
悪くない気分である。
「ほんと。警察より先に犯人見つけるなんて」
ユキトも言う。あったりまえだ。裕太は得意げになった。
「しかし……」中木が不安げに言う。「まさか稲沢先生が神友先生を殺害するなんて……」
確かにそうだ。これは深刻に受け止めなければならない問題である。しかしまあ、今は麻輝に憧れのまなざしで見られるという幸せにひたるとしよう、と裕太
は思った。
終
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